第七章 亡霊の告白
朝が来る直前の薄い光のなかで、僕たちは広間に集まっていた。嵐は遠ざかり、海は疲れたように波を寄せている。椅子に並んだ人々の顔は、昨夜の恐怖と余韻で灰色に染まっていた。
二階堂はテーブルの上に資料を広げ、淡々と皆を見回してから言った。
「ここで、すべてを終わらせる。朔之介、話してくれ」
僕は深呼吸を一つして、これまでの手掛かりを順に口にした。推理は、細く、しかし確かな一本の糸になっていった。
まず、共通点。
五つの現場に残された印は、ひとつの“象徴”だった。青い花弁。どの死体の傍にも、必ず一枚。単なる飾りではない。被害者の周囲に必ず残る“印”として、犯人が意図的に置いたものだ。
次に環境の一致。
各被害が起きた部屋は外部と連続した“換気経路”を持っていた。温室と館の空気の流れは複雑だが、図面を合わせれば、特定のダクトが各個室に接続されていることが分かった。調査で見つかったのは、換気ダクト内の微量の青色残滓。そこに混ざっていたのは、玲史が実験で扱っていた試料の痕跡に酷似する化合物の断片だ。
次にタイミング。被害者が倒れたと推定される時間帯は、皆ほぼ深夜帯で揃う。窓は閉ざされ、外気との接触が極めて少ない時間だ。つまり、外気にさらされない“閉じた空間”で、何らかの要因が室内の空気を変えた。被害者の呼吸器系に異常が見られたという医師の所見も、その方向を指している。
ここまでで分かるのは「被害は室内環境の変化によってもたらされた」ということだ。不可視の力である“匂い”や“空気”が、ひとつの媒介になった可能性が高い。
最後に動機の断片。串山のメモ「青は罪を覆い隠す」、羽深の遺した「彼の罪は私の罪」、そして船の突然の破壊(外界と遮断されたこと)は、誰かが“過去”を掘り返すために計画的に場を整えたことを示唆した。招待状の不自然さ、差出人不明という事実も、その演出の一部だった。
これらを繋げると、犯行の大枠は見える。犯人は城崎玲史の“研究”を知り尽くし、温室と館の構造を理解していた。温室に残る実験の断片(青い試料)は、直接的な毒物の“名前”を示すのではなく、被害者の体内に何かしらの異変を起こしうる“痕跡”として残った。犯人はそれを“印”として場所に置き、被害者たちを襲った。各室のドアが閉まっている時間帯を狙い、外からは分からない形で室内の環境を操作した。
重要なのは「操作の実行権」。換気装置のプログラム、温室の設備の管理、データの閲覧権――そのどれかに限定的にアクセスできる人物が必要だ。誰がそれを独占していたか。調査で判明したのは、温室の記録ファイルと換気制御ログが真理子のアカウントで最後に触られていたこと。串山が残した“被験者K”という記述も、彼が真理子に対して何かを疑っていた痕跡だった。
ここで意味を成すのは、「真理子は玲史の近しい助手であり、彼の研究を最も理解していた」という事実だ。研究の細部に精通し、温室と設備、データの扱い方、そして“青”の残留性を誰よりも知っていた。だからこそ、彼女は“それを使って”人の意識を揺さぶる演出を作り得たのだ。
真理子は最初、静かに聞いていた。だが、俺が論理を積み上げるにつれて、彼女の顔の色が変わっていった。やがて、言葉が溢れた。
「十年前、私は彼と一緒に夜を越していた。玲史はいつも“青”のことしか考えていなかった。私も同じ夢を見ていた。だが、いつの間にか周りは変わった。研究費が断たれ、仲間も離れ、彼一人に矛先が向いた。私も、……逃げたのよ」
彼女は視線を床に落とす。声は震え、断片がつづられた。
「私は証言した。彼の実験が危険だと、私も言った。あれは裏切りだった。彼はその夜、私の前で笑って死んで行った。私はその笑顔を忘れられない。私の手は、その笑顔を壊すことを証明した。罪悪感は日ごとに膨らんだ。私の中の青は、赦されない色になった」
真理子の口から出た語りは、動機を人間の生々しいものに変えた。復讐、という単語だけでは表し切れない、赦されざる後悔と自責。彼女は“清算”を求め、みずからが設えた場で過去を暴き出そうとした。それは、暴露の場であり、罰の場でもあった。
「私は彼を殺したかったわけじゃない」と真理子は言った。「私は、あの夜をもう一度見たかった。そして、誰が何をしたのかを白日の下にさらしたかった。だが、再現は簡単じゃなかった。彼が使った“青”の残滓を利用すれば、閉ざされた夜に真実を浮かび上がらせることができる。誰かが動揺したとき、その口から本当の名前が出る。そう思ったの」
彼女は涙を拭い、続けた。
「でも、私の計画は壊れていった。誰かが死んだ。偶然か、計算の誤りか。結果的に、私は手が血に染まることになった」
真理子の言葉は、自分の犯した行為と、そこに至るまでの心の軌跡をはっきりと示していた。彼女は装置の操作や設備の仕組みを“どうやって”悪用したかという具体的な手順を語ることはしなかったが、彼女が再現を企て、装置と“青”を媒介にして人を揺さぶる演出を仕掛けたという核心は揺るがなかった。
串山の死が、他の被害と決定的に違ったのは、彼が“被験者”でもあり“目撃者”でもあった点だ。串山はかつて実験に関わり、その後は研究の清算を進めていた。彼は真理子の不穏な動きを察し、温室のログに疑念を持っていた。串山が残した「青は罪を覆い隠す」というメモは、彼が真理子の演出に気づいていたことを示す。
しかし、彼がそれを公表する前に、状況は逸れた。計画の“糸”がほころび、結果として彼自身が計画の犠牲になったのだ。偶然の要素、過剰な濃度、あるいは未確定の化学的反応が重なり、致命的な事態を招いた。真理子はそれを望んではいなかったが、彼女の手の及ぶところで“人が死ぬ”という事実を変えることはできなかった。
真理子は無言で立ち上がり、深い呼吸をしてからゆっくりと言った。
「私は、全てを話しました。私が設え、私が誤った。私は償います」
二階堂は大きくため息をつき、手錠を差し出した。だがその手の動きは冷たくはなかった。
「人の心を弄んだという点でお前は被告だ。しかし、お前の苦しみも裁かれるべきだ」
真理子は抵抗せず、静かに手を差し出した。逮捕は淡々と、しかしどこか神聖な儀礼のように見えた。全員がそれを見届け、長い沈黙の後、誰もがそれぞれに息をついた。
数日後、僕と二階堂は船の甲板に並んでいた。朝日が海に光を撒き散らし、島の輪郭はゆっくりと後ろに沈んでいく。真理子のことは、法が裁く。彼女の言葉は記録され、事件の資料と共に保管されるだろう。だが、僕の胸には別の感情が膨らんでいた――虚しさと、奇妙な解放感が入り混じったものだ。
二階堂がコートの襟を立て、僕に向かって軽く笑った。
「黒田、お前も随分と疲れてるな」
「まだ何か抜けないです」
「だろうな。だが、少しは休め。たまには真っ当な青春でもしろよ」
僕は思わず噴き出した。彼の言葉は乱暴だが、温かかった。波の音が耳に届く。遠くにカモメが一羽、叫んだ。
船が港を離れるとき、僕は振り返って島を見た。温室の跡地には、ほんのわずかに青い光のようなものが残っているように見えた。錯覚かもしれない。けれど、心のどこかで確かめたかった。あの青は何を残したのかを。
僕は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。二階堂が肩を叩き、ふざけ半分で言った。
「よし、次の事件だ。……と言いたいところだが、俺は日曜の焼き鳥が先だ」
「刑事さん、それは事件じゃなくて幸福の逮捕ですね」
僕たちは笑った。短く、しかし確かに心からの笑いだった。嵐を越え、誰かの罪が暴かれ、そしてまた日常が戻ってくる――そんな当たり前の流れに安堵したのだろう。
最後に僕は、海の向こうの光に向かってつぶやいた。
「さよなら、蒼い薔薇。ありがとう」
それは悲しみの言葉でもあり、感謝でもあった。朝日が顔を暖め、俺はほんの少し笑って、そのまま海を見つめ続けた。




