第一章 蒼き島への招待状
父が珍しく来客を迎えたのは、梅雨の晴れ間の午後だった。
玄関の向こうから低い声が聞こえる。どこか懐かしい響きがした。
居間に顔を出すと、そこには一人の男が座っていた。ボサボサの短髪の黒髪。スーツの襟元は少し乱れ、胸ポケットには2つのペンと古びた警察手帳が覗いてる。
――二階堂。
思い出した。あの時の男だ。
数ヶ月前、偶然にも僕が巻き込まれた閉ざされた館の事件で、最後僕たちを迎えに来てくれた警察官、名乗っていたはずだが、その名を僕はようやく今になって思い出した。
「久しぶりだな。武、元気にしてたか?」
二階堂は微笑みながら父親の方を見た。
「民間セキュリティ会社勤務だっけ?頑張ってる?」
「警視ともあろう男が、俺の仕事に文句を言いに来たのか?」
父親は苦笑いをしながら、少し警戒したように眉を寄せてる。
確か二階堂は、現役の警視。父親の警察時代の同期であり、父親の数少ない親友のひとりだ。
「頼み事があるんだ。」
その一言に、居間の空気が変わった。
彼の話によると、数年前事故死した科学者城崎玲史に関する再調査を行っているという。
城崎が死んだ蒼々島という離陸で、今になって関係者たちが再び集まるというのだ。
理由は、「城崎の遺産整理」
遺された研究資料や温室の権利、そして財産の一部を誰かに引き継ぐかを話し合うらしい。だが、二階堂の話しぶりからすれば、単なる相続問題ではなさそうだった。
「城崎の死には、不自然な点が多い。事故ってことになっているが、当時の報告には矛盾があるんだ。」
「お前らしいな。退職してもなお事件を追いかけるとは。」
「違う。俺はまだ現役だ。」
そう言って、二階堂は薄く笑った。
「島に関係者が一堂に会する。……何かが起こる気がする。お前にも手を貸してもらえれば心強いんだが。」
「悪いが、今の俺はただのパパだ。現場を歩き回るほどの体力はないし、調査で使う頭もない。」
父親は静かに断った。その声に迷いはなかった。
だがその代わりに、父親は少しだけ目を細め、僕の方をちらりと見た。
「代わりに、朔之介を連れてけ」
「は?」と思わず声を上げた。
「こいつは……俺の代わりだ。頭は悪くない。前にお前が関わった事件で助けてもらったらしいな。」
二階堂は口元がわずかに緩んだ。
「ああ。あの時の坊主か。」
僕は居心地の悪さを覚えながらも、思い出す。――あの夜の館。冷たい肌と、誰かの涙。あの時、最後に現場で僕達を迎えに来てくれた男。
それが二階堂だった。
「お久しぶりです。」
「覚えててくれて光栄だ。」
男の目が笑ったように見えた。
結局、僕は父の代打として蒼々島へ行くことになった。
好奇心もあった。だがそれ以上に、あの時から心のどこかに残っていた感情――何かを見届けたいという衝動が僕を動かしていた。
出発の日の朝。
小さな港町に着くと、灰色の海が色がっていた。梅雨明け前の重たい雲が流れこめ、風は湿ってる。
浅橋に止まるフェリーは古びた姿をしていたが、甲板にはすでに何人かの人影が見えた。
二階堂はチケットを見ながら言った。
「全員そろってるな。これが今回の“蒼々島行き”の乗客だ。」
彼が視線を向けた先に、九人の人物が立っていた。
ひとりひとりを紹介していくその口調は、まるでこれから始まる舞台の幕開けを告げるようだった。
「まず、あの眼鏡の男――串山亮。蒼井の副研究員で、事故の直前まで現場にいた。冷静沈着だが、人の心に疎い。」
「その隣、スーツ姿の細身の男が対川駿太。元同僚。責任逃れが得意なタイプだ。」
「明るく笑ってるのが森岡勇。表向きはムードメーカー、裏では金の匂いに敏感だ。」
「派手なワンピースの女性が羽深ひかり。蒼井の恋人だったらしい。今は出資者の娘でもある。」
「作業服の男は黄地寛。設備業者だ。腕っぷしは強いが短気だ。」
「怯えたように周りを見てる若者が鮫島文哉。研究助手。何かを隠している顔だな。」
「コート姿の男は藤倉崇志。元新聞記者。今回の集まりも、何か嗅ぎつけたらしい。」
「最後に、ショートヘアの少女が時雨静乃。整理アルバイトとして呼ばれたそうだ。」
そして、少し間を置いて――
「小柳真理子。蒼井の助手にして、今回の集まりの“案内人”だ。この島のことをよく知ってるからだらしい」
「ずいぶんと奇妙な顔ぶれですね。」
思わず僕が呟くと、二階堂は短く笑った。
「だろう? だが、こういう集まりには必ず“何か”が潜んでいる。」
船がゆっくりと動き出す。
港が遠ざかり、灰色の海が広がる。風が湿った頬を撫でた。
甲板の上では森岡が冗談を飛ばしている。
「まさかこれから、宝探しとか始まるんじゃないですよね?」
黄地が笑いながら応じた。
「金目のもんがあるなら歓迎だな。」
羽深はそれを冷ややかに見つめ、ため息をついた。
「あなたたち、本当に能天気ね。」
そのやりとりを眺めながら、僕は静かに思った。
――この中に、きっと誰かが嘘をついている。
空は次第に曇り、波が高くなっていく。
船体が揺れるたび、青灰色の海面が鈍く光った。
その光が、不思議と血のように赤く見えたのは、気のせいだろうか。
やがて、遠くに島影が見えた。
蒼々島――蒼井玲史が最期を迎えた場所。
十年前、彼の“青い薔薇”が完成したとされる研究所と、同時に燃え尽きた館。
だが今、その島は再び人を迎えようとしている。
風が湿り、空気が重くなる。
波の音が、どこか遠くでくぐもっていた。
灰色の海が、どこまでも続いている。
二階堂が、手すりに肘をかけたまま小さく呟いた。
「なあ、黒田。……この海の色を見て、どう思う?」
霧の白が、彼の横顔をかすめる。
僕は、しばし言葉を探してから答えた。
「まるで、何かを隠してるみたいですね。」
二階堂はうなずき、目を細めた。
「そうだ。真実ってやつは、たいていこんな色をしてる。」
その言葉は、波よりも静かに僕の胸に落ちた。
潮の匂いと一緒に、妙な重さを残して。
僕らはしばらく、無言で海を眺めていた。
風も、声も、霧に呑まれていく。
やがて、船は白い幕の向こうへと静かに消えていった。
胸の奥に、冷たい波がひとつ打ち寄せる。
それが、不安の形をしていると気づくまでに時間はかからなかった。
そのとき、胸に広がった不安の意味を、
僕が知るのは、もう少しあとのことだ。




