第五章 死を呼ぶ花
朝になっても、館はまだ夜を引きずっていた。
焦げた臭いが床の木目に染みつき、風が通るたびに灰が微かに舞い上がる。
死の温度が、まだこの屋敷のどこかで息をしているようだった。
森岡の焼け跡は、まだ完全には片づけられていない。
壁の黒ずみ、焼けた鉄の匂い――それらが、昨夜の惨劇が夢ではなかったことを何よりも雄弁に物語っていた。
二階堂と並んで廊下を歩く。
沈黙が長く続き、僕は息を潜めた。
「三人目だ。これで偶然なんて言葉は通用しない」
二階堂の声はかすれていた。
いつも冷静な彼の瞳の奥に、わずかな疲労が滲んでいる。
「それにしても、あんな方法で殺すなんて……」
僕が呟くと、二階堂は首を横に振った。
「火の手は小規模だった。だが、あの化学反応は自然ではあり得ない。犯人は“青い薔薇”の研究を知っている」
“青い薔薇”――城崎玲史が人生を賭けた研究。
不可能を象徴するその花を、彼は実際に作り出した。
けれど、それが完成したとき、彼は孤立した。
青は奇跡ではなく、罪の色だった。
二階堂が足を止める。
温室の扉の前、曇りガラス越しに淡い光が揺れていた。
「玲史が生涯を過ごした場所だ。……中を調べる」
扉を開けると、湿った空気が頬を撫でた。
腐敗と薬品が入り混じった匂い。
棚の上には無数の枯れた植物、割れた試験管、そして――埃のない一角。
机の上に、一冊のノートが置かれていた。
『城崎玲史 研究記録』
表紙の隅は焦げ、ページの端は黄ばんでいた。
二階堂がページをめくる。
『青色素の抽出――反応温度42度』『毒性、強。接触禁止』
「毒……?」
僕が呟くと、二階堂は眉をひそめて頷いた。
「玲史は遺伝子操作で青い花弁を作ったが、副作用として強い神経毒が発生したらしい。これが“青い薔薇の呪い”の正体だ」
毒。
それは、人を殺す“花”の秘密。
けれど、なぜ彼はそれを隠したのか。何を恐れたのか。
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羽深は微かに視線を落とし、思い出す――あの夜のことを。玲史と二人きりだった最後の夜。温室の薄明かりの中、彼は青い薔薇の前で深く息をつき、肩を震わせていた。
「できた……でも、祝福される奇跡じゃない」
玲史は羽深を見つめ、静かに言った。「ひかり、俺はもう逃げられない。君には安全でいてほしい……」
羽深は胸が締め付けられる思いだった。玲史は自分の研究の成果を誇るのではなく、罪の色として彼女に託そうとしていた。青い薔薇は彼の孤独と後悔の象徴だった。
「玲史さん……」
羽深は小さく呟いた。彼はその苦悩を理解していた。だからこそ、最後の夜を、そして青い薔薇の象徴を見届け、終わらせる義務があると感じた。温室に向かったのは、彼の孤独と罪を代弁するためだった。
玲史の声が遠く、風に混ざって耳に届いた気がした。「ひかり、ありがとう」――別れの言葉であり、守ろうとする心の証。
羽深は深呼吸をして、目の前の青い薔薇に手を伸ばす。「……もう、終わりにしよう」
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そのとき、背後から柔らかな声がした。
「見つけたのね……」
振り向くと、羽深ひかりが立っていた。
白い頬に陰が落ち、目の下に眠れぬ夜の痕があった。
「玲史さんは、あの花に取り憑かれてた。私、知ってたの。最後の夜も、あの温室でひとり泣いてたのを」
「泣いてた?」
「ええ。“完成したけど、失敗だ”って。誰にも祝福されない奇跡なんて、呪いと同じだって……」
彼女の指が震えていた。
袖口を掴みながら、掴めない過去をもう一度抱こうとしているようだった。
「あなた、玲史さんの恋人だったんですか?」
僕が訊ねると、彼女はわずかに目を伏せた。
「……昔はね。でも、今は違う。ただの過去よ」
その声の奥に、痛みとも罪悪感ともつかぬ響きがあった。
彼女はそれ以上何も言わず、静かに去っていった。
二階堂は黙ってノートを閉じた。
「羽深は何かを知っている。だが、言えない理由がある」
「怯えているように見えました」
「怯える理由があるということだ」
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ここから先は元の五章ラストの展開に戻る形で続く:
昼下がり、風が再び強まった。
海が低く唸り、館の窓が軋む。
僕たちは食堂に集まった。
誰も口を開かず、食器の音すら遠慮しているようだった。
対川、黄地、森岡――もう三人が死んでいる。
次は“誰”なのか。
それを言葉にする者はいない。だが全員が、同じ恐怖を共有していた。
夜、照明が落ちた。
外は再び嵐。雷鳴が遠くで呻き、窓ガラスが泣くように震えた。
眠れぬまま、僕は部屋を出た。
廊下の奥、温室の方角から、微かな光が漏れている。
昨日と同じ、あの青い光。
まるで、誰かがまだ“花を育てている”かのように。
足音を忍ばせて近づく。
ガラス越しに、影がひとつ揺れた。
細い腕。白い服。――羽深ひかりだった。
彼女は棚の上の青い薔薇を見つめ、何かを呟いている。
「……もう、終わりにしよう」
その瞬間、光が弾けた。
世界が一拍、止まる。
僕は反射的に扉を開けた。
「羽深さん!」
だが――彼女はもう倒れていた。
胸元に一輪の青い薔薇。
唇は紫に染まり、目は開いたまま凍りついている。
その手には小瓶。
“城崎試薬B”と書かれたラベル。
床にはノートの切れ端が落ちていた。
――「彼の罪は、私の罪」。
二階堂が駆けつけ、脈を確かめる。
「……もう駄目だ。毒だ」
「自殺ですか?」
「いや」二階堂は即座に首を振った。「瓶の底が割れている。誰かが仕込んだ」
青い薔薇が、また一輪。
まるで死を飾るために咲いたように。
羽深の頬を涙が伝っていた。
それが悲しみなのか、恐怖の名残なのか、僕にはもう分からなかった。
朝になっても、館は沈黙していた。
真理子は顔を覆い、串山は呆然と天井を見つめていた。
二階堂は全員を前に立ち、低い声で言った。
「羽深は何かを知っていた。だが、それを口にする前に殺された。……この中に犯人がいる」
その言葉が落ちた瞬間、誰も息をしなかった。
視線だけが宙をさまよい、椅子の軋みがやけに大きく響く。
コーヒーの香りが冷え、時計の針が刃物のように音を立てた。
「この中に――犯人がいる」
二階堂の声が空気を裂いた。
僕は拳を握りしめる。
青い薔薇は、また一輪、咲いた。




