第2話 魔王と戦争
前線の整理と引き継ぎに二日。
そこから魔王領の首都ネザリアへ戻るまでに、さらに三日かかった。
ネザリアはいつも通り、薄暗い空の下で静かに息づいていた。
黒い尖塔がいくつも林立し、その中心に、ひときわ大きな城がそびえている。
城の土台は半ば、巨大な穴に飲み込まれていた。底の見えない深淵に、魔力と瘴気が渦巻いている。
だからこの街は、奈落都市と呼ばれる。
城門をくぐると、衛兵たちが一斉に片膝をついた。
「お帰りなさいませ、ルシアン様!」
上翼二枚のデーモン、四枚翼の魔導兵、角の生えたオーク、鋭い牙を持つビースト。
種族も姿もばらばらだが、俺を見る目だけは揃っていた。
次期魔王を見る目。
「警戒態勢は?」
「外縁部は通常どおりですが、中央区画はやや厳戒です。
陛下は城内にて、セラディアからの使節をお待ちで」
「使節、ね」
和平交渉を持ちかけてきたセラディア聖王国は、すでに使者を立てている。
その相手に、父上は直接会っている、ということだ。
「陛下は?」
「謁見の間におられます。すぐにお通しするようにとのご命令です」
「分かった。案内は要らない。自分で行く」
そう告げて、城の中へ足を向けた。
ネザリア城の廊下は、外の暗さとは別種の静けさに満ちている。
黒石で組まれた壁、魔力灯の青白い光、ところどころに刻まれた封印術式。
何度も歩いたはずの道なのに、今日は妙に遠く感じた。
◇
謁見の間の扉の前で、深淵の盾の兵が二人、無言で立っていた。
どちらも四枚翼のデーモンだ。八枚翼のアスモド将軍の直轄兵。
「ルシアン様。陛下がお待ちです」
片方がそう言い、重い扉を押し開けた。
高い天井。黒い柱。奥には、深淵を背負うようにして玉座が据えられている。
その玉座に、ひとりの男が腰掛けていた。
黒髪に、わずかに混じる白。
瞳は深い紅。
肩には黒いマント。鎧は身につけていないが、その気になればいつでも戦場に立てる、と誰もが知っている体躯。
魔王アルドラン・ルクスベルク。
俺の父だ。
「戻りました、父上」
ひざまずき、頭を垂れる。
少し間があってから、落ち着いた声が降ってきた。
「顔を上げろ、ルシアン」
言われたとおりに顔を上げると、父上と視線が合った。
戦場のような圧はない。ただ、底の見えない深さだけがある。
「無事の帰還、何よりだ。……前線の状況は?」
「予定どおり、ヴァルンの砦をひとつ落としました。
敵の損耗は大きく、しばらくは大規模な反撃は難しいかと」
「そうか」
父上は短く頷くと、玉座の肘掛けを軽く指で叩いた。
「お前が指揮した戦いだ。詳細は後で記録として聞こう。
今は、それよりも話さねばならぬことがある」
「……セラディアとの和平交渉の件、ですね」
俺が口にすると、父上はわずかに目を細めた。
「アスモドから聞いたのか」
「前線で勅命を頂きました。“戦線を離脱し、魔王城へ帰還せよ”とだけ。
交渉の話は……将軍が、少しだけ」
「ふむ。あの男も、口が軽くなったか」
父上の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「セラディア聖王国から正式な書簡が届いた。
三百年続いた戦争を終わらせたい、と。
領土線の再定義、捕虜の交換、宗教的な宣言の取り決め……条件は多いが、こちらが飲めぬものではない」
「これでも、今までよりは遥かにましだ。
かつてセラディアが示してきた“和平案”はどうだ?
魔王の自害、魔族の武装解除、各地に聖堂を建てて人間の神に跪け――
あれでは和平ではなく、降伏の強要にすぎぬ」
言われてみれば、過去に届いた書簡の文面を思い出す。
魔族は“邪悪なる種族”として罪を認め、呪印を刻み、教会の許しなく魔力の使用を禁ずる。
魔王家は罪を贖うために命を捧げ、その血をもって戦争を終わらせろ、と。
「だが今回の書簡には、“魔族の存続”そのものを否定する文言がない。
それだけでも、従来のものとはまるで違う」
「信じるのですか、人間を」
気づけば、言葉が先に出ていた。
セラディアは、聖戦を掲げて戦い続けてきた国だ。
“魔王は絶対悪。滅ぼさねばならない”と教え込まれた信徒たちの国。
その国が、今さら"まともな"和平を口にする。
父上は、即座に否定はしなかった。
「信じる、か……」
玉座から立ち上がると、ゆっくりと階段を降りてくる。
距離が近づくほどに、纏う魔力の重さが肌に感じられた。
「私は、人間そのものを信じているわけではない」
父上は俺の目の前で足を止め
しばし黙り込んだあと、ゆっくりと続けた。
「そもそも、この戦争が始まった頃の話を、今の者で正確に覚えている者などおらぬ。
三百年前、セラディアの教会が“魔族は瘴気を振りまく邪悪なる種族”と断じ、
国境沿いの魔族集落を《浄化》と称して焼いたのが最初だと記録にはある」
その光景を、俺は知らない。
だが、焼け落ちた村の絵と、そこに添えられた古い報告書を、書庫で何度も目にしてきた。
「当時の魔王は報復に出た。
聖地と呼ばれていた丘を焼き払い、教会の軍勢を蹴散らした。
それを今度は、セラディアが“魔王による侵略”と書き換え、聖戦を宣言した」
父上の声には、怒りというより、深い疲労が滲んでいた。
「それからは、どちらが先に剣を抜いたかなど、誰も気にせぬ。
互いに都合のよい部分だけを残し、子や孫に“憎む理由”だけを渡し続けてきた。
三百年戦っていれば、もはや最初の原因など、毒の味を隠す香辛料に過ぎん」
父上は、そこで静かに息を吐いた。
「だが、三百年の戦争は、魔族にも人間にも、もはや毒でしかない。
どこかで、誰かが線を引かねばならぬ。
その役目を、魔王が担ってはならぬ理由もないだろう?」
言葉は穏やかだったが、その奥には揺るぎないものがあった。
「……父上は、本当に戦争を終わらせたいのですね」
「そうだ」
即答だった。
「私は、お前に“永遠の戦争”しか残せぬ父でありたくはない。
ルクスベルクの名を継ぐ者には、“終わらせる役目”をも託したい」
「終わらせる、役目」
「そうだ」
父上は俺の肩に手を置いた。
その手は、戦場で剣も魔法も振るってきた手だ。それでも、俺に触れる力は驚くほど静かだった。
「セラディアとの交渉には、私が行く。
お前は、ネザリアと前線の再編を任されよ」
「……俺は、同行しないのですか」
「お前がいるべき戦場は、まだこちらだ」
父上は、はっきりと言った。
「和平交渉が成功すれば、次に必要なのは“戦時から平時への切り替え”だ。
兵をどう引かせ、どこに線を引き、どの国とどう向き合うか。
その形を整えるのは、お前の仕事になる」
「まだ成功したわけではありませんよ」
自分でも、少し刺のある言い方だと思った。
成功を願っていないわけではない。
ただ、安易に希望を口にしたくなかった。
「そうだな」
父上は、少しだけ楽しそうに笑った。
「だからこそ、両方の準備をしておく必要がある。
和平が成立した場合の準備と、成立しなかった場合の準備と、な」
その言い方に、ほんの僅かな不安が混ざったのを、俺は聞き逃さなかった。
「……いつ、出発されるのですか」
「数日内だ。セラディア聖王国は、和平予備会談の場として、中立地帯にある古い砦を指定してきた。
そこへ向かい、その後、正式な条約の締結を行う」
数日。
それは、思っていたよりずっと早い。
「ルシアン」
名前を呼ばれ、反射的に背筋が伸びる。
「お前は残忍さを恐れぬ。
情に流されて、敵に無駄な命をくれてやる真似もしない。
それは、魔王の器として間違ってはいない」
父上の声が、わずかに低くなる。
「だが、憎しみだけで国を治めることはできぬ。
戦うことと、終わらせることは別だ。そのことを、忘れるな」
「……肝に銘じます」
本心からそう答えた。
俺は、父上の理想を綺麗事だとは思っていない。
戦場で死ぬ魔族も、人間も、同じように血を流すのを、嫌というほど見てきたからだ。
だが同時に、人間を信用する気にもなれない。
その矛盾をどう処理するべきか、まだ答えを持っていない。
頭を垂れ、謁見の間をあとにする。
背後で、父上の気配がわずかに遠ざかる。
振り返れば、何かが変わってしまう気がして、そのまま扉を出た。
ネザリアの空は、いつもと変わらず暗い。
だがその暗さが、この先も変わらないとは限らない。
そんなことを考えてしまった自分に、少しだけ苛立った。
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