第15話 ”平和”の鐘が鳴るとき
父上の体を包んだ光柱が、一瞬だけ世界の色を白く塗りつぶした。
時間が止まったような感覚のあと――最初に動いたのは、教皇レオニウスだった。
◇
白金の杖が、静かに床を叩く。
カツン、と澄んだ音が聖堂に響き、その直後、レオニウスはゆっくりとこちらを見た。
さっきまでの柔らかな微笑みとは違う。
薄く口角を持ち上げた、冷たい笑みだった。
「……始まったか」
小さく、誰にも聞こえないような声でそう呟き、教皇は父上を一瞥した。
燃えるような光の柱に縫い付けられた魔王を、まるで“よくできた祭壇の飾り”でも眺めるような目で。
そして、くるりと身を翻す。
広場側――聖堂の外に集まる、数万の民衆へと向き直った。
「――セラディアの民よ!」
張り上げた声が、聖堂の外へ向けて増幅される。
魔術によって拡声されたその声に、群衆のざわめきが一瞬で静まった。
「今、この聖堂において、“聖剣契約”は真の姿を現した!」
広場の空気が、ぴんと張り詰める。
誰もが息を呑み、聖堂の入口と教皇の口元を交互に見ているのが、ここからでも分かった。
「三百年!我らは祈り、戦い、耐え忍んできた!
魔王と共存できると信じた愚かな時代もあった!」
大仰な身振りで腕を広げる。
聖職者たちが、一斉にうなずき、聖句を小さく唱え始めた。
「だが――聖剣は告げた!
“邪悪の王、その魂は救済不能。断罪あるのみ”と!」
広場がざわめく。
驚愕とも、高揚ともつかない声が、波のように押し寄せてきた。
父上の体を包む光が、さらに強くなる。
拘束されているはずなのに、その背筋はまっすぐに伸びたままだった。
「レオニウス」
父上が、低く名前を呼ぶ。
喉を締め付けられているはずなのに、その声はよく通った。
「見事なものだな。和平を餌に、ここまで私を引きずり出しておいて……」
そこで言葉を切る。
紅い瞳が、教皇をまっすぐに射抜いた。
「――最初から、裏切るつもりだったか」
レオニウスの目元が、愉快そうに細められる。
「おや、まだ喋れるのですか」
さっきまで民衆に向けていた声色を、一瞬で変える。
今度は、こちらにしか聞こえないような、低く歪んだ声だった。
「さすがは“魔王”。
ですが――」
白い歯を見せて、にやりと笑う。
「黙って燃えていてくださいますかねぇ?この、邪悪なゴミが」
聖職者の、それも“教皇”の口から出るとは思えない言葉だった。
聖女アナスタシアが、わずかに肩を震わせる。
俯いたまま、組んだ指先に血がにじむほど力が入っていた。
◇
「魔王よ!」
レオニウスは再び顔を上げ、今度は広場へ向けて声を張り上げた。
「ここに宣言する!
“聖剣契約”とは、魔王とその一党を“魂ごと焼却し、この世から消し去る”ための断罪の儀であると!」
一拍の静寂。
次の瞬間、広場が爆発した。
「殺せぇぇぇ!!」
「魔王が滅ぶぞぉぉぉお!!」
「聖都に栄光を!聖光万歳!!」
叫び声が、幾重にも重なっていく。
恐怖ではなく、歓喜。
未知への怯えではなく、「自分たちは正しい側だ」と信じ切った陶酔の声。
それを煽るように、教皇はさらに続けた。
「見よ!聖光は彼らの魂を暴き、焼き尽くしている!
これは戦争ではない!“清め”であり、“浄化”だ!」
足元の術式が、ぎち、と軋む。
俺の体も、見えない鎖で祭壇に縫い付けられたように動かない。
「アスモド」
かろうじて声を絞り出すと、隣の黒鉄の鎧が微かに震えた。
「……動けん。
聖光で、魔力の流れごと封じられている」
低い声が、歯の隙間から漏れる。
目だけが、わずかに父上のほうへ向いていた。
「マルシエルは?」
「分析中、です」
マルシエルは、足元の術式を睨みつけていた。
虹彩が細かく震え、唇の内側を噛んで血が滲んでいる。
「第六階梯どころじゃない……
“世界に命令してる”レベルの術式ですよ、これ……」
震えた声に、笑いの気配は一つもなかった。
◇
「――勇者カイン」
教皇が、勇者の名を呼ぶ。
聖剣の柄に触れていた灰色髪の青年が、ゆっくりと顔を上げた。
「今こそ、聖剣の本来の役目を果たすときです。
“戦火の王”たる魔王の首を、その剣で落としなさい」
聖堂内の空気が、さらに冷たくなる。
カインは、すぐには動かなかった。
握った拳が、わずかに震えている。
唇の色が悪い。
指先から、血の気が引いていくのがここからでも分かった。
「……俺が聞かされていた契約は、“戦火の鎮静”のためのものだったはずです」
かすれた声で、勇者が問い返した。
「魔王を拘束し、二度と戦場に立てないようにする――
そういう“鎮静”だと説明を受けました。処刑の儀だとは、一度も……」
「そのためのものですよ」
教皇は、あっさりと言った。
「戦火の源を焼き尽くすことが、何よりも早い“鎮静”だ。
違いますか、勇者殿?」
「しかし――!」
カインがなおも言い募ろうとした、そのとき。
隣に立つガイウス枢機卿が、半歩だけ近づき、勇者の耳元に何かを囁いた。
内容は聞こえない。
だが、その一言がカインの顔色を決定的に変えたのは、はっきり分かった。
苦悶と、諦めと、何かへの恐怖が”ないまぜ”になった表情。
聖女アナスタシアは、ずっと俯いたままだった。
その頬を、一筋の涙が静かに伝う。
それでも、声は上げない。
――何を、強いられているんだ。
胸の奥で、言葉にならないざらつきが膨らんでいく。
「……分かりました」
しばらくの沈黙ののち、カインはかすかにうなずいた。
「罪を、背負いましょう。世界の代わりに」
その言葉は、自分に言い聞かせているように聞こえた。
彼は一歩、父上のほうへ進み出る。
聖剣の刃が、白く光を取り戻した。
◇
「待てッ!」
喉から、勝手に声が飛び出した。
動かないはずの喉が、悲鳴のような音を漏らした。
「やめてくれ……!父上から、離れろッ!」
足は一歩も動かない。
腕も、指先すら動かせない。
それでも、声だけは聖堂に響いた。
カインが、わずかにこちらを見る。
罪悪感に塗れた眼差し。
その視線から、彼はまた逃げるように顔をそらし――父上の前に立った。
聖光が、父上の肉と鎧と影をまとめて焼き上げていく。
それでも、父上は最後の力を振り絞るように、立ち上がり口を開いた。
「……人の子らよ」
焼け焦げる匂いの中で、その声だけが不思議なほど澄んでいた。
聖堂の天井に跳ね返り、広場の隅々まで届いていく。
「お前たちは、なぜそこまで我らを憎む」
ざわめきが、わずかにしぼむ。
「三百年。
魔族はお前たちの父を殺しただろう。
息子を、娘を、友を奪ったこともあるだろう」
一つひとつ、言葉を置くたびに、群衆のどこかで拳が震えるのが見えた。
肯定でも、否定でもない揺れ方だった。
「だが――」
父上は、焼きつくす光の柱の中で、ほんの少しだけ顎を上げた。
「魔族もまた、殺されてきた。
お前たちの刃で、炎で、祈りで、同じように家族を奪われてきた」
広場の空気が、きし、と音を立てた気がした。
「いつまで続けるつもりだ。
父が殺されれば、子が仇を取り。
子が殺されれば、そのまた子が憎しみを継ぐ」
父上の視線が、群衆を横一文字になぞる。
誰か一人を責める目ではなく、「ここにいる全員」をまっすぐに見渡す目だった。
「その先に、本当に“平和”はあるのか」
言葉は静かだった。怒号でも咆哮でもない。
ただ、三百年分の戦場を歩いてきた者だけが持つ重さだけが、そこに載っていた。
「憎しみを継がせるために、子を産んだのか。
争いを終わらせるために、子を産んだのか」
誰かが、喉の奥で息を呑む音がした。
石段の上から見下ろす群衆は、その一瞬だけ、波打つのをやめる。
罵声が止んだ。
掲げられていた拳が、わずかに下りる。
憎悪に歪んでいた顔に、戸惑いと迷いがじわりと浮かんだ。
――届いている。
焼かれていくはずの体でなお、父上の言葉はこの聖都に刻まれかけていた。
「……惑わされるな!」
その静寂を、教皇レオニウスの声が裂いた。
「見ろ!あれが“魔王”だ!」
杖の先が父上を指す。
法衣の袖が大きく広がり、その仕草に合わせるように、聖堂の術式が微かにうなった。
「甘い言葉で人の心を揺らし、罪を薄めようとする!
三百年、血と炎で世界を穢してきたのは誰か!
お前たちの村を焼き、家族を奪ったのは、あの“深淵の王”とその種族だ!」
揺らぎかけた心に、レオニウスの言葉が針のように突き刺さっていく。
「聖都の民よ、忘れるな!
憎しみを始めたのは我らではない!
我らはただ、“邪悪”を断ち切るために剣を取ったのだ!」
聖剣の根元から、聖音がぶるりと震えた。
祈りとも呪詛ともつかない、聖属性の響きが、人々の胸の奥へと染み込んでいく。
「これこそ“断罪”だ!
お前たちの子の未来を守るための、最後の裁きだ!」
誰かが震える声で叫んだ。
「……魔王を、殺せ……!」
その一声が、火種になった。
「殺せ……魔王を殺せ!」
「魔王を断て!」
「魔族を焼き払ええええ!」
さっきまで沈黙していた広場が、今度は別の熱で沸騰し始める。
薄れていきかけた憎悪が、聖堂の声に焚き付けられて、ふたたび炎を上げた。
父上は、それを黙って見ていた。
悔いではなく、ほんの少しの憐みが含まれた、何かを確かめるような視線だった。
父上は、聖光に焼かれながらも、まっすぐにカインを見据えていた。
「勇者よ」
低い声が、光の中から響く。
「これはお前の意志か」
カインの肩が、びくりと震えた。
「……世界の、意志です」
絞り出すように答える。
「ならば、お前はそれを選んだということだ」
父上は、静かに言った。
「背負え。決して、誰かのせいにするな」
その言葉に、勇者は目を閉じた。
そして父上は最期に、光の中でわずかに顔をこちらへ向け、かすれた声で囁いた。
「ルシアン……。お前を、誰よりも愛している。……すまな──」
勇者が――聖剣を振り上げた。
「やめろおおおおおおおおおおッ!!」
自分の声が、どこまで届いたのか分からない。
世界が、音を失ったように感じた。
振り下ろされた刃が、光の柱を貫き――
父上の首筋を、正確に、断ち切った。
血が弾けた。
けれど、それはすぐに白い光に飲まれ、煙すら残さず消えていく。
落ちたはずの首も、胴体も、塵ひとつ残らなかった。
聖剣と聖堂の術式が、そのすべてを“素材”として回収していく。
俺の中で、何かが音を立てて割れた。
◇
「やったぞおおおお!!」
「魔王が死んだぞ!!」
「勇者様万歳!!聖女様万歳!!」
広場から、歓声が押し寄せてくる。
悲鳴ではない。
喜びと熱狂の叫びだ。
「こーろせ!こーろせ!残りも全部殺せ!」
いつの間にか、そんなコールまで始まっていた。
魔王のいない祭壇に向けて。
まだ光の鎖に縫い付けられている、俺たちに向けて。
「……見たか、魔王の息子よ」
教皇が、ゆっくりとこちらを見る。
さっきまでは民衆に向けられていた笑みが、そのまま俺へと向けられた。
「これが“正義”だ。
お前たち魔族が、“敵”として三百年続けてきた戦争の、終わらせ方だよ」
「正義、だと……?」
声が震える。
「ただの、虐殺だろうが……」
「同じことだ」
レオニウスは、肩をすくめる。
「違うのは、“神が味方しているか”だけですよ」
その目と歪な笑顔には、これっぽっちの迷いもなかった。
「さぁ!」
杖を天に掲げる。
「魔王は滅びた!残るはその“種”のみ!
次期魔王、その随行戦力も、ここで断罪し、完全な平和を手に入れようではありませんか!」
広場が大合唱で再び揺れる。
「こーろせ!こーろせ!こーろせ!!」
怒号が、聖堂の壁を震わせた。
◇
足元の術式が、再び光を増す。
俺の周囲を取り囲んでいた光の輪が、さらに輝きを増し――
再び、あの無機質な声が頭の中で囁いた。
[UPDATE] 追加対象設定: node#05 “LUSSIAN” … ENEMY_HEIR
・処理モード: PURGE_RESERVE → PURGE_EXEC
・魂焼却キューに追加中……
(ふざけるな……)
歯を食いしばるが、身体は動かない。
世界そのものが俺を“燃やす側”に回ったような、圧迫感。
「……っ……」
喉の奥で、言葉にならない声が渦を巻いた、そのとき――
「――させませんよ」
かすれた声が、横から割って入った。
マルシエルだ。
血走った目で、足元の術式を睨みつけている。
その虹彩に、金色の線が細かく反射していた。
「こんな……一方的な術式……ッ」
唇を噛み切り、自分の血を指先ににじませる。
その血を、迷いなく床の上――聖堂の術式の線にこすりつけた。
「ルシアン様まで、勝手に燃やされてたまりますか……!」
聖と魔がぶつかった瞬間、火花のような光が弾けた。
血を媒介に、魔王領式の魔法陣が、薄く聖堂の術式の上に浮かび上がる。
「マルシエル、やめろ!その負荷じゃ――」
「黙っててください、アスモド様」
叫んだ途端、彼女の口元から血が噴き出した。
鼻から、耳からも、真っ赤な筋がつうっと流れ落ちていく。
血の混じった息を吐きながら、マルシエルがアスモドの言葉をねじ切る。
「……影が来ます」
囁くような声だった。
その一言で、アスモドの目がかすかに見開かれる。
「今まで、ずっと見てきたんですよ……!
陛下も、アスモド様も、ルシアン様も……」
床に突いた両手が震える。
白い石に、血がじわりと広がっていく。
「戦うことしか知らない世界を終わらせようとして、
それでも、誰かを守ろうとして……」
声が、掠れた。
「――せめて、最後くらい……!
わたしにも、“誰かを守らせて”くださいよッ!!」
足元の光が、一瞬、乱れた。
聖光の輪郭に、細かいひびが走る。
その瞬間を、アスモドが見逃すはずがなかった。
◇
「ルシアン」
隣で、低い声がした。
「覚えているか」
黒鉄の兜の奥から響く声は、かすれていた。
目の縁から、血の筋が二本、静かに頬を伝っている。
「ここに来る前の約束だ」
足を縫い付けていた鎖が、ぎちぎちと悲鳴を上げる。
それでもアスモドは、少しずつ、前へ体重を移していった。
――陛下を守るのか。ルシアン様を守るのか。和平を守るのか。
全部は、たぶん守れない。
あの時の会話が、そのまま蘇る。
『……父上だ。
和平でも、俺でもない。
お前の“仕事”は、何よりもまず父上を守ることだ。
そのために和平を壊すことになっても、構わない。
俺の代わりは、まだいくらでもいる。
けど――父上の代わりはいない』
「……守れなかったな」
アスモドが、ぽつりと呟いた。
「陛下を、俺の剣で守るって、あの時偉そうに請け負ったのに……
結局こうして、目の前で焼かせちまった」
足元の聖光が、彼の足を焼いていく。
それでも、彼は一歩分、鎖を引きちぎるようにして前に出た。
「すまん、ルシアン」
アスモドの紅い瞳が、揺らぎひとつなく俺を見据えていた。
「“陛下を優先しろ”って頼まれておきながら、俺は…」
黒鉄の籠手が、ぎゅ、と握られる。
全身の血管に、赤黒い魔力が浮かび上がった。
「だが――」
アスモドは、歯を食いしばりながら笑った。
「――お前だけは、ここで燃やさせねぇ。
魔王領がどうなろうが、世界がどう罵ろうが、
“ルシアン・ルクスベルクを殺させない”って約束を、”将軍権限”で勝手に結ばせてもらう」
その瞬間、彼の全身から魔力が爆発した。
聖光の鎖と、魔王軍最強のデーモンの魔力が、真っ向からぶつかり合う。
白と黒の火花が、鎧の隙間から迸った。
「アスモド……!」
「まだ、動ける。こんなものォ…」
彼は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「まだ――陛下から預かったものを、一つくらいは守れる……!」
眼窩から、血がどっと溢れた。
耳の奥からも、赤い筋が流れ出す。
それでも、前へ。
「マルシエル!」
アスモドが絶叫した。
「分かってますよッ!!」
マルシエルが、限界を超えた声を上げた。
床に叩きつけた両手から、血が噴き出す。
聖堂の術式に溶けた魔王領式の魔法陣が、強引にいくつかの線を“切り替える”。
「聖堂の、制御層……!
ここ、ここだけは……!ルシアン様を“燃やす側じゃなくて、見てる側”に……!」
全てを口にする余裕すらない。
ただ、血と魔力と根性だけで、彼女は術式に爪を立て続けた。
「アスモド様――今!
ルシアン様だけ、“鎖を浅く”しました……!今しか動かせません……!!」
「よくやった!」
鎧ごと、無理やり一歩を踏み出す。
足を縫い付けていた鎖が、悲鳴のような音を立ててちぎれた。
彼の全身に走っていたひびが、一気に広がる。
骨ごと砕ける音が、こちらまで伝わってきた。
「ルシアン!!」
巨大な腕が、ミキミキと鈍い音を立てながら俺の体を掴み上げる。
聖光の拘束ごと、力任せに引きちぎる。
「う、あ……!」
体が一瞬だけ自由になった。
呼吸が、荒く喉をすべって出ていく。
「生きろ……!」
耳元で、アスモドの声が炸裂した。
「陛下の意志も、俺たちの血も魂も、全部持って行け!
いつか……好きなだけ暴れて、好きなだけ泣け!
だから今は――“生きろ”」
黒鉄の腕が、俺を高く掲げる。
「アバドおおおおおおおおおおッ!!」
喉を裂くようなアスモドの咆哮が、この場の空気全体を震わせた。
次の瞬間、俺の体は、光と歓声の渦の中へと放り投げられた。
◇
視界が、ぐるりと回転する。
聖堂の天井、聖剣、教皇の顔、勇者の引きつった表情。
それらが一枚の絵のように混ざり合う。
広場が近づく。
民衆の顔が見える。
怒りに歪んだ口、興奮で赤くなった目。
その足元――影が、不自然に濃くなった。
「ルシアン様ッ!!」
地面から、黒い影が一気に盛り上がる。
人の形を取り、その腕が空中の俺を受け止めた。
影喰いのアバド――本体だ。
肩で荒く息をしている。
額には汗がにじんでいた。
「間に合……って……っ、くそ……!」
声が荒い。
いつもの軽口は一片もない。
アバドの視線が、ほんの一瞬だけ聖堂の祭壇へ向かう。
そこにはもう、父上の姿はなかった。
何も、残っていない。
「……遅れました。申し訳、ありません……陛下」
その小さな呟きのあと――アバドの表情から、温度が消えた。
周囲の民衆が悲鳴を上げる。
「魔族だ!!」
「影から――!」
その悲鳴は、次の瞬間、喉ごと飲み込まれた。
アバドの足元から広がった影が、半径数歩の人間たちの足を一斉に絡め取り――
音もなく、引きずり込んだ。
叫ぶ暇すらない。
影に触れた部分から、皮膚と骨と魂が、黒い泥のように崩れていく。
「道を開けろ」
掠れた声で、アバドが呟く。
命令ではなく、宣告のような声だった。
「邪魔をするなら、人でも石でも、全部沈める」
抱えた俺を、しっかりと腕に固定しながら、影をさらに広げる。
聖都の石畳が、薄く黒く染まっていった。
「離せ……!まだアスモドが!マルシエルが!」
体はまだ思うように動かない。
喉だけが、勝手に吠えている。
「殺す……あいつらを……コロスッ! 全部、殺す……ッ!!」
言葉にもならない言葉を、ただ獣のように叫んでいた。
「ええ。ええ。そうでしょうとも」
アバドの声も震えていた。
「この先やつらには、必ず”代償”を支払わせましょう。
しかし、今は――生き延びるのです。でなければ、陛下も、アスモド様も、マルシエルも…」
アバドが言葉を胸の奥深くに、グッと押し込む。
影が、俺たちを包む。
聖堂の石畳から、別の闇へと滑り落ちていく感覚。
その途中で、俺は振り返ってしまった。
◇
時間が、ゆっくりになる。
祭壇の上。
精魂尽き果てたアスモドが、肩で息を切りながら、片膝をついていた。
全身に走ったひびから、白い光が漏れている。
目から流れた血が、頬を伝って顎から滴り落ちる。
マルシエルも、同じように膝をついていた。
両手はまだ床に触れたまま。
指先から、血と魔力が混ざった液体が垂れ、石床に赤黒い紋様を描いている。
二人の首に、聖光の輪が生まれた。
教皇が、冷たい声で言う。
「残りもまとめて“清め”なさい」
聖騎士たちが、祭壇の周囲で一斉に剣を掲げる。
その刃に、聖剣の光が連鎖するように走った。
アスモドが、最後にこちらを見た。
光に焼かれながらも、ほんの少しだけ口元を歪める。
――前を見ろ。
声にならない言葉が、確かにそう告げていた。
マルシエルも、血の涙を流しながら微笑む。
――大好きですからね、私のルシアン様。
そんなふざけた台詞を、唇だけで形にしてみせる。
次の瞬間。
白い輪が収縮し――
二人の首が、同時に飛んだ。
血飛沫さえ、聖光に焼かれて消える。
残った身体も、父上と同じように塵ひとつ残さず、光の中へと溶けていった。
最後に見たのは、空中で回転するアスモドの兜と、マルシエルの赤い髪だった。
◇
視界が、闇に塗りつぶされる。
鼓動が、耳の内側で爆発するように鳴っていた。
怒りでも、悲しみでも、憎しみでもまるで足りない。
胸の中心。
心臓よりもさらに奥――どこか別の場所で、何かがゆっくりと目を開ける。
どす黒い、底なしの“ナニカ”。
世界中を焼き尽くしても足りないと、最初から信じているような、暗く深い何かが――
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
聖都の中心、大聖堂の鐘。
魔王が滅びたと世界に告げる“平和”の音。
けれど俺には、それがただひとつのものにしか聞こえなかった。
父上と、アスモドと、マルシエルのための、遅すぎた“葬送の鐘”。
祝祭の喧噪にかき消されながらも、何度も何度も、耳の奥を打ち続けるその音に合わせて――
胸の奥の“ナニカ”が、俺の中で静かに笑った気がした。




