第16話 遺された者の選択
落ちていた。
光のない井戸を、底なしに。
父上の首が光に飲まれる瞬間も。
アスモドとマルシエルの首が飛ぶ瞬間も。
何度も、何度も、何度も、目の裏で再生される。
やめろ、と叫んでも止まらない。
喉が潰れるほど叫んだはずなのに、声はどこにも届いていない。
どくん、と胸の奥で何かが脈打つ。
黒炎でも、魔力でもない。
もっと深くて、もっと暗い何かが、ゆっくり目を開けようとして――
そこで、世界が唐突に止まった。
◇
「ルシアン様ッ!」
耳元で、誰かが叫ぶ。
背中に、冷たい石と水の感触。
腐った藻と汚泥と、血の匂いが鼻に刺さる。
目を開けると、暗闇の中で赤黒い影が揺れていた。
アバドだ。
影喰いの男が、ずぶ濡れの外套をはためかせ、こちらを覗き込んでいる。
「……ここ、は」
「聖都の下水です。城壁の外縁に近い区画を、影渡りで……」
最後まで聞く前に、身体が勝手に動いた。
上体を起こし、アバドの胸ぐらを掴む。
「戻るぞ」
喉が焼けているのか、声がひび割れている。
「今すぐ、あの聖堂に戻る。父上も、アスモドも、マルシエルも――」
「もう、いません」
アバドが、短く言った。
その一言が、刃物みたいに胸に刺さる。
「見たでしょう? もうあそこには何も残っていない。」
淡々とした口調だった。
けれど、その目の奥は血がにじむほど真っ赤だった。
「肉体も、魂も。聖剣と聖堂に、きれいさっぱり“処理”されていました。」
「嘘だ」
自分で言って、自分で分かる。
これは否定じゃない。ただの拒絶だ。
「父上は、あの程度で消えるような――」
言葉が途中で折れる。
あの光の中で、父上がまだ俺たちを庇おうとしていた姿が、目の裏をよぎった。
首を斬られる瞬間まで、誰かを守ろうとしていた背中。
アスモドが、血まみれで俺を投げ飛ばした腕。
マルシエルが、鼻血を垂らしながら術式に爪を立てた指。
全部、全部、全部――
聖光に焼かれて、消えた。
「そんなわけないだろうがあああああッ!!」
腹の底から湧き上がった声が、下水の天井を揺らした。
壁を殴る。拳が石にめり込み、皮膚が裂け、骨の奥まで鈍い痛みが走る。
もう一発。
もう一発。
血が飛び散る。
指が変な方向に曲がっていく。
それでも止まらない。
「なんでだ……なんで……!」
涙は出ない。
かわりに、喉が潰れるまで、声だけが迸る。
「なんで父上が焼かれて、あいつらが笑ってる……!
なんでアスモドが首飛ばされて、マルシエルが血吐いて、
教皇と勇者が“平和”とか抜かしてんだよ……!」
言葉がぐちゃぐちゃに混ざる。
怒りと、悔しさと、惨めさと、どうしようもない無力感。
それらがごちゃまぜになって、ただひとつの形になる。
復讐がしたい。
それだけだ。
教皇も、枢機卿も、聖騎士も、あの場で歓声を上げていた連中も――
まとめて、焼き尽くしたい。
「ルシアン様!」
アバドの手が、肩を掴む。
その手を、反射的に振りほどいた。
「お前が…… お前がもっと早く来ていれば……!」
口から、最悪の言葉が飛び出しそうになる。
アバドのせいだ、と。
影喰いが本気を出せばもっと早く――と。
喉の奥まで出かかったその言葉を、ギリギリで噛み殺した。
噛みしめた奥歯から、別の血の味が広がる。
「……っ」
アバドは、何も言わなかった。
頭を下げるでもなく、言い訳をするでもなく。
こちらの怒りと、醜い感情のぶつけどころになっていることを、そのまま受け止めていた。
それが、余計腹立たしかった。
「……なんで黙ってんだよ」
声が震える。
「“自分が遅れたせいだ”とか、“申し訳ありません”とか、なんか言えよ……!
そのほうが、まだ殴れるだろ……!」
「殴りたいですか?」
アバドが静かに言う。
「骨の一本や二本、折れても構いません。
それで陛下が、アスモドが、マルシエルが、戻るのなら、
私が死ぬまで殴っていただいて構いません!」
アバドは徐々に語気を強めて言い放った。
「……ッ」
笑いとも嗚咽ともつかない声が、勝手に漏れた。
自分が一番よく分かっている。
誰を殴っても、誰を責めても、父上たちは戻らない。
教皇を今すぐ殺したところで、逆に魔王領が袋叩きになる。
勇者の首を刎ねたところで、あの“世界システム”は止まらない。
分かっているのに、身体のどこかが「それでも壊したい」と叫んでいる。
殴るものがなければ、自分の拳でも壁でもいい。
何かを砕いていないと、正気を保てない。
「……ルシアン様。大切なものを失ったのは、あなただけではありません。」
アバドが、少しだけ声を低くした。
「私にとってマルシエルは良き友人でした。
どんな時でも彼女が“術式はですねぇ”としゃしゃり出てきて、
私に文句をつけてきた。何度、『うるさい、黙れ』と言ったか分かりません」
そこまで言って、アバドは小さく息を吐く。
「……でも、本当はありがたかったんです。
あの女がうるさく茶々を入れてくれるおかげで、見落としていた線に気づくことも多かった。
影と光、地下と塔。立っている場所は違っても、ずっと“同じ地図”を見ていたんですよ、私たちは」
血の滲んだ拳が、無意識に握りしめられる。
「そんなマルシエルが、最後の最後で、
自分の血を全部絞り出してまで守ろうとしたのが――あなたです」
アバドの眼差しが、闇の中で細く光った。
「アスモド様も同じです。
あの方は、私から見れば“戦うことしか知らない化け物”でしたが……それでも、
その視線はいつも、陛下とあなたのほうを向いていた」
短く笑う。笑い声なのに、掠れていた。
「影に潜って様子を見に行くと、訓練場でも戦場でも、必ずどこかに“あなたの位置”を確認していた。
敵の布陣より先に、味方の隊列よりも先に、まず“ルシアン様がどこにいるか”を見ていた人です」
アバドの声が、ほんの僅か震える。
「そんな男が、自分の足と内臓を聖光に焼かせながら、最後に選んだのが――“あなた一人”だった」
そこで、一拍置く。
「滑稽でしょう?
“陛下を優先しろ”と命じられていた将軍が、約束を破ってまであなたを投げ飛ばしたんですから」
ルシアンに返す言葉はなかった。喉が詰まり、うまく息が吸えない。
それでも、アバドは続けた。
「そして、陛下です」
その名を口にしたときだけ、アバドはほんのわずか頭を垂れた。
「陛下は、私のような陰湿な影喰いを、ただの“便利な道具”としてではなく、
“魔王軍の一員”として扱ってくださった方です。」
薄く笑い、肩をすくめる。
「“お前の影も、ルクスベルクの盾の一部だ”と、笑って言ってくださった。
それがどれだけ救いだったか、言葉にすると安っぽくなりますね」
暗闇のなかで、アバドは静かに息を吸った。
「そんな陛下が、最後に何を選んだか、あなたは見たはずです。
自分の命と引き換えに、“憎しみをこれ以上継がせるな”と、この世界に問いを投げた」
ルシアンの胸の奥で、何かがきしんだ。
「マルシエルは、術式を削ってあなたの鎖を浅くした。
アスモド様は、自分の身体を砕いてあなたを投げた。
陛下は、魂ごと焼かれながら、この戦争そのものに言葉の刃を向けた」
アバドの声が、ひた、とルシアンを縫い止める。
「それでも――まだ“自分一人の喪失”だと言い切りますか?」
沈黙が落ちる。
「私も失いました。影の中から何度も見てきた、うるさい悪魔も、
無茶しかしない将軍も、たった一人の冥王も。
だからこそ、私はあの方々の“遺した選択”だけは踏みにじりたくない」
アバドは、ルシアンの胸倉を掴んでいる手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「生きてください、ルシアン様。
自分の弱さを憎めばいい。
私が彼らを救えなかったことを、いくらでも恨めばいい。
人間の薄汚さを呪いたいなら、好きなだけ呪えばいい。
それでも――あなたは立っていなければならない。
どれだけ痛みに引き裂かれても、生きて…前に進んでください。
私たち魔族の先頭に立ち、この先の口を開けて待っている闇に、真正面から向き合う者が必要なんです。
なぜなら、あなたは“魔王になる男”だからだ。
私にはできない。他の誰にもできない。
ルシアン様……いえ、いずれ“魔王ルシアン”と呼ばれるあなたにしか、できないのです」
アバドは目にうっすら涙を浮かべ、震える拳を握り締めながら、噛みしめるようにそう言った。
「だから、生きるのです。立つのです。歩き続けるのです。
倒れてもなお、前を向いて立ち向かい続けるのです。
それ以外に――散っていった者たちが、報われる道はないのですからッ!」
胸の奥で、何かがぽきりと折れた。
それまで全身を焼いていたのは、怒りだった。
父上を殺した人間に対する憎しみ。
アスモドとマルシエルを奪った聖堂に対する呪い。
自分の無力さに向けた、どうしようもない自棄。
でも今、アバドの言葉が、そこに冷たい水をぶちまけた。
怒りの火が一瞬だけしぼんで、その下から、ぐちゃぐちゃに潰された何かが顔を出す。
胸の真ん中が、ゆっくりとひび割れていく感覚がした。
視界がじわりと滲んだ。
「あ……?」
思わず漏れた声は、自分でも情けないほど弱々しかった。
頬を伝うものの熱さで、ようやく理解する。
――俺、泣いてるのか。
悔しくて歯を食いしばったことは何度もあった。
怒りで喉が焼けるように痛んだことも、数えきれない。
でもこれは違う。
父上の言葉が、また頭の中で重なる。
――“終わらせることも知っている魔王でいろ”。
アスモドの言葉も、重なる。
――“前を見ろ”。
マルシエルの、ふざけた声も。
――“ルシアン様、大好きですからね”。
全部、全部、全部。
一つひとつが、容赦なく胸の内側を抉ってくる。
怒鳴ることもできない。
暴れる力も残っていない。
ただ、喉の奥から、どうしようもない悲鳴だけがせり上がってきた。
「……っ、ああ……」
声にならない声が漏れる。
握りしめた拳が震えて、爪が掌に食い込んだ。
それでも、こぼれ落ちる涙だけは止められなかった。
アバドが何も言わず、そっと視線を伏せる。
慰めの言葉も、哀れみも向けてこない。
ただ、俺が泣くことを、邪魔せずそこにいてくれていた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
胸の奥の何かが、少しだけ形を変えた気がした。
涙でぐしゃぐしゃになった視界のまま、俺は、かすれた声を絞り出した。
「……生きるよ……」
誰に向けてでもなく。
父上に。アスモドに。マルシエルに。
そして、今ここに立つ自分自身に向けて。
「生きる……俺は……」
言葉にした瞬間、喉がきしんだ。
それでも、もう一度だけ、ゆっくりと息を吸い込む。
「生きるよ……最後まで……」
怒りではなく、悲しみを抱えたまま。
それでも前に進むと、ようやく少しだけ、口にできた気がした。
「全部ぶっ壊す」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「教皇も、聖堂も、聖剣も、勇者も、あの偽りの平和も。
全部、全部、全部――叩き折ってやる」
その言葉を吐き出した瞬間、胸の奥の“ナニカ”が、嬉しそうに笑った気がした。
涙で熱くなった目元を乱暴にぬぐい、俺はうなずいた。
生きる、と言った以上、そのためにやることがある。
「承知しました」
アバドが、深く頭を垂れる。
「ではまず、そのための“一つ目の条件”を満たしましょう」
「一つ目?」
「聖都から、無事に出ることです」
現実的な言葉が、さっきまで軋んでいた頭を冷やしていく。
「聖堂での断罪が終わった今、聖都はきっと“祝祭”と“狩り”で満ちています」
「……狩り」
「ええ。“魔族残党狩り”です」
アバドの目が、静かにすっと細くなる。
「街道も城門も、聖騎士と治安部隊で固められるでしょう。
正面突破は、自分から首を差し出すようなものです」
「なら、裏から行く」
さっきまで震えていた喉で、それでもはっきりと言った。
「奴隷商だ。あいつらは、逃げ道を一番多く持っている。
汚い金の匂いがするところには、必ず“抜け道”がある」
「同意します」
アバドが、口元だけでかすかに笑う。
「では、“裏口案内人”を一人――捕まえに行きましょう」
◇
下水から顔を出した聖都の夜は、昼とは別の意味で騒がしかった。
聖堂側からは、祝宴の音。
笑い声と歌と、杯がぶつかる乾いた音。
魔王の死を祝う、愚かな熱気。
その裏側――スラム側の空気は、もっと重い。
怒鳴り声と、泣き声と、鎖の音。
聖騎士の鉄靴が石畳を打つリズムと、それに怯えて物陰に隠れる足音。
昼間見た奴隷市場の亜人たちが、今は裏路地で荷車を押し、樽を運び、床を磨いている。
首輪が光るたびに、肩がびくりと震えた。
「魔族を見なかったか!」
通りの向こうで、聖騎士が怒鳴る。
「影から現れたという報告がある!怪しい者を見たらすぐに“鈴”を鳴らせ!」
鈴――あの小さな聖刻鈴の音が、夜気を裂いていく。
叫び声と笑い声と祈りの声が混ざって、街全体が狂っているように感じた。
「……吐きそうだ」
思わず漏れた言葉に、アバドが横で頷く。
「正常な感想です」
そう言いながらも、彼の目は冷静に、路地と建物の影をなぞっていた。
「奴隷商は、この辺り一帯に“店”を持っています。
人間の商人たちが表でやっているより、もう一段階“黒い”連中です」
「そこを潰して、道を出させる」
「はい。ただし――」
アバドが一度足を止める。
正面の通りを、二人組の聖騎士が歩いていくところだった。
俺たちは建物の壁にぴたりと張り付き、息を潜める。
聖騎士の松明が、路地の入口を照らす。
その光がほんの少しこちらを向いた瞬間、アバドの影が地面から伸びた。
足元にぴたりと寄り添う影が、膝裏を切るように絡みつく。
銀の鎧が、音もなく崩れた。
振り向いたもう一人の喉に、すかさず別の影が巻きつく。
ぐ、と一瞬喉が詰まる音。
松明が落ちる前に、その火も影に呑まれた。
「……行きましょう」
アバドは、何事もなかったように言う。
倒れた二人の体の上に影が薄く被さり、一見、ただ眠っているだけのように見える姿へと“整えられて”いく。
それを見て、胸のどこかがまたひきつった。
父上を守れなかった影が、今は俺を守っている。
だからこそ――こんなところで捕まって死ぬわけにはいかない。
◇
「ここです」
アバドが、小さく顎をしゃくった。
聖堂区から離れた路地の一角。
昼間は通らなかった道の途中に、その店はあった。
看板には「雑貨」の文字。
だが、表からでも、薄く鎖の音とくぐもった声が聞こえてくる。
戸口の上には、小さな銀の鈴。
壁には、何度も付け替えられたであろう告知札の跡。
「“踏み込まれ慣れている”店ですね」
アバドがぼそりと言う。
「裏口も、逃げ道も、まず間違いなく持っている」
「じゃあ――」
扉に手をかけて押し開ける。
中は、下水とは違う種類の臭さだった。
汗と酒と、乾きかけた血の匂い。
皮をなめした臭いと、安い香草油の匂いが混ざり合って、むせ返るような空気を作っている。
壁には、首輪と鎖が整然と並べられていた。
棚には、刻印用の器具と、薬草と、聖刻を上書きするための怪しいインク。
カウンターの奥には、脂ぎった男が一人、帳面をめくっていた。
足元には、小さく震える影。
首輪をつけられた亜人が、一人、うずくまっている。
「閉店だ」
男は顔も上げずに言った。
「今日は祝宴だ。買い付けなら明日にしろ。今は――」
「聖都から出る抜け道を、全部吐け」
アバドの声が、それを遮る。
男の小さな目が、ぎょろりとこちらを向いた。
「……なんだァ?」
「密売品を扱うときに使う抜け道だ」
アバドは淡々と続ける。
「城壁の外縁に出る穴でも、地下道でも、全部だ。順路つきで」
男の顔が、みるみる赤くなった。
「テメェら何者だ……聖堂の犬か?それとも競合のクソ商人か?
どっちにしても、俺がそんなモン教える筋合いは――」
その瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。
こいつも“あっち側”だ。
聖堂の鐘を聞いて、笑って酒を飲んで、裏で亜人に首輪をつけて、逃げ道はちゃっかり確保して。
あの大聖堂で叫んでいた連中と、同じ匂いがする。
嫌悪が、怒りを追い越した。
「……聞こえなかったか?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
カウンターに歩み寄り、男の襟を掴む。
首輪をつけられた亜人が、びくりと震えた。
「な、なんだテメ――」
「教えろ」
襟を握る手に力を込める。
男の顔が苦しそうに歪む。
それでも、その目には“舐めた色”が残っていた。
「へっ、なんだ坊主。聖堂でちょっといいもん見て、血が上ったクチか?
教皇様の“断罪ショー”は楽しかったか?あァ?
魔王が焼けてざまぁみろって、ここらの連中みんな――」
そこで、何かがブチッと切れた。
「黙れ」
喉が勝手に動いた。
次の瞬間には、腕も勝手に動いていた。
胸倉を掴んでいた手が、そのまま男の胸を突き抜ける。
布が裂ける感触。
皮膚が千切れる感触。
肋骨が、指の間で砕ける感触。
手のひらに、暖かい塊が触れた。
それを本能的に握りつぶす。
ぐしゃり。
心臓が、一度だけ痙攣し、そのままぐずぐずと形を失った。
男の目が、ありえないほど開く。
口をぱくぱくさせながら、空気だけを吐き出す。
何かを言おうとしたのかもしれない。
だが、その「何か」が言葉になる前に、全身から力が抜けた。
体重が腕にのしかかる。
ゆっくりと手を引き抜くと、ぬるい肉片と血が、肘までまとわりついてきた。
――あ。
ようやく、自分が何をしたのかを認識する。
胸の奥が、少しだけすうっと軽くなった。
その代わりに、別の重さが、骨の内側に沈んでいく。
この程度じゃ足りない、という重さ。
「ルシアン様」
背後で、アバドが低く呼ぶ。
叱責でも、制止でもなかった。
ただ、「見ている」という気配だけがそこにあった。
「裏口は」
血でべっとりになった手を振り払うように、問いかける。
アバドは、男の懐から鍵束を抜き取り、奥の壁を探る。
何度か石を叩き、音の違う場所に鍵を差し込んだ。
重い音を立てて、壁がわずかにずれる。
狭い通路と、上下二方向に伸びる階段。
「一つは城壁の外、もう一つは街道の地下でしょう。
詳しい位置は、進みながら確認するしかありませんが……」
と言いかけたとき、別の音が耳に入った。
店の奥から。
鉄がこすれる、かすかな音。
◇
カウンターの脇の小さな扉を開けると、その先は、予想どおり檻部屋だった。
薄暗い部屋の中に、鉄格子がいくつも並んでいる。
中には、何人かの亜人が押し込められていた。
痩せこけた獣人。
耳に刻印を押された長耳。
鱗の一部が焼けただれている者。
皆、こちらを見ない。
足元を、ただ見つめている。
“見てしまえば、値段が上がる”。
あるいは、“見てしまえば、希望を持つ”。
そのどちらかを、本能で知っている目だった。
その一番奥。
他の檻よりひと回り小さな鉄格子の中で、うずくまる影がひとつ。
獣人の少女。
昼間、奴隷市場の台の端に座っていた子だ。
伏せた茶色の耳。
頬に走る細い傷。
首にはめられた鉄の輪と、その下に薄く浮かぶ刻印の痕。
暗闇の中で、琥珀色の瞳だけが、まっすぐこちらを見ていた。
喉が、ひとりでに鳴った。
昼間、あの奴隷市場で目を逸らしたときと同じだ。
違うのは――今度は、目を逸らせないこと。
足が、檻に向かって勝手に動いていた。
「……」
少女は、口を開きかけて、すぐに噛み締めるように閉じた。
何かを言えば怒鳴られる。
殴られる。
刻印を刺激される。
そういう経験を、何度もした目だ。
首輪が、かすかに光る。
奴隷刻印の術式が、肌の下で淡く揺れている。
昼間、マルシエルに「構造を教えてくれ」と頼んだときのことを思い出した。
――“壊すための見取り図として”。
あの約束は、まだ生きている。
「ルシアン様」
背後で、アバドが囁く。
「ここは長くいられません。聖騎士の巡回が、さっきの二人の異常にすぐ気づきます」
「分かってる」
分かっている。頭では。
でも、足は檻から離れない。
少女の視線が、僅かに揺れた。
期待か、諦めか、恐怖か。
全部混ざったような揺れ方。
胸の奥で、さっき目を覚ました“ナニカ”が、また笑った。
――どうする?
――また見て見ぬふりをするのか?
昼間、俺はそれを選んだ。
条約と和平と、父上たちの立場を優先した。
その結果が、あの断罪だ。
「……名前は」
気づけば、檻に手をかけていた。
少女が、びくりと肩を震わせる。
「お前の、名前は」
しばらくの沈黙のあと、小さく声が漏れた。
「……ルナ」
か細い声だった。
「ルナ・フェル……です」
ルナ。
“奴隷”じゃない。数字でも、刻印でもない。
一人の名前。
「ルナ」
もう一度呼ぶ。
少女の耳が、ぴくりと動いた。
琥珀色の瞳が、わずかに開く。
「ここを出る道を探している」
自分でも驚くくらい低い声が出た。
「城壁の外だ。
あのクソ奴隷商人が隠してた“穴”があるはずだ。そこを使って聖都から抜けたい」
言った瞬間だった。
「……あ、あのっ」
さっきまで震えていた獣人の少女――ルナが、びくっと肩を震わせながら、こちらを見上げた。
柔らかな茶色の耳が、緊張でぴん、と立っている。
「わ、私……」
喉の奥で何度か言葉がつかえ、それでも、ぐっと飲み込んでから続けた。
「私、その道……知ってます。
何回か、連れて行かれて……荷物運ばされて……」
檻の奥。
他の亜人たちが、一斉にルナを見た。
「ここの、裏の廊下の先に、隠し扉があって……
そこから、下に降りる階段があって……
外の、暗いところに出るんです……たぶん、城壁の下……」
言葉を絞り出すたびに、ルナの肩が小さく震える。
それでも、瞳だけは必死にこちらを見失わないようにしていた。
「だから……っ」
一度、唇をきゅっと噛む。
「だから、私を――連れて行ってください。
ちゃんと、案内しますから……!」
喉の奥で、何かが引っかかった。
臆病そうな声。
それでも、ここだけは譲れないとでも言うように、鎖を引きずりながら、一歩だけ前に出てきた。
俺は、檻に近づいた。
鉄格子に手をかける。
冷たい感触が、掌に食い込んだ。
「……分かった」
短く答える。
「お前は連れていく。
道案内をしろ、ルナ」
ルナの瞳が、ぱっと見開かれた。
「ほ、本当……に?」
「嘘をついて連れ出す理由はない」
そう言い切ってから、檻の中を見渡す。
ルナと同じ首輪をつけた亜人たち。
獣人、長耳、鱗の混じった者たち――数人。
さっきまで諦めた目をしていた連中が、今は一様に、こちらを見ていた。
憎しみでも、信頼でもない。
「次の言葉を待っている」目だ。
「……首輪のリンクは、もう切れているな」
死体になった奴隷商に一瞥をくれる。
心臓を素手で潰した感触は、まだ掌の奥に残っていた。
「所有者が死んだ時点で、刻印の主は不在。
ですが、術式そのものは残っていますね」
アバドが、淡々と言う。
「焼けますか?」
「焼く」
考えるより先に、口が動いていた。
指先に黒炎を灯す。
さっきまで聖光に押し込められていたそれは、今、空気を吸った獣のように静かに揺れた。
「動くなよ。初めてやるから、少し熱いかもしれないが我慢しろ」
ルナの首輪に指を近づける。
びくっと身を竦ませながらも、ルナはぎゅっと目を閉じ、震える手で鉄格子を握りしめた。
黒炎を、刻印の線だけになぞらせる。
じゅっ、と肉の焦げる匂い。
金属の焼ける音。
痛みを我慢するためにルナは唇を強くかむ。
首輪に刻まれていた術式の線が、一つ、二つと切れていく。
ぱきん、と小さな音を立てて――首輪が、勝手に外れた。
ルナの喉から、ひゅっと息が漏れる。
「……次」
俺は短く言い、隣の首輪に手を伸ばした。
黒炎が走るたびに、焦げた匂いと、鈍い金属音が地下室に積み重なっていく。
亜人たちの何人かは痛みにうめき声を漏らしたが、それでも誰も逃げようとはしなかった。
やがて、最後の一つが床に転がる。
そこにはもう、“所有者の刻印”はなかった。
ただの金属の輪だ。
「檻も、開けますか?」
「当たり前だ」
黒炎を、鉄格子の鍵穴に押し当てる。
金属が溶け、鈍い音を立てて崩れた。
ひとつ、またひとつ。
奴隷商の店の檻が、次々と開いていく。
解き放たれた亜人たちが、戸惑いきった目でこちらを見る。
「……聞け」
地下室に残った声を、全部まとめて飲み込むように、言った。
「今から聖都を出る。
城壁の穴まで、あの娘が案内する」
ルナの肩がびくっと跳ねる。
それでも、きゅっと唇を結び、うなずいた。
「ついて来れる奴は、来い。
聖都を出るところまでは、俺たちが前を切り開く」
一息置く。
「だが――走れない奴、ついてこれない奴は、置いていく」
静寂が落ちた。
「俺は今、“全部”は抱えきれない。
ここから先は、自分の足で選べ。
檻の中で腐るのか、それとも――首輪のないまま、どこかでまだ生きてみるのか」
誰かが、喉の奥でつばを飲み込んだ音がした。
ルナが、小さく震える声で言う。
「い、行きます……!
絶対、ついていきます……!」
その一言が、合図みたいになった。
「お、俺も……!」
「おれ、走るのは得意だ……!」
「私も、外に……出たい……!」
「……」
ばらばらに、だが確かに声が上がっていく。
全員ではない。
端のほうでうずくまり、まだ震えている者もいる。
それでも――何人もの足が、檻から一歩外へ出た。
「ルシアン様」
アバドが、静かに問いかける。
「置いていく者へ、なにか言葉を」
「……いらない」
即答した。
アバドが一瞬だけ目を細める。
そのまま続けるのを、俺はわざと間を空けてから、付け足した。
「言葉で慰めても意味がない。
ここから先、俺がやるべきことは一つだ」
喉の奥から、笑いとも咆哮ともつかないものがこみ上げる。
「教皇も、聖堂も、この街も。
あいつら全員を敵に回して――」
胸の奥で、黒い何かが愉快そうに笑った。
「ここに首輪をつけられていた連中が、二度と“売り物”にならない世界にしてやる」
ルナが、じっとこちらを見ていた。
昼間、市場で視線をそらしたときとは違う目だ。
「ついて来い、ルナ。案内しろ。」
「はいっ!」
ルナの返事は、驚くほどまっすぐだった。
アバドが影を伸ばす。
崩れた鍵と首輪を飲み込みながら、地下室の奥――隠し扉のほうへと道を描いていく。
俺たちはその先頭に立った。
その背後を、何人もの軽い足音と、鎖のなくなった足首の音が追いかけてくる。
聖都の夜はまだ終わっていない。
魔王が焼かれたその日の夜に。
聖堂も、教皇も、まだ知らない“脱出行”が、静かに動き始めていた。




