第11話 聖都セラディアの光と影
聖都セラディアの外壁が見えたのは、昼過ぎだった。
白い石で築かれた城壁が、遠目にも分かるほど陽光を弾いている。
高く掲げられた無数の旗には、十字と聖印。風に翻るたび、眩しいほどの白と金が揺れた。
奈落都市の黒い尖塔に慣れた目には、その光景はほとんど別世界に見えた。
空の色は同じはずなのに、ここだけ空気の密度が違うような気さえする。
「……息が、少し重いな」
馬上から息を吐くと、隣を進むマルシエルがちらりとこちらを見る。
「魔力瘴気が薄いんです。聖堂が多いですからね〜。
魔族にとっては、ちょっと“薄い空気”みたいなものですよ」
そう言いながらも、彼女自身はそこまで辛そうではない。
悪魔種であるマルシエルは、魔力の質を多少は自力で調整できる。俺やアスモドほど、
環境の変化に敏感ではないのだろう。
列の先頭には、黒鉄の馬車。その脇を、深淵の盾の騎兵たちが固めている。
馬車の中には、魔王アルドラン・ルクスベルク――俺の父上がいる。
その周囲を取り巻くように、光を反射する銀の鎧が並んでいた。
白いマントをはためかせ、槍を立てた騎兵たち。聖教会直属の騎士、聖騎士たちだ。
城門へ近づくにつれ、聖騎士の列はさらに厚くなる。
門の上からは、鐘の音と、高い聖歌のようなものがかすかに聞こえてきた。
「――魔王領ルクスベルク使節団、到着されました!」
門上から響いた声に応じて、城門がゆっくりと開いていく。
白い石扉の内側には、整列した兵と、儀礼用の衣を纏った聖職者たちの列が見えた。
◇
馬車が止まり、俺たちは順に下馬した。
冷たい石畳に、黒い軍靴が音を立てる。
白と金の世界の中に、魔王領の黒と紅だけが異質な色として浮かび上がっているのが、嫌でも分かった。
「魔王アルドラン・ルクスベルク陛下。遠路はるばるのご来臨、心より歓迎いたします」
一団の前に進み出た男が、深く頭を垂れる。
年の頃は五十前後。
金糸で縁取られた白い司祭服の上に、蒼の外套。胸元には、セラディア聖教会の紋章と、
いくつもの勲章が光っている。
「聖教会枢機卿、ガイウス・ラヴェルと申します。
我らが聖女殿と教皇猊下に代わり、まずは儀礼の応対を任されております」
枢機卿。
教会組織の中枢に座る者の称号だ。
マルシエルが小声で囁く。
「聖教会の頂点が教皇、その“神託の器”が聖女様。
その下で現実の運営を握ってるのが、この枢機卿たちですね〜」
聖女と教皇が頂点、その下に枢機卿と有力貴族。
書類の上では知っていた構造が、今こうして目の前で現実を持って立っている。
「セラディア聖王国と魔王領ルクスベルクの和平の門出として、
この聖都をご覧いただけることを、我ら一同、光栄に存じます」
ガイウスと名乗った枢機卿が顔を上げた。
柔らかな笑み。言葉遣いも丁寧だ。だが、その瞳の奥にあるものまでは読めない。
父上が、馬車から姿を現した。
黒マントを翻し、静かに石畳に降り立つ。その瞬間、聖騎士たちの列に、目に見えない緊張が走った。
「魔王アルドラン・ルクスベルクだ」
父上は短く名乗り、周囲を一瞥した。
その声には、戦場で敵味方を震わせる圧は乗っていない。ただ、揺るぎない重さだけがある。
「この場が、本当に三百年の血を終わらせる場になることを願っている」
その言葉に、ガイウスは深々と頭を垂れた。
「もちろんでございます、陛下。
聖女殿も、教皇猊下も、同じ願いをお持ちです」
――その言葉が、本物かどうかは別として。
喉の奥に浮かんだ言葉を、俺は飲み込んだ。
代わりに、一歩前に出て頭を下げる。
「ルシアン・ルクスベルクです。
魔王領の次期継承者として、式典に出席させていただきます」
「おお……これが噂に名高い“黒炎の魔王子”殿か」
ガイウスがわずかに目を見開く。
その視線が、じろりと俺を測るように滑った。
「若い。だが、その身に宿る魔力は、ここからでも感じられますな。
聖都の者たちにも、魔族の王家の“現実”を、しっかり見てもらうのがよろしいでしょう」
言葉だけ聞けば、悪意はない。
だが、“見世物”として測られているような感覚が、背筋を冷たく撫でた。
◇
入城の列が動き出す。
白壁に囲まれた大通りの両側には、人、人、人。
聖都の市民たちが、こちらを一斉に見つめている。
聖教会の紋章をあしらった貴族服。
信徒たちの簡素な衣。
それに混じって――首輪をつけた耳と尾が、何度も目に入った。
獣耳を持つ女が、鎖の先につながれた荷車を引いている。
その首元には鉄の輪。そこから伸びる鎖を、良い服を着た男が何気なく握っていた。
角の欠けた亜人が、店の前で地面に座り込んでいる。
背中には焼き印の痕。
その横には、「売却済」と書かれた札がぶら下がっていた。
喉の奥が、音もなく鳴る。
「……父上」
思わず、小さく呼びかけていた。
父上もまた、視線だけでその光景を追っている。
「見えている」
低い声が返ってきた。
「セラディアだけの話ではない。
人間の諸国の多くは、亜人を“人”とは見なさぬ。
あれらは、彼らにとって“所有物”だ」
所有物。
魔王領では、そんな法文は存在しない。
魔族も亜人も、人間から逃げてきた者も、身分の差はあれど、
法の上では“奴隷”という身分は与えられていない。
だからこそ――初めて実物を目にした「奴隷」という現実に、言葉のほうが追いついていなかった。
「……逃げてきた亜人たちは、みんな――」
「何かから逃げてきたと言っていたな」
父上の声には、怒りではなく、深い疲労の色が滲んでいた。
「重税。暴力。狩り。
それに、こうした“所有”からだ」
マルシエルが、馬上で小さく息を吐く。
「聖教会の教義では、“人の姿を取らぬものには完全な魂は宿らない”ってことになってますからね〜。
“救われないもの”だから、持ち物扱いしてもいい――っていう、便利な理屈です」
「……だから、奴隷か」
その言葉を口にした瞬間、胸のどこかが冷たく縮こまった。
奴隷という概念自体は、書物の中で知っていた。
だが、目の前で冷たい鉄の輪として、それを見せつけられるのは別の話だ。
「ルシアン」
父上が、わずかに声を低くした。
「忘れるな。
魔王領に逃げ込んだ者たちを、“ここから奴隷として連れ戻せ”という条文は、
セラディア側の草案にも紛れ込んでいた」
条文案の一節が、頭の中に蘇る。
――“セラディア領から逃亡した者が魔王領内にいる場合
、所有者が正当な権利を証明したときは、その者を返還すること”。
あの文は、父上とマルシエルが、まっ先に赤で塗り潰した項目の一つだ。
「俺たちは、その条文を拒んだ。
逃げ込んできた者たちを、再びあの首輪に戻すつもりはない」
父上の声は穏やかだが、その芯は硬い。
「この街がどれほど白く飾られていても、その影の色を見誤るな」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
視線の先で、獣耳の女がちらりとこちらを見た気がしたが――次の瞬間には、彼女はすぐに視線を落としてしまった。
◇
「こちらが、和平式典の会場となる大聖堂でございます」
ガイウス枢機卿の声に、思考を現実へ引き戻される。
目の前には、城壁よりもさらに高く聳え立つ建物があった。
白い石で築かれた巨大な聖堂。
尖塔がいくつも空を突き、その先端には金色に輝く聖印。
正面の大扉の上には、聖女と聖者たちを描いた巨大なステンドグラスが嵌め込まれている。
扉の前では、二列に並んだ聖騎士たちが槍を立てていた。
彼らを囲むように、目に見えない光の膜のようなものが揺らめいているのが、魔力の目で見ると分かる。
「……マルシエル」
「はいはい、見えてますよ〜」
彼女は目を細め、聖堂の上空を流れるマナの流れをじっと観察していた。
「常時、第四階梯の聖結界が張りっぱなしですね。
大気中のマナを聖属性に固定して、外からの魔法・魔術を“かすれさせる”タイプです」
「第四階梯……大魔術師級か」
「ですね。
この規模の聖堂だと、内部構造そのものが術式だから、維持のコストもそれなりに安いんですよ。
――魔族側からしたら、たまったもんじゃないですけど」
アスモドが、わずかに眉をひそめる。
「確かに、剣を構えたときの“冴え”がひとつ、削がれている感じはするな」
マルシエルは肩を落として、わざとらしくため息をついた。
「それ、アスモド様だから“ちょっと重い”くらいで済んでるんですよ。
普通の魔族だったら、歩くだけで精一杯ですからね?」
魔力を纏う感覚が、奈落都市とは明らかに違う。
いつもなら背骨の奥を流れている黒い炎が、薄い布越しに触れているような、どこか鈍い感覚だ。
「式典当日は、ここで?」
俺の問いに、ガイウスが嬉しそうに頷く。
「はい。
大聖堂の中央祭壇にて、聖女殿と教皇猊下、魔王陛下と次期魔王殿下、
そして我らが勇者カイン殿が、揃って聖剣に手をかざすことになります」
勇者の名が出た瞬間、周囲の聖騎士たちの顔つきが、わずかに誇らしげなものに変わった。
「その場で、“この世界から戦火を退ける”という新たな契約を――
聖剣と、聖教会と、人類連合と、魔王領との間で、結び直すのです」
マルシエルが、声を潜めて囁く。
「“聖剣契約”。
聖教会の最上位の儀式ですね。
下手すれば、第七階梯以上の“世界級”の魔術にもなり得ます」
胸の奥で浮かんだ疑念を、俺はまだ言葉にはしなかった。
今はまだ、“疑い”ではなく、“警戒”の段階だ。
「大聖堂の詳細な構造は、こちらで確認しておこう」
父上が静かに言う。
「式典当日までに、余計な“細工”が施されていないか――
マルシエル、アスモド、お前たちの目と術式で確かめておけ」
「了解です、陛下」
二人の声が重なる。
そのやり取りを見ていたガイウスが、にこやかに笑った。
「もちろん、内部の見学と安全確認には、我々も全面的に協力いたします。
和平式典が“疑われる”ようなことは、聖都にとっても望むところではありませんので」
その笑顔が真実かどうか――
それを測るのが、これから俺たちの仕事だ。
◇
聖都の賓客用館に案内されたのは、日が傾きかけた頃だった。
白石造りの三階建ての建物。
中庭には整えられた庭木と噴水。
窓には色付きガラス。部屋の調度も、過不足なく整っている。
――檻としては、上等だな。
そんな言葉が頭をよぎり、自分で苦笑する。
外からは聖騎士の足音が絶えず聞こえ、出入り口には見張りが立っている。
形式上は“賓客”だが、自由に街を歩いてよい雰囲気ではない。
父上と簡単な挨拶を済ませたあと、俺は一人、与えられた部屋の窓から外を眺めた。
夕暮れの聖都。
白い街並みが、赤い光を浴びて淡く染まっていく。
遠くには、大聖堂の尖塔が、血のような夕陽を背に黒い影を落としていた。
視線を下へ移すと、路地の影で何かが動くのが見えた。
小柄な影。
耳が、獣のそれのように尖っている。
首には、ここからでも分かるほど分厚い鉄の輪。
その隣で、商人風の男が笑いながら誰かと握手を交わしていた。
銀貨の袋が行き交うのが見える。
亜人の女が、何かを言おうとして口を開く。
だが、その言葉は、鎖を引く男の一声でかき消された。
窓枠を握る手に、自然と力が入る。
「変なところで殴り込みに行かないでくださいね?」
背後から軽い声がして、振り返るとマルシエルが扉にもたれていた。
いつもの調子の声だが、目の奥は笑っていない。
「行かない」
短く答える。
「行ったところで、救えるのは目の前の一人か二人だ。
その代わりに、ここでの仕事を全部潰すことになる」
「……そう言えるあたり、ちゃんと“魔王領の前線指揮官”してますねぇ」
マルシエルは小さく息を吐き、俺の隣に立った。
「本当は、ああいうのを見るたびに、全部ぶっ壊したくなるんですけどね。
“聖女様の慈悲”とか、“教皇猊下の愛”とか、建前ごと」
軽口の形を借りた、本音の一部だろう。
窓の外から視線を離し、俺は深く息を吸った。
「……父上のところに行く。条約案の最終確認だ」
「アスモド様も来てますよ。あと、そろそろ“影”も」
マルシエルの言葉に合わせるように、部屋の隅の影がすっと濃くなった。
「お呼びですか、ルシアン様」
床からにじみ出るようにして、黒衣の男が姿を現す。
影喰いのアバド・ネリウス。ここにいるのは、本体ではなく、《影残し》で作られた分身のひとつだ。
「どうだ、聖都のほうは」
「表向きは、どこも“整っている”ように見えます」
アバドは淡々と報告を始めた。
「治安維持の聖騎士、増員中。
大聖堂周辺の結界、二重三重。
それから、“名簿に存在しない”聖職者が数名、大聖堂と城とを行き来しています」
「“いないことになっている者たち”か」
中立砦で聞いたのと同じ言い回しが、ここでも出てきた。
「はい。
公式には殉教扱い、あるいは“地方へ左遷済み”の記録になっている連中です。
実際には、教会直属の“処理班”と見ていいでしょう」
処理班。
聖教会の教義と、現実の汚れ仕事をつなぐ、名前のつかない役目。
「大聖堂の中枢、覗けたか?」
「まだ“扉の外”までです。
祭壇下に、契約用の聖剣祭壇とは別系統の術式が組まれているのを感じますが……」
アバドは、そこで言葉を切った。
「現時点では“何かがおかしい”以上のことは言えません。
少なくとも、条約案に記されている“聖剣契約の術式”とは、構造が完全には一致していませんでした」
「分かった。
無理はするな。お前の本体まで潰されると、情報が途切れる」
「お気遣いなく。
本体は、まだこの聖都のどこかで、ちゃんと息をしていますから」
アバドは、かすかに口元だけで笑うと、再び影へと溶けていった。
◇
その夜。
賓客館の一室に、父上、アスモド、マルシエル、そして俺が集まった。
部屋の中央の卓の上には、セラディア側の条約案と、こちらの修正案が広げられている。
「領土線の再定義。
捕虜交換。
相互不可侵。
――表向きの条件だけを見れば、“悪くない”という顔をする者も多いだろう」
父上が、羊皮紙の上を指でなぞりながら言う。
「国境沿いに“共同監視区域”を置く、という項もだな」
アスモドが、眉間に皺を寄せた。
「名目上は監視だが、実質は“聖堂建設のための足場”だ。
あの大聖堂と同じものを、国境線にずらりと並べる気なら、三十年もあれば魔王領側の空気は全部削られる」
「だから、“常設の聖堂建設権”までは飲まない。
期間限定、規模限定。
それ以上は、認めん」
父上の声は静かだが、その線引きははっきりしている。
「逃亡奴隷の返還条項は、完全に削除。
亜人を“所有物”として扱う法の正当性も、我々は認めない」
マルシエルが、赤インクで真っ赤になった部分を指で叩いた。
「ここは、譲歩したら魔王領の存在意義が死にますからね〜。
“逃げ込んだら終わり”が保証されてるからこそ、あっちからも必死で逃げてくるわけで」
「……聖都の光の下で、鎖をつけられている奴らを見た」
俺は、昼間の光景を思い出しながら口をひらく。
「この条約で、その鎖の“正当性”まで認めるつもりはない」
「当たり前だ」
父上の紅い瞳が、静かに光った。
「和平とは、どちらかがどちらかの“正義”に屈することではない。
互いが、互いの“正義の範囲”を線引きすることだ」
その線の上で、何を許し、何を許さないのか。
今、俺たちはその線を引こうとしている。
「――明日は、大聖堂内部の視察だ」
父上が、最後にそう告げた。
胸の奥で、何かが静かに重くなった。
「……承知しました、父上」
その夜、窓から見える聖都は、数え切れないほどの灯りで満ちていた。
白い壁を照らす聖灯。
大聖堂の尖塔を縁取る光。
世界のどこよりも明るいと信じている者たちの街。
だが、その足元には、昼間見た鎖の音と、影の気配が、確かに存在していた。




