第12話 白い聖堂
聖都セラディアの中心にそびえる大聖堂は、遠目に見たときよりも、ずっと白かった。
近づくほどに、光が強くなる。
白石の外壁は、磨き上げられた鏡のように空を映し、尖塔の先端には金の装飾が刺さっている。
空を渡る雲が、その金に反射して淡く揺れた。
聖堂前の広場には、既に多くの人が集まっていた。
人間の市民。貴族と思しき一団。その足元には、ごく自然な顔で首輪をつけた亜人の姿が混じっている。
誰もそれを不自然だと思っていない。
それが、この国の日常なのだということを、あの視線の歩き方が雄弁に語っていた。
魔王領には存在しない概念――奴隷。
その単語が頭の中に浮かぶたび、胃の奥が静かに軋む。
「ようこそ、大聖堂へ、魔王陛下。ルクスベルクの御子息も」
広場の先、長い階段の上。
蒼い法衣に金糸の刺繍を施した男が、恭しく一礼した。
ガイウス・ラヴェル。聖教会の枢機卿のひとりにして、今回の和平交渉の表の窓口だ。
顔立ちだけで言えば、父上よりいくぶん年長に見える。
ただ、人間の寿命と魔族のそれを同じ物差しで測ることはできない。
落ち着いた物腰。口元には常に微笑みを張りつけているが、やはりその瞳の奥の色は読みにくい。
「本日は、聖剣契約の場となる祭壇を、事前にご覧いただきたく」
ガイウスが両腕を広げる。
背後で聖騎士たちが、一斉に槍を掲げた。白銀の鎧に、青いマント。彼らの間をぬうようにして、俺たちは階段を上がっていく。
父上、魔王アルドラン。
その右後ろ、半歩下がった位置に俺が立つ。
前線指揮官として、そして次期魔王として、
外から見れば「魔王家のもう一つの影」として見える立ち位置だ
。
左側には、黒鉄の鎧をまとったアスモド。八枚翼の圧を、鎧の内側に無理やり押し込めている。
そのさらに後方寄りに、赤い魔導服のマルシエルが控え、書類の一切を預かっていた。
大聖堂の扉は、音も立てずに開いた。
内側から、冷たい空気と、微かな香が流れ出てくる。
香木と、油と、磨き込まれた石の匂い。魔王城の深淵の霧とは、まったく別の種類の「満ちた空気」だった。
中は、光の海だった。
高い天井。天井から下がる無数の燭台。
壁一面のステンドグラスが、外の光を受けて淡い色を床に落としている。
その色の上を、信徒と思しき人々が静かに歩き、祈りを捧げていた。
彼らの間を縫うように、亜人の従者や奴隷が、無言で床を磨き、蝋を取り換えていく。
「これが……」
思わず、声が低く漏れた。
奈落都市ネザリアの城は、深淵の霧と魔力で満ちているが、ここは別の意味で「詰まっている」。
聖なる歌の残り香。祈りの言葉。
そして、人の“期待”と“信仰”と呼ばれるものの、目に見えない層。
そういうものが、厚く塗り重ねられている感じがした。
「こちらが、聖剣契約を行う中央祭壇でございます」
ガイウスが、身振りよく示した先。
大聖堂のほぼ中央。段差を上がった先に、白い石で組まれた祭壇があった。
その上には、布に覆われた長台。台の中央に、一本の剣が横たえられている。
布越しでも分かる、重い気配。
「聖女様と教皇猊下、それに勇者カイン殿は、式典当日にここにお立ちになります。
魔王陛下と御子息には、こちら側の席をご用意しております」
ガイウスが示した先には、祭壇を挟んで向かい合う形で、二つの席があった。
一方にはセラディアの紋章。もう一方には、今回だけ特別に掲げられたルクスベルクの黒い旗。
「聖剣契約とは、聖剣を媒介に、互いの“戦火を鎮める”約定を結ぶ古い儀です。
署名者は、教皇、聖女、勇者、魔王、次期魔王、それに教会・貴族代表の枢機卿が数名」
ガイウスの声が、静かに大聖堂の中に流れる。
「双方の代表が聖剣に手をかざし、誓約文を唱えることで、
“戦火鎮静の術式”が発動します。簡単に申せば、
互いの領土を侵すために大規模な軍を動かそうとすると、
聖剣がそれを“拒む”仕組みです」
「聖剣が拒む、か」
父上が、低く反復する。
「ええ。聖剣に宿る“古の契約”が、マナの流れを阻害します。
具体的には、第五階梯以上の攻撃的魔術を、大規模に行使しようとすると、
術式の成功率が低下したり、魔術そのものが暴発したりする危険が高まるのです」
第五階梯。
人間側の基準で言えば、大魔術師級。
軍単位での攻撃魔術や、広域結界を構築できるレベルだ。
「それは、セラディア側にも同じ効力を持つのか」
父上の問いに、ガイウスは微笑みを崩さず頷いた。
「もちろんです、陛下。
聖剣は“戦火そのもの”を縛るのであって、一方だけを不当に縛るものではありません。
少なくとも、条文上は」
「条文上は、か」
隣で、マルシエルが小さく肩をすくめた。
「ルシアン様、あれ……見てください」
彼女が、聖堂の床を指差す。
光の差し込む石床。その一枚一枚には、細い線が刻まれていた。
線は祭壇から四方八方に伸び、柱の根元や壁の基部で交差している。
一見するとただの装飾だが、その交差の仕方には一定の規則性があった。
「術式……?」
「はい。人間側の“魔術式”です。
大聖堂の場合、建物全体がひとつの術式になっていると思ってください」
マルシエルは、しゃがみ込み、床の線にそっと指を沿わせた。
「ここが中枢。祭壇の下に、第六階梯相当の“戦火鎮静契約”が組まれているはずです。
で、この線が“対象範囲”。セラディア全土と、魔王領との国境線を囲う形で、マナの流れを縛っている」
「第六階梯……勇者級の魔術、だな」
「そうなりますねぇ。」
マルシエルは軽く笑ってから、少し真面目な顔つきに戻った。
「面白いのは、対象の“指定の仕方”です」
「指定の仕方?」
「ええ。
普通の“戦火鎮静契約”なら、『両国の軍事行動全般』をざっくり対象にするんです。
でも、ここの線の流れ方を見ると――」
マルシエルの指が、床から柱へ、柱から壁へと追っていく。
線は何度も折れ曲がりながら、最終的に祭壇の真下へと収束していた。
「――中心に、かなり強い“個別指定”が入ってますね。
契約の“鍵”になっているのは、おそらく聖剣と、その周囲に立つ主要参加者」
「主要参加者……」
俺は無意識に、自分の胸元に触れていた。
魔王。
次期魔王。
そして、勇者と聖女と教皇。
「まあ、魔王陛下クラスと、勇者・聖女クラスの戦力は、
どうしたって“別枠”で縛らないと意味がないですからね〜。
下手にフリーにしておくと、それだけで戦局がひっくり返りますし」
マルシエルは、あっけらかんとした声で付け加える。
「魔王領側にとっては、ちょっと“負担大きめ”の契約ですけど……
三百年戦争の経緯を考えれば、こういう形になるのも、まぁ、分からなくはないかな〜って」
言葉の端に、わずかな引っかかりがあった。
だが、彼女自身がさらりと流したので、俺も深くは追わなかった。
和平とは、どこかでこちらが飲み込むしかない部分の集まりだ。
それを分かっていて、ここに来ている。
「聖剣をご覧になりますか?」
ガイウスの声が、祭壇のほうから飛んできた。
いつの間にか、彼は布に覆われた台の横に立っている。
「聖女様と教皇猊下がおられない今、完全に鞘から抜くことはできませんが……
刃先の一部だけなら、お見せできます」
父上が小さく頷く。
ガイウスが布をめくると、重厚な鞘が姿を現した。
黒に近い深い碧の鞘。
その中央には、聖教会の紋章と、見慣れない古い文字が刻まれている。
「この聖剣は、“初代聖女”が天より授かったとされるものです。
刃そのものが、第七階梯に相当する術式と結びついております」
第七階梯――勇者級のさらに上。
人間側では、ほとんど伝説扱いの領域だ。
「陛下。御子息も、一歩前へどうぞ」
ガイウスが促す。
父上が先に一歩、祭壇に近づき、俺も後に続いた。
距離が縮まるにつれ、空気の質が変わっていく。
肌に、細かい針のようなものが突き刺さる感覚。
血の中の魔力が、ほんの少しずつ軋みを上げる。
胸の奥で、何かがざわついた。
――黒炎。
俺の中にある、魔王種特有の炎が、かすかに唸る。
燃え上がるのではなく、押し返そうとするような、鈍い抵抗の感覚。
「ルシアン」
父上の声が、隣から落ちてきた。
「大丈夫か」
「……平気です」
答えながら、喉が少しだけ乾いているのに気づいた。
聖剣は、まだ鞘に入ったままだ。
それでも、そこにある“何か”は、こちらを明確に認識している。
魔王。
魔王の血。
そういうものへの反応だろう、と頭では理解できた。
だが、同時に――
自分に絡みついてくる圧力が、父上のそれと、どこか違う種類のものに感じられた。
俺は、“完全に対象にされている”わけではない。
かといって、無視されているわけでもない。
その中途半端な感覚だけが、胸のどこかに小さな棘のように残った。
「……ふむ」
父上は、聖剣に視線を落としたまま、わずかに目を細める。
「これが、戦火を鎮める刃か」
「はい、陛下。
かつて“魔”と“人”の戦いを一度だけ止めかけた、古き契約の残滓<<ざんし>>でもあります」
ガイウスの声には、ほんのわずかに誇りの色が混じっていた。
「今回の和平条約が結ばれれば、この聖剣は再び、本来の役目を取り戻すでしょう」
◇
同じ頃。大聖堂の裏手。
陽のほとんど差し込まない回廊の片隅で、一枚の影が、別の影からすっと剥がれた。
黒衣の男――アバド・ネリウスの“影”だ。
床に落ちた細い影が、柱の足元を伝い、壁の亀裂を滑る。
やがて、祭壇のあるホールの裏側に続く廊下へと忍び込んでいく。
表の通路とは違い、こちらは人の往来が少ない。
時折、白衣の神官が書簡を抱えて走り抜けていくが、誰も影には目を留めない。
影は、やがて階段の前で立ち止まった。
薄暗い石段が、祭壇の下へと続いている。
その入口には、簡素だが強い結界が張られていた。
(……聖女領域、か)
アバドの意識が、影の中でつぶやく。
この先は、おそらく聖女や高位聖職者しか入れない区画だ。
そっと、結界の縁に触れる。
ぴり、と小さな痛みが走った。
影であるにもかかわらず、“そこにいる”と認識されかけた感覚。
(第六階梯……いや、それに近い質。
大聖堂全体の“戦火鎮静”とは別系統の術式が、ここにまとめてあるな)
聖属性のマナの匂いが、濃く渦巻いている。
だが、その底に、わずかに別のものが混じっていた。
濁った色。
魔族の瘴気とも違う、古い血のような気配。
(……古い儀式の残滓、か。
あるいは、過去の“魔王討伐”で使った何か、かもしれん)
そこまで考えて、アバドの意識は一度だけ静かに揺れた。
だが、それ以上は踏み込まない。
今はまだ、「疑い」を決定的な形にする段階ではない。
和平のために差し出されたこの場を、最初から全否定する材料を、軽々しく掴むべきではないと、彼も理解していた。
(陛下とルシアン様が、正面から握ろうとしている契約だ。
こちらは、裏側を“見える範囲”で見ておけばいい)
影は、結界の縁からそっと離れた。
祭壇の下から上へ、再び別の影を伝っていく。
白い聖堂の床を、ステンドグラスの色がゆっくりと移動していく。
その色の上を、見えない足音がすべっていった。
◇
「……どうだ、ルシアン」
大聖堂を一通り見て回ったあと。
外へ出る前、父上が小さく問いかけてきた。
広場からのざわめきが、扉越しに微かに聞こえてくる。
その向こうでは、奴隷の首輪をつけた亜人たちが、荷を運び、旗を掲げているはずだ。
「立派な聖堂ですね。
その威光を“和平”のために使うと言うのなら、悪くない話なのかもしれないです。」
自分でも、少し硬い声だと思った。
魔族と人間。
三百年の血の上に建てられた聖堂。
その白さの下に、どれだけのものが塗り込められているのか――
俺にはまだ、すべてを見通す目はない。
「そうだな」
父上は、短く頷いた。
「聖堂も、聖剣も、信仰も。
本来は誰かを救うための道具だ。
それが戦いのために使われてきたのなら……今度こそ、別の使い方を選ばせればいい」
その横顔には、戦場で見せる鋭さとは別の、静かな決意があった。
「ルシアン。
この契約は、紙と刃だけで終わるものではない。
お前の目と耳と、そして判断も、一緒にここに刻まれる」
「……はい」
答えると、父上はわずかに口元を緩めた。
聖堂の高窓から差し込む白い光が、黒マントの裾と紅い瞳の縁を淡く照らす。
しばしの沈黙のあと、父上は視線を祭壇から外し、まっすぐこちらを見た。
「……ここに来るまで、随分と無茶をさせたな、ルシアン」
「え?」
思わず間の抜けた声が出る。
そんな言葉をかけられるとは思ってなかった。
「前線の指揮に、奈落都市の執務。
難民の受け入れ、各国との境界線の調整……」
指折り数えるように、父上は静かに言葉を重ねる。
「本来なら、ああいうものは、もっと年月をかけて少しずつ覚えさせる類の仕事だ。
だが私は、お前に“いきなり全部”背負わせてしまった」
「それは……」
否定しようとして、言葉が喉で止まる。
事実として、そうだったからだ。
父上は、ふっと小さく息を吐いた。
「お前が幼い頃、私は戦場と執務机のあいだで手一杯だった。
お前の母が病で床に伏してからは、なおさらだ」
母上――
物心がつくかつかないかの頃に、寝台の白さと、冷たい手の感触だけを残して消えていった人。
断片的な記憶と、他人の言葉でしか知らない“母”の姿が、胸の奥でぼんやりと揺れる。
「本当なら、お前のそばにもっといてやるべきだった。
剣の構えも、文字の書き方も、街の歩き方も……私が教えたかった」
父上はそこで言葉を切り、わずかに目を伏せた。
「だが、現実にはそれを、アスモドやマルシエルやバルバロスに任せてしまった。
王としての務めを優先した、と言えば聞こえはいいが……」
紅い瞳が、もう一度だけ俺を射抜く。
「寂しい思いも、させたはずだ」
胸の奥が、きゅっと縮む。
否定したい気持ちと、うなずきたくなる自分が、同時にいる。
「……寂しくなかったとは、言えません」
正直に口にすると、父上の肩がわずかに揺れた。
それでも逃げず、俺の目を見たまま続ける。
「ですが、剣を教えてくれたのはアスモドで。
字を叩き込んだのはマルシエルで。
城下を一緒に歩いてくれたのは、バルバロスでした」
一つひとつ名前を挙げるたびに、昔の光景が浮かぶ。
訓練場の汗のにおい。
インクで真っ赤になった羊皮紙。
深淵の風と、屋台の煙。
「みんな、父上が俺をひとりにしないように、代わりにいてくれたんだと思っています」
父上は、その言葉を黙って聞いていた。
やがて、大きな手がそっと俺の肩に置かれる。
戦場で幾度も剣を振るってきた手。
それでも、今のそれは、幼い頃に熱を出して寝込んだ夜、額に置かれた手と同じくらい慎重で、優しかった。
「……それでもだ」
低く、噛みしめるような声。
「父として、もっとお前のそばにいたかった。
それが、私のわがままだろうと分かっていてもな」
紅い瞳の奥に、一瞬だけ揺れる影が見えた気がした。
魔王の顔ではなく、一人の男の弱さのようなものが、そこにあった。
「だが――」
父上は、ぐっと視線を強くする。
「その時間の代わりに、お前はよく耐え、よく学び、ここまで来た。
ネザリアも、前線も、今こうして私が聖都に立てているのも、お前がいたからだ」
言葉と共に、肩を支える手に、わずかに力がこもる。
「私の子として。
そして、次の魔王として」
ふっと、口元が柔らかく緩む。
「ルシアン。私はお前を誇りに思う」
胸の奥に、熱いものが一気に込み上げてくる。
喉が詰まり、すぐには返事が出てこない。
幼い頃、病室の扉の向こうで、父上の背中だけを見ていた日々。
遠くの玉座からしか届かなかった声。
それが今、同じ高さで、まっすぐ俺に向けられている。
「……ありがとうございます、父上」
何とか絞り出すと、父上は満足そうに小さく頷いた。
「この聖堂で、何が待っていようと――」
一瞬だけ、紅い瞳が聖剣のほうへ向く。
「私は、魔族の王として、お前の父として、最後まで務めを果たす。
お前は、お前の目で見て、耳で聞いて、いつか自分の“和平”の形を選べ」
「俺自身の……和平、ですか」
「ああ。
戦火を終わらせるのは、この場だけでは終わらぬ。
お前の在り方そのものが、魔王領の行く末を決めていく」
聖都の白い光の中で、父上の言葉だけが、奈落の底から響いてくる鐘の音のように、静かに胸の奥へ沈んでいく。
この聖堂が、本当に和平の象徴になるのか。
それとも、別の何かを同時に飲み込む器なのか。
今の俺には、まだ答えはない。
だが――いつかその答えを選ぶとき、そのときの俺の背中には、きっと今日の父上の言葉が張り付いているのだろうと、ぼんやりと思った。
ただ――
聖剣の前に立ったときに感じた、あの“噛み合わない圧力”だけが、
小さな棘として胸のどこかに残り続けていた。




