表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王降臨 奈落都市ネザリアから始まる人類征服戦記  作者: たゆたう
第一章 争いの無い世界を目指して

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/27

第16話 遺された者の選択

落ちていた。


光のない井戸を、底なしに。


父上の首が光に飲まれる瞬間も。

アスモドとマルシエルの首が飛ぶ瞬間も。


何度も、何度も、何度も、目の裏で再生される。


やめろ、と叫んでも止まらない。

喉が潰れるほど叫んだはずなのに、声はどこにも届いていない。


どくん、と胸の奥で何かが脈打つ。


黒炎でも、魔力でもない。

もっと深くて、もっと暗い何かが、ゆっくり目を開けようとして――


そこで、世界が唐突に止まった。





「ルシアン様ッ!」


耳元で、誰かが叫ぶ。


背中に、冷たい石と水の感触。

腐った藻と汚泥と、血の匂いが鼻に刺さる。


目を開けると、暗闇の中で赤黒い影が揺れていた。


アバドだ。


影喰いの男が、ずぶ濡れの外套をはためかせ、こちらを覗き込んでいる。


「……ここ、は」


「聖都の下水です。城壁の外縁に近い区画を、影渡りで……」


最後まで聞く前に、身体が勝手に動いた。


上体を起こし、アバドの胸ぐらを掴む。


「戻るぞ」


喉が焼けているのか、声がひび割れている。


「今すぐ、あの聖堂に戻る。父上も、アスモドも、マルシエルも――」


「もう、いません」


アバドが、短く言った。


その一言が、刃物みたいに胸に刺さる。


「見たでしょう? もうあそこには何も残っていない。」


淡々とした口調だった。

けれど、その目の奥は血がにじむほど真っ赤だった。


「肉体も、魂も。聖剣と聖堂に、きれいさっぱり“処理”されていました。」


「嘘だ」


自分で言って、自分で分かる。

これは否定じゃない。ただの拒絶だ。


「父上は、あの程度で消えるような――」


言葉が途中で折れる。


あの光の中で、父上がまだ俺たちを庇おうとしていた姿が、目の裏をよぎった。


首を斬られる瞬間まで、誰かを守ろうとしていた背中。


アスモドが、血まみれで俺を投げ飛ばした腕。


マルシエルが、鼻血を垂らしながら術式に爪を立てた指。


全部、全部、全部――


聖光に焼かれて、消えた。


「そんなわけないだろうがあああああッ!!」


腹の底から湧き上がった声が、下水の天井を揺らした。


壁を殴る。拳が石にめり込み、皮膚が裂け、骨の奥まで鈍い痛みが走る。


もう一発。


もう一発。


血が飛び散る。

指が変な方向に曲がっていく。


それでも止まらない。


「なんでだ……なんで……!」


涙は出ない。


かわりに、喉が潰れるまで、声だけが迸る。


「なんで父上が焼かれて、あいつらが笑ってる……!

なんでアスモドが首飛ばされて、マルシエルが血吐いて、

教皇と勇者が“平和”とか抜かしてんだよ……!」


言葉がぐちゃぐちゃに混ざる。


怒りと、悔しさと、惨めさと、どうしようもない無力感。


それらがごちゃまぜになって、ただひとつの形になる。


復讐がしたい。


それだけだ。


教皇も、枢機卿も、聖騎士も、あの場で歓声を上げていた連中も――


まとめて、焼き尽くしたい。


「ルシアン様!」


アバドの手が、肩を掴む。


その手を、反射的に振りほどいた。


「お前が…… お前がもっと早く来ていれば……!」


口から、最悪の言葉が飛び出しそうになる。


アバドのせいだ、と。


影喰いが本気を出せばもっと早く――と。


喉の奥まで出かかったその言葉を、ギリギリで噛み殺した。


噛みしめた奥歯から、別の血の味が広がる。


「……っ」


アバドは、何も言わなかった。


頭を下げるでもなく、言い訳をするでもなく。


こちらの怒りと、醜い感情のぶつけどころになっていることを、そのまま受け止めていた。


それが、余計腹立たしかった。


「……なんで黙ってんだよ」


声が震える。


「“自分が遅れたせいだ”とか、“申し訳ありません”とか、なんか言えよ……!

そのほうが、まだ殴れるだろ……!」


「殴りたいですか?」


アバドが静かに言う。


「骨の一本や二本、折れても構いません。

それで陛下が、アスモドが、マルシエルが、戻るのなら、

私が死ぬまで殴っていただいて構いません!」


アバドは徐々に語気を強めて言い放った。


「……ッ」


笑いとも嗚咽ともつかない声が、勝手に漏れた。


自分が一番よく分かっている。


誰を殴っても、誰を責めても、父上たちは戻らない。


教皇を今すぐ殺したところで、逆に魔王領が袋叩きになる。

勇者の首を刎ねたところで、あの“世界システム”は止まらない。


分かっているのに、身体のどこかが「それでも壊したい」と叫んでいる。


殴るものがなければ、自分の拳でも壁でもいい。

何かを砕いていないと、正気を保てない。




「……ルシアン様。大切なものを失ったのは、あなただけではありません。」


アバドが、少しだけ声を低くした。


「私にとってマルシエルは良き友人でした。

どんな時でも彼女が“術式はですねぇ”としゃしゃり出てきて、

私に文句をつけてきた。何度、『うるさい、黙れ』と言ったか分かりません」


そこまで言って、アバドは小さく息を吐く。


「……でも、本当はありがたかったんです。

あの女がうるさく茶々を入れてくれるおかげで、見落としていた線に気づくことも多かった。

影と光、地下と塔。立っている場所は違っても、ずっと“同じ地図”を見ていたんですよ、私たちは」


血の滲んだ拳が、無意識に握りしめられる。


「そんなマルシエルが、最後の最後で、

自分の血を全部絞り出してまで守ろうとしたのが――あなたです」


アバドの眼差しが、闇の中で細く光った。


「アスモド様も同じです。

あの方は、私から見れば“戦うことしか知らない化け物”でしたが……それでも、

その視線はいつも、陛下とあなたのほうを向いていた」


短く笑う。笑い声なのに、掠れていた。


「影に潜って様子を見に行くと、訓練場でも戦場でも、必ずどこかに“あなたの位置”を確認していた。

敵の布陣より先に、味方の隊列よりも先に、まず“ルシアン様がどこにいるか”を見ていた人です」


アバドの声が、ほんの僅か震える。


「そんな男が、自分の足と内臓を聖光に焼かせながら、最後に選んだのが――“あなた一人”だった」


そこで、一拍置く。


「滑稽でしょう?

“陛下を優先しろ”と命じられていた将軍が、約束を破ってまであなたを投げ飛ばしたんですから」


ルシアンに返す言葉はなかった。喉が詰まり、うまく息が吸えない。


それでも、アバドは続けた。


「そして、陛下です」


その名を口にしたときだけ、アバドはほんのわずか頭を垂れた。


「陛下は、私のような陰湿な影喰いを、ただの“便利な道具”としてではなく、

“魔王軍の一員”として扱ってくださった方です。」


薄く笑い、肩をすくめる。


「“お前の影も、ルクスベルクの盾の一部だ”と、笑って言ってくださった。

それがどれだけ救いだったか、言葉にすると安っぽくなりますね」


暗闇のなかで、アバドは静かに息を吸った。


「そんな陛下が、最後に何を選んだか、あなたは見たはずです。

自分の命と引き換えに、“憎しみをこれ以上継がせるな”と、この世界に問いを投げた」


ルシアンの胸の奥で、何かがきしんだ。


「マルシエルは、術式を削ってあなたの鎖を浅くした。

アスモド様は、自分の身体を砕いてあなたを投げた。

陛下は、魂ごと焼かれながら、この戦争そのものに言葉の刃を向けた」


アバドの声が、ひた、とルシアンを縫い止める。


「それでも――まだ“自分一人の喪失”だと言い切りますか?」


沈黙が落ちる。


「私も失いました。影の中から何度も見てきた、うるさい悪魔も、

無茶しかしない将軍も、たった一人の冥王も。

だからこそ、私はあの方々の“遺した選択”だけは踏みにじりたくない」


アバドは、ルシアンの胸倉を掴んでいる手に、ほんの少しだけ力を込めた。


「生きてください、ルシアン様。

自分の弱さを憎めばいい。

私が彼らを救えなかったことを、いくらでも恨めばいい。

人間の薄汚さを呪いたいなら、好きなだけ呪えばいい。


それでも――あなたは立っていなければならない。

どれだけ痛みに引き裂かれても、生きて…前に進んでください。

私たち魔族の先頭に立ち、この先の口を開けて待っている闇に、真正面から向き合う者が必要なんです。


なぜなら、あなたは“魔王になる男”だからだ。


私にはできない。他の誰にもできない。

ルシアン様……いえ、いずれ“魔王ルシアン”と呼ばれるあなたにしか、できないのです」


アバドは目にうっすら涙を浮かべ、震える拳を握り締めながら、噛みしめるようにそう言った。


「だから、生きるのです。立つのです。歩き続けるのです。

倒れてもなお、前を向いて立ち向かい続けるのです。


それ以外に――散っていった者たちが、報われる道はないのですからッ!」


胸の奥で、何かがぽきりと折れた。


それまで全身を焼いていたのは、怒りだった。

父上を殺した人間に対する憎しみ。

アスモドとマルシエルを奪った聖堂に対する呪い。

自分の無力さに向けた、どうしようもない自棄。


でも今、アバドの言葉が、そこに冷たい水をぶちまけた。


怒りの火が一瞬だけしぼんで、その下から、ぐちゃぐちゃに潰された何かが顔を出す。

胸の真ん中が、ゆっくりとひび割れていく感覚がした。


視界がじわりと滲んだ。


「あ……?」


思わず漏れた声は、自分でも情けないほど弱々しかった。

頬を伝うものの熱さで、ようやく理解する。


――俺、泣いてるのか。


悔しくて歯を食いしばったことは何度もあった。

怒りで喉が焼けるように痛んだことも、数えきれない。

でもこれは違う。


父上の言葉が、また頭の中で重なる。

――“終わらせることも知っている魔王でいろ”。


アスモドの言葉も、重なる。

――“前を見ろ”。


マルシエルの、ふざけた声も。

――“ルシアン様、大好きですからね”。


全部、全部、全部。


一つひとつが、容赦なく胸の内側を抉ってくる。

怒鳴ることもできない。

暴れる力も残っていない。


ただ、喉の奥から、どうしようもない悲鳴だけがせり上がってきた。


「……っ、ああ……」


声にならない声が漏れる。

握りしめた拳が震えて、爪が掌に食い込んだ。

それでも、こぼれ落ちる涙だけは止められなかった。


アバドが何も言わず、そっと視線を伏せる。

慰めの言葉も、哀れみも向けてこない。

ただ、俺が泣くことを、邪魔せずそこにいてくれていた。


どれくらいそうしていたのか分からない。

胸の奥の何かが、少しだけ形を変えた気がした。


涙でぐしゃぐしゃになった視界のまま、俺は、かすれた声を絞り出した。


「……生きるよ……」


誰に向けてでもなく。

父上に。アスモドに。マルシエルに。

そして、今ここに立つ自分自身に向けて。


「生きる……俺は……」


言葉にした瞬間、喉がきしんだ。

それでも、もう一度だけ、ゆっくりと息を吸い込む。


「生きるよ……最後まで……」


怒りではなく、悲しみを抱えたまま。

それでも前に進むと、ようやく少しだけ、口にできた気がした。


「全部ぶっ壊す」


自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


「教皇も、聖堂も、聖剣も、勇者も、あの偽りの平和も。

全部、全部、全部――叩き折ってやる」


その言葉を吐き出した瞬間、胸の奥の“ナニカ”が、嬉しそうに笑った気がした。


涙で熱くなった目元を乱暴にぬぐい、俺はうなずいた。

生きる、と言った以上、そのためにやることがある。


「承知しました」


アバドが、深く頭を垂れる。

「ではまず、そのための“一つ目の条件”を満たしましょう」


「一つ目?」


「聖都から、無事に出ることです」


現実的な言葉が、さっきまで軋んでいた頭を冷やしていく。


「聖堂での断罪が終わった今、聖都はきっと“祝祭”と“狩り”で満ちています」


「……狩り」


「ええ。“魔族残党狩り”です」

アバドの目が、静かにすっと細くなる。


「街道も城門も、聖騎士と治安部隊で固められるでしょう。

正面突破は、自分から首を差し出すようなものです」


「なら、裏から行く」


さっきまで震えていた喉で、それでもはっきりと言った。

「奴隷商だ。あいつらは、逃げ道を一番多く持っている。


汚い金の匂いがするところには、必ず“抜け道”がある」


「同意します」


アバドが、口元だけでかすかに笑う。

「では、“裏口案内人”を一人――捕まえに行きましょう」



下水から顔を出した聖都の夜は、昼とは別の意味で騒がしかった。


聖堂側からは、祝宴の音。


笑い声と歌と、杯がぶつかる乾いた音。

魔王の死を祝う、愚かな熱気。


その裏側――スラム側の空気は、もっと重い。


怒鳴り声と、泣き声と、鎖の音。

聖騎士の鉄靴が石畳を打つリズムと、それに怯えて物陰に隠れる足音。


昼間見た奴隷市場の亜人たちが、今は裏路地で荷車を押し、樽を運び、床を磨いている。


首輪が光るたびに、肩がびくりと震えた。


「魔族を見なかったか!」


通りの向こうで、聖騎士が怒鳴る。


「影から現れたという報告がある!怪しい者を見たらすぐに“鈴”を鳴らせ!」


鈴――あの小さな聖刻鈴の音が、夜気を裂いていく。


叫び声と笑い声と祈りの声が混ざって、街全体が狂っているように感じた。


「……吐きそうだ」


思わず漏れた言葉に、アバドが横で頷く。


「正常な感想です」


そう言いながらも、彼の目は冷静に、路地と建物の影をなぞっていた。


「奴隷商は、この辺り一帯に“店”を持っています。

人間の商人たちが表でやっているより、もう一段階“黒い”連中です」


「そこを潰して、道を出させる」


「はい。ただし――」


アバドが一度足を止める。


正面の通りを、二人組の聖騎士が歩いていくところだった。


俺たちは建物の壁にぴたりと張り付き、息を潜める。


聖騎士の松明が、路地の入口を照らす。


その光がほんの少しこちらを向いた瞬間、アバドの影が地面から伸びた。


足元にぴたりと寄り添う影が、膝裏を切るように絡みつく。


銀の鎧が、音もなく崩れた。


振り向いたもう一人の喉に、すかさず別の影が巻きつく。


ぐ、と一瞬喉が詰まる音。

松明が落ちる前に、その火も影に呑まれた。


「……行きましょう」


アバドは、何事もなかったように言う。


倒れた二人の体の上に影が薄く被さり、一見、ただ眠っているだけのように見える姿へと“整えられて”いく。


それを見て、胸のどこかがまたひきつった。


父上を守れなかった影が、今は俺を守っている。


だからこそ――こんなところで捕まって死ぬわけにはいかない。



「ここです」


アバドが、小さく顎をしゃくった。


聖堂区から離れた路地の一角。

昼間は通らなかった道の途中に、その店はあった。


看板には「雑貨」の文字。

だが、表からでも、薄く鎖の音とくぐもった声が聞こえてくる。


戸口の上には、小さな銀の鈴。

壁には、何度も付け替えられたであろう告知札の跡。


「“踏み込まれ慣れている”店ですね」


アバドがぼそりと言う。


「裏口も、逃げ道も、まず間違いなく持っている」


「じゃあ――」


扉に手をかけて押し開ける。


中は、下水とは違う種類の臭さだった。


汗と酒と、乾きかけた血の匂い。

皮をなめした臭いと、安い香草油の匂いが混ざり合って、むせ返るような空気を作っている。


壁には、首輪と鎖が整然と並べられていた。

棚には、刻印用の器具と、薬草と、聖刻を上書きするための怪しいインク。


カウンターの奥には、脂ぎった男が一人、帳面をめくっていた。


足元には、小さく震える影。

首輪をつけられた亜人が、一人、うずくまっている。


「閉店だ」


男は顔も上げずに言った。


「今日は祝宴だ。買い付けなら明日にしろ。今は――」


「聖都から出る抜け道を、全部吐け」


アバドの声が、それを遮る。


男の小さな目が、ぎょろりとこちらを向いた。


「……なんだァ?」


「密売品を扱うときに使う抜け道だ」

アバドは淡々と続ける。

「城壁の外縁に出る穴でも、地下道でも、全部だ。順路つきで」


男の顔が、みるみる赤くなった。


「テメェら何者だ……聖堂の犬か?それとも競合のクソ商人か?

どっちにしても、俺がそんなモン教える筋合いは――」


その瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。


こいつも“あっち側”だ。


聖堂の鐘を聞いて、笑って酒を飲んで、裏で亜人に首輪をつけて、逃げ道はちゃっかり確保して。


あの大聖堂で叫んでいた連中と、同じ匂いがする。

嫌悪が、怒りを追い越した。


「……聞こえなかったか?」


自分でも驚くほど低い声が出た。


カウンターに歩み寄り、男の襟を掴む。


首輪をつけられた亜人が、びくりと震えた。


「な、なんだテメ――」


「教えろ」


襟を握る手に力を込める。


男の顔が苦しそうに歪む。


それでも、その目には“舐めた色”が残っていた。


「へっ、なんだ坊主。聖堂でちょっといいもん見て、血が上ったクチか?

教皇様の“断罪ショー”は楽しかったか?あァ?

魔王が焼けてざまぁみろって、ここらの連中みんな――」


そこで、何かがブチッと切れた。


「黙れ」


喉が勝手に動いた。


次の瞬間には、腕も勝手に動いていた。




胸倉を掴んでいた手が、そのまま男の胸を突き抜ける。


布が裂ける感触。

皮膚が千切れる感触。

肋骨が、指の間で砕ける感触。


手のひらに、暖かい塊が触れた。


それを本能的に握りつぶす。


ぐしゃり。


心臓が、一度だけ痙攣し、そのままぐずぐずと形を失った。


男の目が、ありえないほど開く。


口をぱくぱくさせながら、空気だけを吐き出す。

何かを言おうとしたのかもしれない。


だが、その「何か」が言葉になる前に、全身から力が抜けた。


体重が腕にのしかかる。


ゆっくりと手を引き抜くと、ぬるい肉片と血が、肘までまとわりついてきた。


――あ。


ようやく、自分が何をしたのかを認識する。


胸の奥が、少しだけすうっと軽くなった。


その代わりに、別の重さが、骨の内側に沈んでいく。

この程度じゃ足りない、という重さ。




「ルシアン様」

背後で、アバドが低く呼ぶ。


叱責でも、制止でもなかった。


ただ、「見ている」という気配だけがそこにあった。


「裏口は」

血でべっとりになった手を振り払うように、問いかける。


アバドは、男の懐から鍵束を抜き取り、奥の壁を探る。


何度か石を叩き、音の違う場所に鍵を差し込んだ。


重い音を立てて、壁がわずかにずれる。


狭い通路と、上下二方向に伸びる階段。


「一つは城壁の外、もう一つは街道の地下でしょう。

詳しい位置は、進みながら確認するしかありませんが……」


と言いかけたとき、別の音が耳に入った。


店の奥から。


鉄がこすれる、かすかな音。





カウンターの脇の小さな扉を開けると、その先は、予想どおり檻部屋だった。


薄暗い部屋の中に、鉄格子がいくつも並んでいる。


中には、何人かの亜人が押し込められていた。


痩せこけた獣人。

耳に刻印を押された長耳。

鱗の一部が焼けただれている者。


皆、こちらを見ない。


足元を、ただ見つめている。


“見てしまえば、値段が上がる”。


あるいは、“見てしまえば、希望を持つ”。


そのどちらかを、本能で知っている目だった。


その一番奥。


他の檻よりひと回り小さな鉄格子の中で、うずくまる影がひとつ。


獣人の少女。


昼間、奴隷市場の台の端に座っていた子だ。


伏せた茶色の耳。

頬に走る細い傷。

首にはめられた鉄の輪と、その下に薄く浮かぶ刻印の痕。


暗闇の中で、琥珀色の瞳だけが、まっすぐこちらを見ていた。



喉が、ひとりでに鳴った。

昼間、あの奴隷市場で目を逸らしたときと同じだ。


違うのは――今度は、目を逸らせないこと。

足が、檻に向かって勝手に動いていた。



「……」


少女は、口を開きかけて、すぐに噛み締めるように閉じた。


何かを言えば怒鳴られる。

殴られる。

刻印を刺激される。


そういう経験を、何度もした目だ。


首輪が、かすかに光る。


奴隷刻印の術式が、肌の下で淡く揺れている。


昼間、マルシエルに「構造を教えてくれ」と頼んだときのことを思い出した。


――“壊すための見取り図として”。


あの約束は、まだ生きている。


「ルシアン様」


背後で、アバドが囁く。


「ここは長くいられません。聖騎士の巡回が、さっきの二人の異常にすぐ気づきます」


「分かってる」


分かっている。頭では。


でも、足は檻から離れない。


少女の視線が、僅かに揺れた。


期待か、諦めか、恐怖か。

全部混ざったような揺れ方。


胸の奥で、さっき目を覚ました“ナニカ”が、また笑った。


――どうする?


――また見て見ぬふりをするのか?


昼間、俺はそれを選んだ。

条約と和平と、父上たちの立場を優先した。


その結果が、あの断罪だ。



「……名前は」


気づけば、檻に手をかけていた。


少女が、びくりと肩を震わせる。


「お前の、名前は」


しばらくの沈黙のあと、小さく声が漏れた。


「……ルナ」


か細い声だった。


「ルナ・フェル……です」


ルナ。


“奴隷”じゃない。数字でも、刻印でもない。


一人の名前。


「ルナ」

もう一度呼ぶ。


少女の耳が、ぴくりと動いた。

琥珀色の瞳が、わずかに開く。


「ここを出る道を探している」

自分でも驚くくらい低い声が出た。


「城壁の外だ。

あのクソ奴隷商人が隠してた“穴”があるはずだ。そこを使って聖都から抜けたい」


言った瞬間だった。


「……あ、あのっ」


さっきまで震えていた獣人の少女――ルナが、びくっと肩を震わせながら、こちらを見上げた。

柔らかな茶色の耳が、緊張でぴん、と立っている。


「わ、私……」

喉の奥で何度か言葉がつかえ、それでも、ぐっと飲み込んでから続けた。


「私、その道……知ってます。

何回か、連れて行かれて……荷物運ばされて……」


檻の奥。

他の亜人たちが、一斉にルナを見た。


「ここの、裏の廊下の先に、隠し扉があって……

そこから、下に降りる階段があって……

外の、暗いところに出るんです……たぶん、城壁の下……」


言葉を絞り出すたびに、ルナの肩が小さく震える。

それでも、瞳だけは必死にこちらを見失わないようにしていた。


「だから……っ」


一度、唇をきゅっと噛む。


「だから、私を――連れて行ってください。

ちゃんと、案内しますから……!」


喉の奥で、何かが引っかかった。


臆病そうな声。

それでも、ここだけは譲れないとでも言うように、鎖を引きずりながら、一歩だけ前に出てきた。


俺は、檻に近づいた。

鉄格子に手をかける。


冷たい感触が、掌に食い込んだ。


「……分かった」


短く答える。


「お前は連れていく。

道案内をしろ、ルナ」


ルナの瞳が、ぱっと見開かれた。


「ほ、本当……に?」


「嘘をついて連れ出す理由はない」

そう言い切ってから、檻の中を見渡す。


ルナと同じ首輪をつけた亜人たち。

獣人、長耳、鱗の混じった者たち――数人。


さっきまで諦めた目をしていた連中が、今は一様に、こちらを見ていた。


憎しみでも、信頼でもない。

「次の言葉を待っている」目だ。


「……首輪のリンクは、もう切れているな」


死体になった奴隷商に一瞥をくれる。

心臓を素手で潰した感触は、まだ掌の奥に残っていた。


「所有者が死んだ時点で、刻印の主は不在。

ですが、術式そのものは残っていますね」


アバドが、淡々と言う。


「焼けますか?」


「焼く」


考えるより先に、口が動いていた。


指先に黒炎を灯す。

さっきまで聖光に押し込められていたそれは、今、空気を吸った獣のように静かに揺れた。


「動くなよ。初めてやるから、少し熱いかもしれないが我慢しろ」


ルナの首輪に指を近づける。

びくっと身を竦ませながらも、ルナはぎゅっと目を閉じ、震える手で鉄格子を握りしめた。


黒炎を、刻印の線だけになぞらせる。


じゅっ、と肉の焦げる匂い。

金属の焼ける音。

痛みを我慢するためにルナは唇を強くかむ。


首輪に刻まれていた術式の線が、一つ、二つと切れていく。


ぱきん、と小さな音を立てて――首輪が、勝手に外れた。


ルナの喉から、ひゅっと息が漏れる。


「……次」


俺は短く言い、隣の首輪に手を伸ばした。


黒炎が走るたびに、焦げた匂いと、鈍い金属音が地下室に積み重なっていく。

亜人たちの何人かは痛みにうめき声を漏らしたが、それでも誰も逃げようとはしなかった。


やがて、最後の一つが床に転がる。


そこにはもう、“所有者の刻印”はなかった。

ただの金属の輪だ。


「檻も、開けますか?」


「当たり前だ」


黒炎を、鉄格子の鍵穴に押し当てる。

金属が溶け、鈍い音を立てて崩れた。


ひとつ、またひとつ。

奴隷商の店の檻が、次々と開いていく。


解き放たれた亜人たちが、戸惑いきった目でこちらを見る。


「……聞け」


地下室に残った声を、全部まとめて飲み込むように、言った。


「今から聖都を出る。

城壁の穴まで、あの娘が案内する」


ルナの肩がびくっと跳ねる。

それでも、きゅっと唇を結び、うなずいた。


「ついて来れる奴は、来い。

聖都を出るところまでは、俺たちが前を切り開く」


一息置く。


「だが――走れない奴、ついてこれない奴は、置いていく」


静寂が落ちた。


「俺は今、“全部”は抱えきれない。

ここから先は、自分の足で選べ。

檻の中で腐るのか、それとも――首輪のないまま、どこかでまだ生きてみるのか」


誰かが、喉の奥でつばを飲み込んだ音がした。


ルナが、小さく震える声で言う。


「い、行きます……!

絶対、ついていきます……!」


その一言が、合図みたいになった。


「お、俺も……!」

「おれ、走るのは得意だ……!」

「私も、外に……出たい……!」

「……」


ばらばらに、だが確かに声が上がっていく。


全員ではない。

端のほうでうずくまり、まだ震えている者もいる。


それでも――何人もの足が、檻から一歩外へ出た。


「ルシアン様」


アバドが、静かに問いかける。


「置いていく者へ、なにか言葉を」


「……いらない」


即答した。


アバドが一瞬だけ目を細める。

そのまま続けるのを、俺はわざと間を空けてから、付け足した。


「言葉で慰めても意味がない。

ここから先、俺がやるべきことは一つだ」


喉の奥から、笑いとも咆哮ともつかないものがこみ上げる。


「教皇も、聖堂も、この街も。

あいつら全員を敵に回して――」


胸の奥で、黒い何かが愉快そうに笑った。


「ここに首輪をつけられていた連中が、二度と“売り物”にならない世界にしてやる」


ルナが、じっとこちらを見ていた。

昼間、市場で視線をそらしたときとは違う目だ。


「ついて来い、ルナ。案内しろ。」


「はいっ!」


ルナの返事は、驚くほどまっすぐだった。


アバドが影を伸ばす。

崩れた鍵と首輪を飲み込みながら、地下室の奥――隠し扉のほうへと道を描いていく。


俺たちはその先頭に立った。

その背後を、何人もの軽い足音と、鎖のなくなった足首の音が追いかけてくる。


聖都の夜はまだ終わっていない。


魔王が焼かれたその日の夜に。

聖堂も、教皇も、まだ知らない“脱出行”が、静かに動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ