表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

第四章 孤島に響く悲鳴

夜の嵐が嘘のように静まり返った朝だった。

 雨音も風の唸りも消え、代わりに――耳鳴りのような静寂だけが残っている。

 世界全体が一瞬、呼吸を止めたような朝だった。


 目を覚ました瞬間、僕は何かがおかしいと感じた。

 それは、肌を撫でる空気の温度なのか、それとも、どこかから失われた人の気配なのか。

 どちらにせよ、この館の「呼吸」が止まっているようだった。

 まるで、見えない何かが僕たち全員の時間を、ひっそりと奪い去ってしまったかのように。


 時計の針は七時を指していた。

 寝返りを打っても、眠気は戻ってこない。

 昨日の出来事――黄地の死、そしてあの「青い薔薇」の花弁が、何度もまぶたの裏に浮かんだ。

 二階堂は「冷静でいろ」と言ったが、あれを見て平静でいられるほど、僕はまだ大人ではない。

 胸の奥で何かがざらざらと擦れ続けていた。


 食堂に向かうと、既に何人かが席に着いていた。

 二階堂、小柳真理子、羽深ひかり、串山亮、鮫島文哉、藤倉崇志、時雨静乃。

 そして――森岡勇の姿だけがなかった。


 「勇くん、まだ来てないのね」

 真理子が湯気の立つカップを見つめながら呟いた。

 その声は、無理に明るさを保とうとする人のそれだった。

 「まさか……また」

 羽深の声が震える。

 串山は沈黙したまま、コーヒーを掻き混ぜ続けていた。

 銀のスプーンがカップの内側を叩く音が、妙に響く。

 二階堂は腕を組み、短く言った。

 「確認するしかない。朔之介、来い」


 その一言で、胸の奥の寒気が決定的な形をとった。

 僕は椅子を押しのけ、二階堂の背を追った。


 廊下はひどく暗かった。

 まだ朝だというのに、館全体が曇りガラスの中に閉じ込められているような重さを帯びていた。

 絨毯はしっとりと湿り、靴の底がわずかに沈む。

 窓の外には濡れた木々、風に千切れた枝、そして――薄く立ちのぼる白い煙。


 二階堂が足を止めた。

 「見えるか?」

 指差す先、廊下の端にある森岡の部屋の方角から、煙が細く漏れていた。

 まるで、亡霊の吐息が壁の隙間から滲み出ているようだった。


 扉の前に立つと、焦げ臭さが鼻を突いた。

 金属の取っ手は微かに温かく、触れた指先に嫌な粘り気が残る。

 二階堂は一度、僕を見た。

 「開けるぞ」

 頷くより早く、扉が押し開けられた。

 ――その瞬間、熱気が生き物のようにぶわりと押し寄せた。

 室内は黒煙に包まれ、床は煤で覆われていた。

 焦げた布と鉄の臭いが混じり合い、息を吸うたびに喉が焼ける。

 ベッドの上には、黒く焼け焦げた人影が横たわっていた。

 人間の形を留めてはいたが、もはや“誰”かは分からない。

 その胸元に、鮮やかな青が一輪。

 ――青い薔薇だった。


 「……森岡勇、だな」

 二階堂の声は低く、重かった。

 僕は頷くこともできず、ただ焦げた部屋の中心を見つめた。

 窓は閉ざされ、火の手が広がった形跡もない。

 それなのに、彼だけが焼かれていた。

 自然発火? そんな馬鹿な。

 まるで「誰かが彼自身を燃やした」ようだった。


 壁には、焼け焦げた紙片が一枚、張り付いていた。

 二階堂がそっと剥がすと、そこには煤でかろうじて読める文字が浮かんでいた。

 ――罪を焼き尽くせ。


 「……また、これか」

 二階堂が紙を握りしめる。

 前回の森下の時も、“罪”を匂わせる言葉が残されていた。

 まるで何かの儀式のように。


 僕は部屋を見回した。

 机の上に小瓶が転がっている。

 蓋の裏には焦げ跡と、青い粉のような残滓。

 「これ、染料か……?」

 「いや」二階堂が顔をしかめた。「玲史が使っていた実験用の触媒だ。高温反応性がある」

 つまり、犯人は“化学的に”彼を燃やしたのか?

 理屈では説明がつく。だが――なぜ、こんな恐ろしい手口で?


 食堂に戻ると、鮫島が青ざめた顔で立ち上がった。

 「……森岡さんなんですよね」

 二階堂は頷いた。

 「昨夜、何か変わったことは?」

 「わたしは、十時には部屋に戻ったわ」

 羽深がすかさず言う。「でも、二時頃よ。温室の方で何か音がしたの。窓が揺れた気がして」

 「温室?」

 「ええ、確かに足音だったと思う。重い足取りで……」


 串山は俯いたまま黙っていた。

 二階堂が鋭く視線を向ける。

 「串山、君は?」

 「……聞こえたよ。勇が誰かと話してた。廊下を歩きながら、“金を返せ”とかなんとか。声までは分からん」

 「金、か……」

 二階堂が眉をひそめる。

 玲史の研究資金の流用疑惑。森岡が私的に使っていたという噂は、以前からあった。

 もし、それが本当なら、誰かが“裏切り”の報いを与えたことになる。


 沈黙を破ったのは羽深だった。

 「玲史さんの“青い薔薇”……あれ、私たちに呪いを残したのかもしれない」

 「呪いなんてものはない」

 二階堂の声は硬かった。

 「これは、明確な人間の手による犯行だ。だが――動機が全員にある」

 「全員?」僕が思わず聞き返す。

 「そうだ。玲史の死に関わった者、あるいは彼の研究に依存していた者。そのどちらもだ」


 会話が途切れた瞬間、館全体が沈黙に包まれた。

 風が止み、雨音すら聞こえない。

 遠くで、木の軋む音がした。

 その瞬間、真理子が小さく悲鳴を上げた。

 窓の外――温室の方角に、淡い光が灯っていた。

 青白く、揺らめく光。

 まるで、夜の闇に“薔薇”が咲いたように。


 「……行くぞ」

 二階堂が立ち上がる。

 僕もその後を追った。

 風に濡れた庭を抜け、温室へ向かう。

 扉の隙間から漏れる青い光は、まるで生きているかのように脈打っていた。

 中を覗くと、誰の姿もなかった。

 だが、中央の培養棚の上に、花弁が一枚。

 濡れたそれは、まるで血を吸ったかのように深く青く染まっていた。


 僕は思わず呟いた。

 「……闇に、咲いてる」

 二階堂は黙ったまま、それを見下ろす。

 「この花が、玲史の魂を宿しているとでも言うのか」

 その声には、皮肉よりも、ほんの僅かな恐れが混ざっていた。


 その夜、館の全員が部屋に鍵をかけた。

 誰も眠らなかった。

 廊下の奥で、時折、何かが軋む音がする。

 僕は天井を見つめながら、あの青い光を思い出した。

 あれは――誰が灯した?

 もしかして、“彼”自身が戻ってきたのかもしれない。

 青い薔薇を抱いて、この島を彷徨う亡霊として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ