第17話 地下回廊の誓い
冷たい石の通路を、足音だけが進んでいく。
奴隷商の店の裏――ルナが「道」と呼んだ地下通路は、予想以上に狭かった。
大人一人がやっと通れる幅の廊下が、城壁の下へ向けて、じわじわと沈んでいく。
先頭は俺、そのすぐ後ろにルナ。
そのさらに後ろを、アバドと亜人たちが続く。
地下の回廊は、終わりがないように思えた。
湿った石の匂いと、遠くからぽたぽたと落ちる水音。
足音と息遣いだけが、細い道を埋めていく。
先頭はルナ。
小さな背中に、不釣り合いなほど大きい鍵束を抱えて、震える足で一歩一歩進んでいく。
そのすぐ後ろに俺。
その影にぴたりと重なるように、アバドの気配が寄り添っていた。
少し距離を置いて、亜人たちが続く。
先頭を行くのは、まだ背丈の低い獣人の少女ルナだ。
くしゃっと跳ねた茶色の長い髪と瑠璃色の瞳、頭の上でぴくぴく震える犬耳。
痩せた手足にぶかぶかの奴隷服が合っていないその姿は、どう見ても子どもと言っていい年頃だった。
その少し後ろを歩くのは、同じく獣人の少年ブラン。
ルナより頭ひとつ分ほど背が高く、幼さの残る顔立ちに、
それでも少年特有の骨ばった輪郭が出始めている。
筋肉はまだ細いが、走り慣れた足だけは妙にしっかりしていた。
鱗を持つ女マーヤは、他の誰よりも落ち着いていた。
目尻には細かな皺が刻まれ、首筋から肩にかけて淡い緑の鱗がところどころ覗く。
年を重ねた女特有のどっしりとした雰囲気と、場数を踏んだ者だけが持つ諦観と図太さが同居している。
褐色の肌に長い耳を持つダークエルフの青年ラガンは、細身の体に静かな緊張をまとっていた。
鍛えられたしなやかな筋肉と、まだ若いのに底まで冷めたような銀の瞳。
少年と呼ぶにはもう遅く、男と呼ぶにはまだ早い、その境目に立っている。
そして、一際大きな影を落としているのが、銀髪の獣人の女ガルネだった。
肩幅は人間の男と変わらず、腕も太腿も無駄なく盛り上がった筋肉で覆われている。
それだけでも十分な迫力なのに、胸元は布が張りつめるほど豊かで、
動くたびに衣服がわずかにきしんだ。
まだ若い顔立ちなのに、笑うと牙が覗き、その立ち姿は場慣れした傭兵そのものだった
皆、奴隷の首輪を失ったばかりの「元」奴隷だ。
黒炎で焼き切った刻印の痕が、まだ赤く残っている。
アバドの影は、いつもよりずっと薄かった。
「……影の手は、このくらいが限界です」
ひそやかな声が、俺のすぐ後ろから届く。
ルナたちに聞こえない程度の小ささで。
「聖剣の断罪術式の余波が、まだこの辺りまで残っています。
さっき、あなたを抱えて影渡りで下水に落ちた分も含めて、魔力の軸が焼かれたままです」
「さっきみたいに、騎士をまとめて影で喰うのは無理か」
「ええ。できても二、三人を“足止め”するのが関の山ですね。
聖都を完全に出て、“聖堂の影響圏”から外れない限り、本格的な影渡りは不可能でしょう」
現実的だが、気分のいい話じゃない。
さっきルナたちを連れてきた時点で、アバドはすでに限界を一つ超えている。
それでも――誰一人、今のところ脱落していない。
◇
「ルナ。どれくらい歩く?」
しばらく無言で歩いたあと、前を行く少女に声をかける。
ルナはびくっと肩を揺らし、振り向きかけてから、慌ててまた前を向き直った。
「え、えっと……その……」
「いい。落ち着いて思い出せ」
「……あの時は、えと、大人の人たちが“半日仕事だ”って言ってました。
ここから、まっすぐ、ずっと行って……
何回か曲がり角を曲がって、一番奥まで行って……
それから、長い階段をずーっと降りて……それで……やっと外に出されました」
半日。
大人の足で、だ。
今は、首輪の痕が残る子供たちと、半分怪我人みたいな俺たちが混ざった一隊。
どう考えても、もう少し時間がかかるだろう。
「……休憩を一度挟みましょう」
アバドが、周囲の壁を確認しながら言う。
「この先、少し広くなっている部分があります。
あそこで一度、息を整えたほうがいい」
「分かった」
俺はうなずき、後ろに声を飛ばした。
「少ししたら休むぞ。歩けるうちに歩け」
返事はまちまちだった。
「は、はい……!」
真っ先に応えたのはルナだった。耳をぴんと立て、震える声の奥に、それでも消えない決意が滲む。
「お、おう……」
ブランがその後に続く。情けなさそうに鼻を鳴らしながらも、拳だけはしっかり握りしめていた。
「ふん。あたしなら、まだいくらでも走れるけどね」
ガルネは肩をぐるりと回し、余裕を装うように笑ってみせる。汗に濡れた額を乱暴に拭いながら。
返ってきた声はばらばらだったが、そのどれにも――ここから先も「ついていく」という意志だけは、確かに宿っていた。
◇
少し進んだ先で、通路がぽっかりと広がっている場所に出た。
壁が外側にえぐれ、簡単な休憩所のようになっている。
天井は低いが、全員が腰を下ろせるだけのスペースがあった。
「ここで十分ほど」
アバドが周囲の影と水の気配を確かめてから、短く告げる。
皆、ほっとした表情でその場に腰をおろした。
ルナは膝を抱えて座り、ぷるぷる震えている足を両手で押さえている。
ブランは壁にもたれ、ぜえぜえと息を吐いた。
マーヤは足首をさすりながら、ぶつぶつと何かを呟いている。
ラガンは無言で目を閉じ、耳だけは周囲に向けている。
ガルネはあぐらをかき、筋肉質な腕で大雑把に汗を拭った。
俺は壁に背を預け、ゆっくり息を吐いた。
重い沈黙が落ちる。
その沈黙を、最初に破ったのはラガンだった。
「……一つ、聞いていいか」
褐色の肌に、夜目の利く銀色の瞳。
闇に慣れたその目が、じっとこちらを見据えている。
「さっきから気になっていた。
あんたを“様”付けで呼ぶ影の男。
さっき、奴隷商の胸を素手で抉った腕。
さっき焼き切ってくれた首輪の術式……」
ラガンの視線が、俺の指先――黒炎の痕がまだ残る手元に落ちる。
「……あんた、何者なんだ?」
他の連中も、一斉に息を呑んだ。
ルナも、ブランも。
マーヤも、ガルネも。
全員が、「知りたいけれど、口にしていいのか迷っている」顔をしている。
隠し続けられる話じゃない。
むしろ、ここで黙ったまま連れ回すほうが危険だ。
「……魔王アルドラン・ルクスベルクの息子だ」
できるだけ淡々と告げた。
余計な感情を挟めば、また喉が壊れそうだったからだ。
「お前たちの飼い主を焼いた“魔王”の、次期魔王だと……これまで勝手に呼ばれていた男だ」
沈黙。
次の瞬間、その沈黙が、目に見えるほど大きく揺れた。
「……は?」
ブランが間の抜けた声を漏らす。
「魔王陛下の……御子?」
マーヤの頬の鱗が、びくりと震えた。
「さ、さっき……上で、燃やされてたって、魔王さまの……?」
ルナが小さく呟く。茶色の耳が、信じられないと言わんばかりにぴんと立つ。
「じゃあ、聖堂で“処刑された”って触れ回られてる“魔王の子”が……」
ラガンの声が低くなる。
「そりゃあ、あのクソ奴隷商の心臓くらい、腕一本で潰すわけだ」
ガルネが、半ば感心したように鼻で笑った。
怯え。
戸惑い。
納得。
反応はばらばらだが――不思議なほど、「敵意」はなかった。
本来なら、こいつらから見れば俺も「人間側と戦ってきた魔王軍の一員」のはずなのに。
俺が考えるより早く、マーヤが口を開いた。
「……あたしたちの側じゃ、少し違う話が伝わってるよ」
鱗の浮いた首筋を、指先でさすりながら、マーヤはゆっくりと言葉を選ぶ。
「南の海沿いの鱗人の村にはね、古い歌がある。
“いつか深淵より来たる魔王が、鎖を砕き、海辺の子らを解き放つ”ってさ」
ブランも、うなずいた。
「俺の村にも……似たような昔話があった。
“人でも獣でもない王が、首輪を噛みちぎってくれる”って。
子どもの頃は、みんな“魔王さまが来てくれたらいいのに”って笑ってて……」
その笑いがどうなったかは、言わなくても分かる。
ルナが、おそるおそる口を開いた。
「……村のおばあちゃんが、よく言ってました。
“人間の旗の下じゃなく、深い闇の王の旗の下で走れたらいいねぇ”って。
だから、その……」
ルナは、一度きゅっと唇を噛んでから、俺を見上げた。
「怖く、ないです。
魔王さまの子だからって、怖くは……ない、です」
その言葉に、胸のどこかがちくりと刺された。
人間たちは「魔王が死ねば平和になる」と叫び、
亜人たちは「魔王が来れば鎖が外れる」と祈っていた。
同じ“魔王”を見ていながら、この差だ。
「……ダークエルフは、少し事情が違うがな」
ラガンが、壁にもたれたまま低く言った。
「俺たちは元々、聖王国とは別の戦争をしていた側だ。
森を割り、月の下で魔術を鍛え、森エルフどもと刃を交えてきた」
銀の瞳が、遠くの闇を見ているように細められる。
「ところが、あいつらは途中で聖王国と手を組み、
“光と森の同盟”なんて名前をつけてな。
俺たちは挟み撃ちにされて、森を追い出され、散り散りになった」
そこまで話してから、ラガンは自嘲気味に肩をすくめた。
「それからずっとだ。
聖王国の街でも、エルフの国の辺境でも、俺たちは“狩られる側”になった。
捕まれば、奴隷。生き残ったやつらは、世界中に散ったまま戻らない」
「……あんたは?」と問うと、ラガンは短く息を吐いた。
「俺は、小さな集落の“外れを見張る役”だった。
この先の森の奥、もう誰の地図にも載っていない場所に、隠れるように暮らしていた」
指先で、自分の長い耳をひとなでしてから続ける。
「ある日、聖騎士の一団が森を踏み鳴らして近づいてきた。
何度も嗅いだ、鉄と祈りの匂いだった」
銀色の瞳が、わずかに細まる。
「だから、集落に知らせる前に、俺一人で出た。
わざと姿を見せて、矢を撃って、派手に暴れて……“標的はここだ”と教えてやった。
集落から、できるだけ遠くへ引きずって行くようにな」
ラガンの口元が、苦い笑みに歪む。
「ま、うまくいったさ。
集落は見つからなかった。代わりに俺が捕まって、こうして聖都送りってわけだ」
そこで一拍置き、俺に向き直る。
「だから本音を言えば、俺にとって“魔王”ってのは、少し遠い存在だった。
森エルフとやり合っていた頃も、“深淵の王”はただの噂話でしかなかった。
けれど――」
ラガンは、じっと俺を見た。
「聖王国と組んだ“光の側”の連中が、あれだけのことをしたあとで。
焼かれながらも、人間に問いを突きつけた魔王と、やつの息子を“まとめて邪悪”と言われても、
正直、俺には首を縦には振れない」
マーヤが、うなずいた。
「こっち側からすればね、“魔王が死ねば平和になる”なんて話、誰も本気で信じちゃいないのさ。
魔王がいようがいまいが、あたしたちの首輪は増える一方だったからね」
ブランが、ぎゅっと拳を握る。
「騎士に言われたんだ。“魔王がいなくなれば、お前たちも楽になる”って。
でも実際は……村が焼かれて、父ちゃんも母ちゃんも殺されて、
俺だけ“売り物になる”って鎖をつけられた」
ルナが、小さく付け足す。
「聖都に来てから見たのは、“平和”じゃなくて……
首輪と、鞭と、血ばっかり、でした」
ガルネも、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「闘技場の檻の中じゃなおさらさ。
客席で笑ってるのは、大体“聖光の加護がどうの”って祈ってる連中だ。
あたしから見りゃ、“あいつらの神様”のほうがよっぽど血に飢えてる」
言われて初めて気づいた。
こいつらの視線の重さが、さっきまでと違うことに。
恐怖でも、諦めでもない。
何かを測り、決めようとしている目だ。
マーヤが、膝をついた。
鱗の混じる手を胸に当て、頭を垂れる。
「海沿いの縁から来た女マーヤ・イルド。
“鎖を焼いた魔王の御子”に敬意を」
続いて、ルナが慌てて真似るように膝をついた。
小さな両手で胸元を押さえ、耳をぺたりと寝かせる。
「ルナ・フェル……です。
首輪を壊してくれた、ルシアン様に……その、本当に、ありがとうございます……!」
ブランも、ぎこちない動きで頭を下げる。
「ブラン・コル。
親を殺した“人間側”じゃなくて――
首輪を外してくれた“魔王の側”に、俺はつきます」
ガルネは、少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らしてから、肩をすくめた。
「ガルネ・ドラン。
あたしは“強いほう”につくだけさ。
ただ――」
鋭い獣の目で、俺を真っ直ぐ見る。
「鎖を外したからには、途中で投げ出すな。
あたしら亜人種に伝わってる“魔王の伝承”を、裏切らないことだ」
最後に、ラガンがほんのわずかだけ頭を垂れる。
「ラガン・ヴェルド。
ダークエルフは、魔王を崇める種族じゃない。
だが――聖王国とエルフの旗の下で狩られ続けた身として、“あいつらの敵”に膝を折るのは、悪くない選択だと思っている」
銀の瞳が、僅かに笑う。
「森を追われた夜の民の一人として、“焼かれそこねた魔王の息子”に敬意を」
四人が膝をつき、ラガンだけが闇の中に立ったまま、しかし同じ向きで頭を垂れていた。
胸の奥で、何かが静かにきしむ。
父上が命を賭けて終わらせようとした戦争。
その和平の席で裏切られ、焼かれた先で――
焼け残った俺に、今こうして膝を折る者たちがいる。
「……勘違いするなよ」
喉がきしむのを無理やり押さえ込みながら、言葉を吐き出した。
「俺は、お前たちの“救世主”になりたくてここにいるんじゃない。
教皇も、聖堂も、この街も、人間も――まとめて叩き折るために生き残っただけだ」
胸の奥のどす黒い何かが、くつ、と愉快そうに笑う。
「そのついでに、お前たちの鎖も全部ぶっ壊してやる。
“いつか来る魔王”なんて曖昧な話じゃなくて――
俺がやったってことを、この世界に叩きつけてやる」
ルナが、涙で濡れた目でこちらを見上げた。
「……それでも、いいです。
誰がどういう理由で壊したって、首輪がもう戻ってこないなら……
私は、ルシアン様に、ついて行きます」
その言葉に、誰も反対はしなかった。
静かな敬意と、捨てきれない怒りと、細い希望だけが、狭い地下の空気の中に混ざり合っていた。
少し間を置いて、俺は口を開いた。
「……アバド」
影喰いが、こちらを見る。
赤い瞳の奥に、まだ消えきらない疲労の色があった。
「聖都を出たら、お前は”一人で”ネザリアに戻れ」
ルナたちが、一斉にこちらを見た。
「は?」ブランが思わず声を上げる。
アバドだけは、じっと俺を見ていた。
そして、低く短く言った。
「――お断りします」
きっぱりとした否定だった。
「今の私は、陛下とアスモド様から“あなたを守れ”と託されています。
ここで手放すわけにはいきません」
「状況が変わった」
俺は遮る。
「聖王国が裏切った。お前も馬鹿じゃない。わかるだろう?
セラディアだけじゃない。ヴァルン帝国とオルドラン商業連合も巻き込んだ“連合軍”が、
前線を叩きに来る」
「べリアルドが前線を抑え、
本当なら、聖剣契約を軸に停戦ラインが引かれるはずだった」
胸の奥がずきりと痛む。
「だが現実はこうだ。
“魔王不在”の今を狙って、連合軍が一斉に踏み込んでくる可能性が高い」
アバドは黙ってうなずいた。
「……その通りです。
陛下と私が最後にやり取りした報せでは、
ネザリアの前線は、ぎりぎり“睨み合い”のまま保たれていました。
聖剣契約が正式に結ばれれば、前線は凍結される――その前提で」
赤い瞳が暗闇の奥を見やる。
「ですが、聖王国は和平を反故にした。
聖堂魔術圏外の聖都から出れば、ネザリアに残した私の影に、
“聖堂での式典”の情報だけは送れますが……戦況を直接見て、
べリアルドとバルバロスに“裏切り”を告げ、防衛線を引き直す者が必要になる」
ラガンが低く唸る。
「つまり――このまま何も知らされなければ、
そのべリアルドってやつは“和平が成立した”と信じたまま、
対応が一歩遅れる可能性がある、ということか」
「はい」
アバドが短く答える。
「前線が抜かれれば、その先にあるのは、民の街と村です。
ネザリアも、補給線も、一気に焼き払われるでしょう」
言葉の重さは、誰にでも分かる。
俺は息を吐いた。
「だからこそ、お前が行くんだ」
「ですが――」
アバドが言いかけるのを、今度は俺が遮った。
「前線を捨てて、俺一人を守るつもりか?
それこそ“魔王領を丸ごと人間にくれてやる”って宣言になるぞ」
アバドの顎が、かすかに固くなる。
「……本音を言えば、私は残りたいです」
絞り出すような声だった。
「陛下から“お前の影もルクスベルクの盾の一部だ”と言っていただいた。
本来なら、私の居場所は、どこまでも“あなたの影”の中です」
胸が痛んだ。
「分かってる。
父上もアスモドも、お前に“俺を守れ”と命じた。
でも――」
喉の奥から、別の言葉を押し出す。
「前線を守る奴がいなきゃ、俺が帰る場所がなくなる。
ネザリアも、城も、アスモドがいた部隊も。
父上が命を賭けて繋いだものが、全部まとめて燃える」
沈黙。
アバドは視線を落とし、拳を握りしめた。
「……長距離の移動、影渡りができるのは、魔王軍では私一人です。
ネザリアへの直接跳躍も、前線への連続跳躍も、私以外には不可能。
それは事実です」
そこまで言って、アバドは顔を上げた。
「ですが、だからと言って“ここであなたから離れろ”と言われて、
はいそうですかと頷くほど、私は従順な道具ではありません」
「知ってる」
思わず笑いが漏れた。少しだけ苦い笑いだ。
「だから命令じゃなく、頼んでいる。
前線を守れ。ネザリアを守れ。
“魔王は焼かれたが、息子は生きている。勝手に線をいじるな、
帰る場所を残しておけ”と、べリアルドに叩きつけてこい」
アバドの目が、揺れた。
「ルシアン様――」
「俺はここで死なない。
お前がいなくても、生きて帰る。そう決めた」
それは自分への宣言でもあった。
「もし、それでも信じられないなら――」
そこで言葉を区切る。
ルナたちを振り返る前に、ルナのほうが先に立ち上がった。
「わ、私が……ルシアン様を、お守りします!」
茶色の耳をぴんと立て、ルナが叫んだ。
膝は震えているのに、その目だけは真っ直ぐだった。
「道は、私が案内できます。
地下も、外に出てからの森の影も、何度か荷物を運ばされたから、覚えてます。
転んでも……ちゃんと立ちますから!」
ブランが立ち上がる。
「俺も行く。
騎士と殴り合えるほど強かねえけど、走るのだけは得意だ。
ルナが転んだら引っ張り起こすし、背負ってだって走れる」
マーヤが肩をすくめる。
「この歳まで海と港を渡り歩いてきたんだ。
水の匂いと風の流れくらいは読めるよ。
それにこう見えて、魔術はそれなりに使えるよ」
ラガンも静かに立ち上がる。
「ダークエルフの目は、地上でも地下でも同じだ。
人間の巡回の“抜け”を読むくらいなら、まだやれる。
光を避ける道なら、俺の得意分野だ」
最後にガルネが、面倒くさそうに伸びをしてから、にやりと牙を見せた。
「正面からぶっ飛ばす役は、あたしの仕事だ。
鎧も槌もないけど、この腕と脚はまだ残ってる。
“魔王の坊ちゃん一人くらい”なら、ぶら下げたままでも走ってやるよ」
世界に捨てられた連中が、今度は俺を“届ける”と言っている。
アバドが、小さく息を吐いた。
笑いとも諦めともつかない、複雑な吐息だった。
「……ずいぶんと、心強い“臨時護衛隊”が集まりましたね」
そして、真っ直ぐ俺を見た。
「本当に、よろしいのですか」
「お前がいなきゃ死ぬようなら、そもそも魔王なんて名乗れないだろ?」
俺は、しっかりと拳を握りしめた。
「聖都を出たら、お前は一度、影の伝達でネザリアの“影”に状況を流せ。
それから自分の身体ごと、長距離の影渡りでネザリアに戻れ。
べリアルドとバルバロスに全部話して、前線を立て直せ」
アバドは目を閉じた。
しばしの沈黙ののち、低く告げる。
「――条件があります」
「言ってみろ」
「影を、一つ残させてください」
赤い瞳が、こちらを刺すように見据える。
「今の私は、聖剣術式の干渉と、先ほどの影渡りでかなり削られている。
長距離の跳躍を行うには、聖都の外で一度“聖光の残滓”を振り払う必要がある。
それでもなお、あなたの側から完全に離れるのは……どうしても、飲み込めません」
アバドは己の影を見下ろした。
「私の本体はネザリアへ向かう。
代わりに、“薄い影”を一つ、あなたの足元に潜ませる。
戦力としては心許ないが、最低限の警告と、影渡りの“呼び水”くらいにはなります」
「影を割るのか。そんな真似をすれば、長距離跳躍の負担は倍どころじゃ済まないぞ」
「承知の上です」
アバドは静かに答える。
「それでも――何も残さず背を向けることだけは、どうしてもできない」
俺は一瞬だけ考え、それから頷いた。
「いい。
影を置いていけ。
それでお前の足が千切れようが、骨が砕けようが――前線まで這ってでも辿り着け」
アバドの口元が、かすかに歪む。
「……相変わらず、容赦のない命令ですね」
「魔王の影なんだろ。
なら、“これくらいできて当然だ”って顔をしてろ」
そう言うと、アバドはほんの僅か、目を細めた。
「承知しました」
深く、深く頭を垂れる。
「ネザリアまで跳び、べリアルドとバルバロスに事の次第を伝え、
前線と魔王領を死守します。
――その間、どうか、生き延びてください。ルシアン様」
「ああ、約束だ。」
短く返す。
「父上のためにも、アスモドとマルシエルのためにも――
お前が守る“帰る場所”を踏みにじらないためにもな」
アバドの瞳が、静かに揺れ、それから決意の色で固まった。
「……御意」
◇
休憩を終え、一行はふたたび歩き出した。
ひたすら続く、石の回廊。
途中、何度も同じような分岐が現れ、そのたびにルナが記憶を頼りに進む方向を選ぶ。
「こっちです……たぶん……」
「“たぶん”はやめろ」
笑いながら言葉を返す。
「ご、ごめんなさい……でも、この匂いが、外に近い匂いで……」
確かに、空気が少しずつ変わっていくのが分かった。
湿った石の匂いに、土と草の気配がわずかに混ざり始める。
どれくらい歩いたのか、正確な時間は分からない。
ただ、足の感覚が麻痺し始めた頃。
前を行くルナが、ぴたりと立ち止まった。
「……あ」
「どうした」
「風が、します」
階段だ。
長い、長い上り階段が、闇の上へと続いている。
その上から、冷たい空気がゆっくりと降りてきていた。
「この上に、鉄の格子があって……その向こうが外です」
ルナの声が震える。
アバドが階段の手前で立ち止まり、影を伸ばした。
さっきまでより、ほんの少しだけ、影の密度が濃くなっている。
「聖堂術式の“鎖”は、かなり薄くなっています。
ですが、まだ“外”までは油断できません」
「敵は?」
「……五、六人分の金属音。
城壁外縁の見張りでしょう。
私の今の影では、“一斉処理”は不可能です」
前線に行く前に、ここで消耗させるわけにはいかない。
「なら、殴って黙らせる」
ガルネが、拳を握ってにやりと笑う。
「“魔王と愉快な元奴隷一行”の実戦試験には、ちょうどいい人数だ」
ラガンが苦く笑った。
「洒落になってないが、やるしかないな」
マーヤが腰を伸ばす。
「どうせあたしたち、もう追われる身だろ。
今さら聖騎士を数人倒したところで、変わりゃしない」
ブランが、震える足で立ち上がる。
「お、俺だって……やる。
殴るのは下手でも、足を引っかけるくらいはできる」
ルナが、喉を鳴らしながらも、小さくうなずいた。
「……私も、がんばります」
アバドが小さく息を吸う。
「では――私が一瞬だけ影で注意を散らします。
その隙に、一気に駆け上がってください」
「分かった」
階段を見上げる。
長く、暗く、先が見えない。
それでも、その上に「朝」があることだけは分かっていた。
◇
最後の突撃は、一瞬だった。
アバドが、階段の上の格子の隙間から、影を細い糸のように伸ばす。
その先で、聖騎士の一人の足元の影が、不自然に揺れた。
「……ん?」
警戒の声を上げる暇もなく、俺たちは階段を駆け上がる。
ガルネが先頭。
そのすぐ後ろに俺。
ラガンが側面に回り込み、マーヤとブランが下からサポートする。
ルナは、一歩後ろで転ばないように壁に手をつきながらついてくる。
鉄格子を、ガルネの蹴りが吹き飛ばした。
「なっ――」
驚く聖騎士の喉に、俺の拳が食い込む。
黒炎は使わない。
今はただの“肉体”で殴る。
刺突剣がこちらに向いた瞬間、ラガンの蹴りが手首をはね飛ばす。
マーヤが足元の石に水を走らせ、騎士のバランスを崩す。
ブランが背後から膝裏に飛びつき、無理やりひざまずかせる。
ガルネの拳が、兜ごと横から叩き割った。
五人。
六人。
数えきる暇もなく、狭い見張り台の上は、すぐに静かになった。
俺は息を荒げながら、城壁の外を見た。
そこには――林が広がっていた。
◇
朝だった。
聖都の城壁の向こう側。
低い林と草原が、朝焼けに染まっている。
湿った土と草の匂い。
遠くで鳥の声がした。
さっきまで地下で嗅いでいた、濁った水と石の匂いとは別物だ。
空は、何事もなかったかのように青くなり始めている。
昨日、父上が焼かれたのに。
アスモドとマルシエルが首を飛ばされたのに。
世界は、何事もなかったかのように、朝を迎えていた。
「……腹の立つ空だ」
思わず漏らした言葉に、アバドが小さく笑う。
「“世界は残酷だ”と嘆くには、少しだけ綺麗すぎますね」
俺は振り返った。
城壁の影の中。
アバドの影が、いつもより濃くなっている。
聖堂の結界から、完全に外れたのだ。
「……ここまで来れば、長距離の影渡りも“不可能”ではありません」
アバドが、静かに告げる。
「成功する保証はありません。
途中で影が千切れれば、その時点で私はただの死体ですが――」
「縁起でもないことを言うな」
遮ると、アバドは小さく肩をすくめた。
「では、縁起担ぎに一つ」
アバドは膝をつき、俺の足元の影に手をかざす。
黒い影が、わずかに揺れた。
「あなたの影に、私の“欠片”を一つ残します。
位置の把握と、最低限の伝達くらいしかできませんが――
それでも、完全に途切れるよりはマシでしょう」
足元が、ひやりと冷たくなる。
自分の影の中に、別の生き物が潜り込んでくるような感覚。
「気持ち悪いな」
「我慢してください」
アバドが立ち上がる。
ルナたちが、不安げな顔でこちらを見ていた。
「アバドさん……」
ルナが、おずおずと口を開く。
「気を付けてくださいね…」
「ええ」
アバドは珍しく、柔らかい声で答えた。
「前線に、伝えなければならないことが山ほどありますからね。まだ死ねませんよ。」
「……では、ルナ殿。ルシアン様をお願いします」
「は、はいっ!」
ルナが、びしっと背筋を伸ばす。
「皆さん、ルシアン様を頼みましたよ。」
アバドは、軽く首を垂れた。
最後に、俺を見る。
「……ルシアン様」
「何だ」
「必ず、生きていてください」
その言葉には、一片の冗談もなかった。
「城に戻ったとき、
“あの時一人で行かせたのは間違いだった”などと言わせないでください。」
喉が、少しだけ熱くなる。
「……お前こそ、死ぬなよ。
前線で“アバドがいたら助かったのに”なんて言われる真似はするな」
「善処します」
短い言葉を残し、アバドは一歩、城壁の濃い影へと足を踏み入れた。
影が、彼の足元から膝、腰、胸へとゆっくり飲み込んでいく。
最後に、片手だけを外に残し、軽く振った。
「では――ネザリアで」
その手も、闇に溶けた。
俺の足元の影だけが、ひやりとした温度を保ったまま、そこに残る。
◇
振り返る。
聖都セラディアの城壁が、朝日に照らされていた。
聖女と教皇の声が響いた大聖堂は、見えない。
だが、あの尖塔の向こうで父上が焼かれたことを、俺は知っている。
「行くぞ」
背を向けた。
ルナが一歩前に出る。
「こ、こっちです。
森のほうに行けば、追っ手も少しは減るはずです」
ブランがその隣につく。
マーヤとラガンが周囲を警戒し、ガルネが後ろからついてくる。
俺は、一行の少し後ろで歩き出した。
足元の影が、静かに揺れる。
その中で、アバドの欠片がまだこちらを見ている気がした。
魔王が焼かれた翌朝。
聖王国の民も教皇もまだ知らない。
城壁の外の小さな一行が、この先の世界にどれほどの“報復”を連れて帰るのかを。




