第二章 ひとひらの殺人
海の上を渡る風は、思ったよりもずっと冷たかった。
波を裂く船の音が耳の奥に残り、微かな振動が足元から伝わってくる。
視界の先、灰色の水平線の向こうに、ぼんやりと陸影が見えた。
――蒼々島。
かつて、城崎玲史が住んでいた孤島。
青い薔薇の研究にすべてを捧げ、そして心を壊していった男が、最後に遺した場所。
霧に包まれたその島影は、まるで“墓標”のように静まり返って見えた。
「……あれが蒼々島か」
二階堂がポケットから煙草を取り出しかけ、ふと僕の視線に気づいて手を止めた。
「吸わないほうがいいか。未成年の前だしな」
「別に、気にしませんよ」
「いや、こういうのはけじめの問題だ」
二階堂は煙草を胸ポケットに戻し、海の匂いを深く吸い込んだ。
「――しかし、風が冷たいな。まるで歓迎されてないみたいだ」
その言葉に合わせるように、潮の匂いが濃くなった気がした。
僕の胸の奥に、ざらついた不安が広がる。
霧の中で、海と空の境目がゆっくりと溶けていった。
やがて、桟橋に船が横付けされた。
古びた看板には「蒼々島迎え桟橋」と書かれ、その下の青い薔薇のマークが、今にも剥がれそうに風に揺れている。
誰が描いたのか分からないその薔薇は、どこか歪んで見えた。
桟橋の先に、すでに数人の人影が見える。
二階堂が僕の肩を軽く叩いた。
「さて、ここからが本番だ。黒田、目ぇ離すなよ」
僕はうなずき、彼の後ろに続いた。
霧の向こうで、人々の輪がゆっくりと形を取っていく。
「やあ、遅かったですね」
最初に声をかけてきたのは、眼鏡の奥に冷静な光を宿す男――対川駿太。
城崎と共に研究をしていた生物学者らしい。
口元には薄い笑みを浮かべていたが、目はどこか乾いていた。
「そっちが黒田君か」
対川が僕に視線を向けてうなずく。
「若いのに、こんなところまで来るなんてね」
「はぁ……まぁ、流れで」
「流れねぇ。人生ってのは、大体そういうもんだ」
二階堂はぼそっと笑いながら言った。
「で、そっちの連中は?」
そこにいたのは他に、串山亮、森岡勇、羽深ひかり、黄地寛、鮫島文哉、藤倉崇志、小柳真理子、時雨静乃――総勢九人。
皆、城崎玲史に何らかの形で関わっていた。
「自己紹介は夜の食事の席でしましょう」
真理子が微笑んだ。その笑みの奥には、わずかな緊張が滲んでいた。
丘を登ると、木々の隙間から白い壁が見えてくる。
それは城崎邸――もはや“館”と呼ぶ方がふさわしかった。
壁はところどころ焦げ、二階の一部は崩れ落ちている。
「……これが、焼けた屋敷か」
二階堂が低く呟いた。
数年前の火事。城崎玲史が命を落としたとされる、あの夜の跡。
「この屋敷を引き継いでくれた管理人が、中を直したらしい」
対川が言いながら、重い扉を押し開けた。
扉が軋み、埃っぽい空気が流れ出す。
中は意外にも整っていた。
広い玄関ホール。青い絨毯が敷かれ、壁には不気味な青い薔薇の絵が飾られている。
油絵の花弁はどこか滲んでいて、血のようにも見えた。
「センス悪いな……」
藤倉が小声で呟く。
「おい、聞こえてるぞ」串山は笑いながら言う。
「まぁまぁ仲良く行こうよ」ひかりが間に入るように笑った。
その笑顔には、どこか作り物めいたぎこちなさがあった。
二階堂は全員を見渡し、静かに口を開いた。
「さて。今回の目的は、城崎玲史の遺した研究資料と、温室の管理権の話し合いだ」
「話し合いねぇ……」
森岡が大きくため息をつく。
「どうせ遺産争いだろ? 誰が“青い薔薇”を手にするかってやつだ」
空気が一気に重くなる。
ひかりが慌てて取り繕うように言う。
「そんな言い方はやめて。玲史は……本当に純粋に夢を追っていただけなのよ」
しかしその“夢”が、誰かの憎しみの種だったことを、僕たちはまだ知らなかった。
夜。
食堂に集まった全員の顔は、どこか曇っていた。
話題は自然と城崎の過去に移り、誰もが口を濁す。
「玲史はな、最後の方……おかしかったんだ」
森岡がぽつりと呟いた。
「温室にこもって誰にも会わない。飯もろくに食わず、ただ“青が足りない”って……そんなことばかり言ってた」
“青が足りない”――。
どこかで聞いたことのある、不吉な言葉。
「まあまあ、今夜はもう寝ましょう。明日になれば、少しは空気も変わりますわ」
静乃が気丈に笑った。
その笑顔だけが、この重苦しい食堂の空気をほんのわずかに和らげた。
――夜更け。
時計が午前一時を回ったころ、廊下に微かな物音が響いた。
床板の軋む音。窓を叩く風。
そして、低い唸りのような音。
僕は寝返りを打ち、うっすらと目を開ける。
――何か、聞こえる。
次の瞬間、悲鳴が屋敷を裂いた。
「――うわああっ!!!」
飛び起き、部屋を飛び出す。
藤倉と鮫島が隣の部屋から顔を出し、青ざめていた。
「今の、何の音だ……?」
「下だ!」二階堂が叫び、階段を駆け下りる。
温室の扉が開け放たれていた。
そこには――
青い光に照らされた死体が横たわっていた。
対川駿太。
胸を鋭い刃物で一突きにされ、血の中に青い花びらが散っていた。
「なんてこと……」真理子が息を呑む。
二階堂がすぐに声を張り上げる。
「全員、部屋から出るな! 僕と黒田で確認する!」
僕はただ、青い薔薇に染まった死体を見つめながら思った。
――この島は、やっぱり何かを拒んでいる。
二階堂は全員を集め、淡々とアリバイを確認した。
真理子は風呂に入っていた。
ひかりと静乃は一緒の部屋でおしゃべりをしていた。
森岡は酒を飲んで寝ていた。
藤倉と鮫島は将棋をしていた。
串山は廊下を歩いていたと話したが、誰もそれを見ていない。
二階堂は手帳を開きながら静かに言った。
「つまり、串山の行動だけが確認できていない……か」
館の外では、波の音がいつまでも鳴り止まなかった。
まるで、この島そのものが、何かを呟いているようだった。




