表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

第二章 ひとひらの殺人

海の上を渡る風は、思ったよりもずっと冷たかった。

 波を裂く船の音が耳の奥に残り、微かな振動が足元から伝わってくる。

 視界の先、灰色の水平線の向こうに、ぼんやりと陸影が見えた。


 ――蒼々島。


 かつて、城崎玲史が住んでいた孤島。

 青い薔薇の研究にすべてを捧げ、そして心を壊していった男が、最後に遺した場所。

 霧に包まれたその島影は、まるで“墓標”のように静まり返って見えた。


「……あれが蒼々島か」

 二階堂がポケットから煙草を取り出しかけ、ふと僕の視線に気づいて手を止めた。

「吸わないほうがいいか。未成年の前だしな」

「別に、気にしませんよ」

「いや、こういうのはけじめの問題だ」

 二階堂は煙草を胸ポケットに戻し、海の匂いを深く吸い込んだ。

「――しかし、風が冷たいな。まるで歓迎されてないみたいだ」


 その言葉に合わせるように、潮の匂いが濃くなった気がした。

 僕の胸の奥に、ざらついた不安が広がる。

 霧の中で、海と空の境目がゆっくりと溶けていった。


 やがて、桟橋に船が横付けされた。

 古びた看板には「蒼々島迎え桟橋」と書かれ、その下の青い薔薇のマークが、今にも剥がれそうに風に揺れている。

 誰が描いたのか分からないその薔薇は、どこか歪んで見えた。


 桟橋の先に、すでに数人の人影が見える。

 二階堂が僕の肩を軽く叩いた。

「さて、ここからが本番だ。黒田、目ぇ離すなよ」

 僕はうなずき、彼の後ろに続いた。


 霧の向こうで、人々の輪がゆっくりと形を取っていく。

「やあ、遅かったですね」

 最初に声をかけてきたのは、眼鏡の奥に冷静な光を宿す男――対川駿太。

 城崎と共に研究をしていた生物学者らしい。

 口元には薄い笑みを浮かべていたが、目はどこか乾いていた。


「そっちが黒田君か」

 対川が僕に視線を向けてうなずく。

「若いのに、こんなところまで来るなんてね」

「はぁ……まぁ、流れで」

「流れねぇ。人生ってのは、大体そういうもんだ」

 二階堂はぼそっと笑いながら言った。

「で、そっちの連中は?」


 そこにいたのは他に、串山亮、森岡勇、羽深ひかり、黄地寛、鮫島文哉、藤倉崇志、小柳真理子、時雨静乃――総勢九人。

 皆、城崎玲史に何らかの形で関わっていた。


「自己紹介は夜の食事の席でしましょう」

 真理子が微笑んだ。その笑みの奥には、わずかな緊張が滲んでいた。


 丘を登ると、木々の隙間から白い壁が見えてくる。

 それは城崎邸――もはや“館”と呼ぶ方がふさわしかった。

 壁はところどころ焦げ、二階の一部は崩れ落ちている。


「……これが、焼けた屋敷か」

 二階堂が低く呟いた。

 数年前の火事。城崎玲史が命を落としたとされる、あの夜の跡。


「この屋敷を引き継いでくれた管理人が、中を直したらしい」

 対川が言いながら、重い扉を押し開けた。

 扉が軋み、埃っぽい空気が流れ出す。


 中は意外にも整っていた。

 広い玄関ホール。青い絨毯が敷かれ、壁には不気味な青い薔薇の絵が飾られている。

 油絵の花弁はどこか滲んでいて、血のようにも見えた。


「センス悪いな……」

 藤倉が小声で呟く。

「おい、聞こえてるぞ」串山は笑いながら言う。

「まぁまぁ仲良く行こうよ」ひかりが間に入るように笑った。

 その笑顔には、どこか作り物めいたぎこちなさがあった。


 二階堂は全員を見渡し、静かに口を開いた。

「さて。今回の目的は、城崎玲史の遺した研究資料と、温室の管理権の話し合いだ」


「話し合いねぇ……」

 森岡が大きくため息をつく。

「どうせ遺産争いだろ? 誰が“青い薔薇”を手にするかってやつだ」


 空気が一気に重くなる。

 ひかりが慌てて取り繕うように言う。

「そんな言い方はやめて。玲史は……本当に純粋に夢を追っていただけなのよ」


 しかしその“夢”が、誰かの憎しみの種だったことを、僕たちはまだ知らなかった。


 


 夜。

 食堂に集まった全員の顔は、どこか曇っていた。

 話題は自然と城崎の過去に移り、誰もが口を濁す。


「玲史はな、最後の方……おかしかったんだ」

 森岡がぽつりと呟いた。

「温室にこもって誰にも会わない。飯もろくに食わず、ただ“青が足りない”って……そんなことばかり言ってた」


 “青が足りない”――。

 どこかで聞いたことのある、不吉な言葉。


「まあまあ、今夜はもう寝ましょう。明日になれば、少しは空気も変わりますわ」

 静乃が気丈に笑った。

 その笑顔だけが、この重苦しい食堂の空気をほんのわずかに和らげた。


 


 ――夜更け。

 時計が午前一時を回ったころ、廊下に微かな物音が響いた。

 床板の軋む音。窓を叩く風。

 そして、低い唸りのような音。


 僕は寝返りを打ち、うっすらと目を開ける。

 ――何か、聞こえる。


 次の瞬間、悲鳴が屋敷を裂いた。


「――うわああっ!!!」


 飛び起き、部屋を飛び出す。

 藤倉と鮫島が隣の部屋から顔を出し、青ざめていた。

「今の、何の音だ……?」

「下だ!」二階堂が叫び、階段を駆け下りる。


 温室の扉が開け放たれていた。

 そこには――

 青い光に照らされた死体が横たわっていた。


 対川駿太。

 胸を鋭い刃物で一突きにされ、血の中に青い花びらが散っていた。


「なんてこと……」真理子が息を呑む。

 二階堂がすぐに声を張り上げる。

「全員、部屋から出るな! 僕と黒田で確認する!」


 僕はただ、青い薔薇に染まった死体を見つめながら思った。

 ――この島は、やっぱり何かを拒んでいる。


 二階堂は全員を集め、淡々とアリバイを確認した。


 真理子は風呂に入っていた。

 ひかりと静乃は一緒の部屋でおしゃべりをしていた。

 森岡は酒を飲んで寝ていた。

 藤倉と鮫島は将棋をしていた。

 串山は廊下を歩いていたと話したが、誰もそれを見ていない。


 二階堂は手帳を開きながら静かに言った。

「つまり、串山の行動だけが確認できていない……か」


 館の外では、波の音がいつまでも鳴り止まなかった。

 まるで、この島そのものが、何かを呟いているようだった。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ