第六章 血に染まる月
嵐は一度去ったはずだった。だが、夜の帳が落ちた瞬間、空は再び呻き始めた。海の向こうで雷が光り、波が岩を叩く。館の窓は風に軋み、古い照明が時折パチパチと火花を散らす。
僕はその明滅の下、薄暗い廊下を歩いていた。
この館の中で、もう四人が死んだ――そう思うたび、足音がやけに重く響いた。
対川、黄地、森岡、羽深。
そして、次は誰だ。
生き残っているのは僕と二階堂、小柳真理子、鮫島文哉、藤倉崇志、串山亮、時雨静乃の七人。だが、そのうちの一人が、すでに“死を待つ番”になっているのかもしれない。
食堂に入ると、二階堂が黙ってコーヒーを飲んでいた。
「眠れないのか?」
「眠れるわけないでしょう」
僕が答えると、彼は苦笑した。
「俺もだ。……串山の様子が気になる」
「串山さん?」
「あの男、羽深が死んでから一言も喋らない。部屋にこもって何か書いていたらしい。鮫島が言ってた」
串山亮――温室の管理人であり、城崎玲史の研究を間近で見ていた人物。
玲史の死後も島に残り、研究データの整理をしていたという。
僕は立ち上がった。
「様子を見に行ってみましょう。何か知ってるかもしれない」
廊下はしんと静まり返っていた。外の風が吹くたびに、壁の絵が揺れる。串山の部屋は温室に近い東棟の端だ。
扉の前まで来ると、内側から小さな物音がした。ガラスを擦るような音。
「串山さん?」
呼びかけても返事はない。
二階堂がノブをひねる。鍵は、かかっていなかった。
部屋に入った瞬間、鼻を刺す甘い匂いがした。
温室で嗅いだあの薔薇の香り――だが、もっと濃く、そして焦げ臭い。
机の上には倒れたランプ。床には青い液体が散っている。
その中央に、串山亮がうつ伏せに倒れていた。
右手には小瓶を握りしめ、唇から泡を流している。
灯りを当てると、青い液体がゆらりと光を返した。
その光は、血の色よりも冷たく、命を拒むようだった。
二階堂が膝をつき、彼の首筋に触れる。
「……もう、手遅れだ」
その声に、背中の筋肉が硬直した。
床には散乱した紙とガラス片。机の端には、かすかに焼け焦げた跡。
青い薔薇の研究を象徴するように、静かな破壊の匂いが漂っていた。
僕は彼の手から小瓶をそっと取り上げた。底には、金属の刻印がある。
――“K・R”。
城崎玲史。
瓶の中身はすでに空だった。床に広がった液体は、光を反射して青く輝いている。
まるで、串山の死を祝福するかのように。
二階堂は串山の首筋を確認し、深く息を吐いた。
「死亡推定時刻は……一時間以内か」
彼が顔を上げると、廊下の奥に影が動いた。
駆けつけてきたのは真理子、文哉、藤倉、静乃だった。
「どうしたの?」「また……?」
静乃の声が震える。
二階堂が低く言う。
「串山亮が死んでいた。自殺に見せかけた他殺だ」
「そんな……!」
静乃は泣き崩れ、藤倉は頭を抱えた。文哉は唇を噛みしめ、沈黙したままだ。
そのとき、僕は机の端に広げられた紙束に気づいた。
城崎玲史の研究記録だった。
その最後のページに、鉛筆で走り書きがある。
――〈被験者K、変色進行。処置不可能〉
被験者K。串山亮の頭文字だ。
僕は冷たい汗が背中を流れるのを感じた。
「串山さん……あなたも、玲史の実験に……」
玲史の「青い薔薇」は、人工的な遺伝子操作によって生まれたものだ。だが、その過程で抽出された物質には強い神経毒が含まれていたと、資料には書かれている。
つまり、串山は“研究の副産物”によって殺された。
――あるいは、自らの罪を償うために。
二階堂は紙束を受け取り、眉をひそめた。
「この記録……玲史の死後に書かれている。つまり、串山自身がまとめていたんだ。彼は、玲史の研究の続きを――」
「完成させた?」
「あるいは、止めようとしたのかもしれない」
その言葉に誰もが息を呑んだ。
その瞬間、外で雷鳴が轟いた。窓の外に一瞬だけ満月が浮かび上がり、雲の切れ間から血のような赤を落とした。
――血に染まる月。
文哉が怯えた声で言った。
「なあ、これって……やっぱり、玲史の呪いなんじゃ」
「違う!」
二階堂の声が鋭く響く。
「呪いなんかじゃない。これは、人が仕組んだ殺人だ。玲史の名を借りた誰かが、冷静に、計画的に動いている」
「じゃあ、犯人はこの中にいるってこと?」
真理子の震える声が、部屋の空気を凍らせた。
二階堂は何も答えず、ただ皆を見回した。
その沈黙が、言葉より雄弁だった。
僕は羽深の手から滑り落ちたメモを拾った。
そこには一行だけ、震える文字でこう書かれていた。
――〈青は罪を覆い隠す〉
何を意味するのかは分からない。だが、確信だけはあった。
この“青”は、玲史の薔薇ではない。
もっと別の、誰かの罪そのものだ。
外では風が唸り、雷が再び空を裂いた。
その音の中で、僕の胸の奥にひとつの像が浮かび上がる。
城崎玲史。羽深ひかり。串山亮。
彼らを繋ぐ“青”の連鎖――それが誰かの手によって意図的に操られている。
二階堂が静かに言った。
「朔之介、明日には決着をつける。もうこれ以上、犠牲を出すわけにはいかない」
「……僕も、そう思います」
僕は頷き、窓の外を見た。
満月が血のように赤く染まり、波の上にゆらめいていた。
その光が、まるで何かを告げているように見えた。
――この島に“亡霊”なんていない。
いるのは、生きた人間の、復讐の意志だけだ。
僕は息を吐き、心の中で静かに呟いた。
「血に染まる月の下で、真実だけがまだ息をしている――」




