3. 世界の在り様
曇天のビルの屋上。キリルは、ガンケースからスナイパーライフルを取り出しながら言う。
「5分後にターゲットが来る。」
もう4人目の暗殺だ。手慣れてきている。ギグリアの対テロ組織は、手がかりが無さすぎて対処のしようがない。とはいっても、まだ2日が経ったところだ。これから警備が厳しくなってくることが予想される。
「今回のヤツを始末したら、次がリストの最後になるんじゃないのか?」
向かいのビルに銃口を向ける。だがブラインドが閉じていて、部屋の中を視認することが難しい。
「そうだな。何が言いたい?」
「アフィシア=オルシェからの提案されたんだが、ギグリア大統領と話そう、な!内緒話は、したいよな?」
キリルは無言で考える。
「…あぁ、そうしよう。」
ブラインドが開く。その瞬間を逃さず発砲される。
「僅かに外した。もう一発。」
ターゲットは何が起こっているのか解釈に手間取る。その隙を逃さず、ボルトアクションで弾丸を装填し、再び撃つ。
「仕留めた。」
「正常性バイアスが働いたんだろうな。あいつは訓練不足だった。」
キリルは横目でドラウナーを見つつ、ガンケースにしまう。するとオルシェが現れた。
「やあ。久しぶり。」
「どうも。」
「大統領に会わないか?いや、会ってもらわないと困るな…。」
ドラウナーは親指を立てて同意している。キリルはその様子を見てから同意を示した。
ギグリア大統領官邸のロビー。白髪のオールバックの小太りな丸眼鏡の男、セルファン=ユミスタス大統領は、白湯を入れ、ソファでくつろごうとしていた。これから会う人物は、話の通じない相手かもしれない。そう考えると不安で緊張する。だが話す内容は準備した。録音の用意もした。やれることはやったのだ。後は待つだけだ。どう転んでも仕方がない。だが仕方がないでは済まない。
「大統領、お待たせしました。」
大統領が立ち上がって振り返ると、アフィシア=オルシェ、ダルン=ドラウナー、キリル=ヴェインがいた。
「セルファン=ユミスタスです。どうぞ、お掛けください。」
ユミスタスはゆっくりとした口調で一人用の座席に移動し、座る位置を変えた。それと同時に録音を開始した。
「こちら、キリル=ヴェインさんです。」
キリルは客用のソファに座ったが、ドラウナーはボディガードらしく、全体が見える後ろに立った。
「長旅させてしまって申し訳ない。早速ですが、皆さんは、パブロア戦争のギグリア側の動機について知ってますか?」
飲み物も出さずに話を始める。しかし誰もそのことを気にかけない。
「表向きは、パブロア魔術を謳うペテン師 パブロア王の打倒だとか思想統一だとか言ってたな。しかし本音は、パブロアの土地を求めてのことだろう。ギグリアは侵略できるからしたんだ。」
キリルははっきりと答えた。ユミスタスはアゴを上げ、キリルの目を見た。
「違います。本音はパブロア黒魔術を根絶やしにすることです。副次的なものが土地ということでしかありません。」
大統領が言うのだから、その通りなのだろう。しかしキリルは理解できず混乱した。
「黒魔術?パブロア魔術は…パブロア王家のみに伝わるもののはずだ。」
「どれだけパブロア魔術について知っていますか?」
「確か呪物を錬成できるんだよな?しかしギグリアは公式にパブロア魔術の存在を否定しているはずだろ?なんで肯定するようなことを言うんだ?」
ユミスタスは深い目でキリルを見る。キリルが落ち着くのを待っていた。
「パブロア魔術の存在を肯定すれば、ギグリア内でもパブロア魔術に傾倒する者が現れかねません。呪物をどうやって作るのか知ってますか?」
「作り方なんて、見たことも聞いたことも無い。ただ教科書にチラッと出てきた知識しか持ち合わせてない。」
「あなたの左手の指輪は、パブロア魔術の産物ですよ。」
「?!」
キリルは驚いた。今まで気にも留めていなかったからだ。
「そうですね、ではきちんと最初から話しましょうか。」
ギグリア大統領は座り直す。
「3年前までは、ガルザ地区の上を国境線が走っていました。東はギグリア領ガルザ、西はパブロア領ガルザです。この東西ガルザは、現在、いわゆる【呪われた地】で覆われてしまっています。しかし、昔のガルザ地区は【呪われた地】で完全には覆われていませんでした。【呪われた地】はここ100年で拡大したのです。他の土地に住む者は平均寿命が70代であるにも関わらず、そこでは50代後半です。10年以上も寿命が短くなっています。」
オルシェは口を挟む。
「でもその平均寿命は、生活習慣や食習慣を含んでないのでしょう?」
「確かにそうです。ですがそれを加味してもあまりにも短すぎるというのが、専門家の意見です。確かにギグリア公式見解では否定していますが、実際は確実に【呪われた地】と言える場所なんです。流産となる確率は公表されていませんが、20%ほど高くなっています。」
「それが何か関係あるのか?」
「大ありです。【呪われた地】はパブロア王家の生贄の儀式によって拡大されていたようです。その土地の生気を吸い上げ、魔術行使の原動力とすることができるようです。つまり、パブロア魔術は黒魔術と言えます。」
「証拠があるのか?」
「パブロア王家と近縁の者がガルザに出向き、不定期に儀式を行っていたことが報告されています。儀式によって物質に魂を宿らせ、特別な力を持った呪物を生成していました。戦前、私たちは【呪われた地】が拡大していることを簡単な調査によって確認し、これ以上のエスカレーションを恐れていました。だから戦争をしかけることにしたのです。」
話の筋は通っている。
「幸い、パブロア王家の間でも分断が進んでいました。パブロア黒魔術にはリスクが伴います。生贄がそれです。近年の高い倫理観や思想の変化が足かせとなって、特に最近では生贄が支払えなくなってきていたようです。」
ギグリアは開戦前に王家の位置を特定し、開戦直後にミサイルで攻撃していた。明らかに滅ぼすことを前提とした作戦を実行していたことが知られている。
「魔術をロストテクノロジーにして良かったのか?再現できるのか?」
「むしろ恐ろしいが故に、ロストテクノロジーとしたかったのです。生贄が倫理的に間違っている上に、悪魔との関わりを持つというリスクを背負っています。悪魔は人々を堕落させ不幸にする存在です。ヴェインさん、あなたの指輪は大丈夫ですか?」
キリルの黒い指輪は沈黙している。
「この指輪が無ければ、ここまで来られなかった。」
ユミスタスは、キリルの言いたいことが分からなくもなかった。
「確かにこの世界は分からないことが多過ぎますね。悪魔の力を拝借できるのであれば、それは大きな武器となりましょう。ですが、悪魔がこの世界に侵出しようとしていることを忘れてはなりません。短期的には良くても長期的にみれば、必ず世界的な問題となります。だからこそ、パブロアでも皆が扱うような技術にはならなかったのです。あまりにも背徳的であり、問題解決のために使用した場合、かえって問題が複雑化して手が出せなくなるようなことが容易に想像できるものなのです。かつてのパブロア王家はそういった性質を克服しようとしていたのかもしれませんが、そうはなりませんでした。」
オルシェは再び口を挟む。
「確かに大昔、このグロア半島で悪魔との戦いがありましたね。それらしい痕跡が幾つも出土しているので史実となってますね。」
キリルは幼い頃、それを学んだ。空が陰り、強烈な突風が吹き、地撃の悪魔が降臨したらしい。壮絶な戦いの末、ガルザ地区北部には大きなクレーターができ、それがガルザ湖となり、時を経て、今のガルザ沼となったと言う。だが反証もある。唯物論者は隕石説を持ち出し、今ではそれが定説となっている。だから世間一般では、悪魔の存在は曖昧となっている。
「それで、パブロア領に住む人々はどうするつもりだ。」
ユミスタスは明確な回答をしづらい。自分だけでは決められないことだらけなのだ。戦時中から野党はおろか、与党もコントロールできない状態である。
「私は弱い大統領です。しかし今なんとかまとめ上げようとしています。調整しているんですよ。もう少しだけお時間をください。今のギグリアには、このままで良いと考えている者はいません。」
それでも現状まかり通っているのだから問題だ。キリルにはそれが我慢ならない。
「お前らが無意味な会話をしている間にも、パブロア民は苦しんでいる。速やかに解決すべき問題だ。本当にギグリアの政治はそれでいいのか?実行力が壊滅的に無いじゃないか。」
ユミスタスはそんなこと分かっている。
「私と意見が合わないのだから仕方がありません。そうは思ってはいましたが、最近になってやはりそれだけではないということに気付かされます。」
「誰か殺してほしい人物はいるか?」
「本心から言って断じていません。むしろ暗殺して政治を強引に推し進めるのであれば、それは悪徳と言えましょう。」
ユミスタスには、現状の組織に良いところがあると理解している。
「だから先に進まないのか。あんたは今のギグリア政治を事実上、肯定しているから罪深い。何を恐れている?このまま批判されたままでいいのか?」
良いわけがない。ユミスタス自身も何とかしたい。
「だからと言って、人を殺して良いわけがないでしょう。生きている以上、保身も必要になってきます。」
「戦争をして、たくさんの人を殺しておいて、何を言ってるんだ?!」
「戦時中とは常識が違うんですよ。私はギグリアの法を守っています。ヴェインさんはあなた自身の誓いを守っているんですか?」
キリルは我慢できなかった。机を叩き、拳を握り、目を血走らせ、歯を食いしばり言う。
「調子に乗るなよ!お前がチンタラやってるせいで、どれだけの人が苦しんでると思ってるんだ?!」
オルシェは警戒し、キリルに一歩近づく。ユミスタスは平然を装って言う。
「そうは言っても、暴力はいけませんよ。」
「本当にそう思うか?こっちはもう最後の手段を使うしか無いんだ!暴力を使わせるお前はいったい何なんだ?!」
か細い声で言う。
「…話し合いをして、皆が足並みを揃えて行動するには時間がかかるんです。」
「…クソッ!」
キリルは再び机を叩いた後、うなだれた。ユミスタスは脱力して言う。
「私はパブロア民のために、道路を整備し、住居を用意するつもりです。上下水道・電気・ガスも必要です。パブロア民には、安心して生きていける環境・仕事・充分な資源が必要です。」
「お前の仕事が進まない理由は何だ?誰が邪魔をしている?」
キリルは可能な限り、早く、パブロア民を解放したい。
「まとまった予算がつかないことが大きな問題です。一度に全てをやろうとするからいけないのか。しかし、その方が間違いが起こりにくい。」
キリルには、具体的な救済プランが無かった。自分のアイディアは、浅見で行き当たりばったりに思えてくる。しかしユミスタスのアイディアは、一向に実現していない。であるにも関わらず、指輪はユミスタスに悪意が無いことを示している。
「…ギグリアの政治制度が間違っている。ギグリアは無くなればいい。」
「は?」
ユミスタスは耳を疑った。オルシェは思案していたが、口を開く。
「キリル=ヴェインさんの提案は、一考の価値がありますね。パブロアの復活と合わせて行うか、ギグリアの政治システムを変えるのか、2つに1つであると考えます。」
「パブロアの復活はできませんよ。王家はすでに絶えていますから。」
「…そうなると、ギグリアの政治を変えるしかありませんね。幸い、カルアは優れたシステムで運営されています。ギグリアへ適用できるかどうかは不明ですが、詳しいお知り合いがいます。掛け合ってみますね。」
オルシェは微笑んでユミスタスに歩み寄るが、ユミスタスは目に陰を宿している。
「簡単に決められる内容ではないですね。」
「もちろん即断する必要はありません。しかし今の政治システムはマズいですよ。話だけでもしましょう。」
「…はい。一週間後に返答します。」
ユミスタスはため息を吐いた。どこか哀愁を帯びているように見える。キリルは空気を読まずに質問する。
「何かまだ話はあるか?」
ユミスタスは、うつむき、上着のポケットから紙切れを取り出し、ため息混じりに言う。
「…あぁ、まだありました。その指輪を解呪していただきたい。」
キリルにとっては、解呪なんて考えもしなかったことだ。短命を受け入れていたキリルには、この上ない救いに思える。心が動く。甘えなのか?だがそれを望む者が目の前にいる。
「できるのか?この指輪は骨と繋がって根を生やしている。もう俺の体の一部だ。」
自分の体だから分かることもある。少なくとも困難であろう。
「専門家から解呪について聞きました。紹介しましょう。ただ私の立場上、キリル=ヴェインを捕えて、法で裁かなければなりません。」
ドラウナーは少し肩を回して言う。
「良いのか?ここで死ぬ気か?」
軽いトーンだが冗談で言っているとは思えない。オルシェは立ちはだかり、ユミスタスをかばう。ユミスタスはドラウナーの真意を感じ取った。
「そういう意味ではありません。間接的に専門家を紹介するということです。今回の非公式の会談は、あなた方の意思と基礎知識を確認したかったのです。あなた方のやるべきことは分かりましたか?」
キリルは手を組んで目を閉じた。オルシェは言う。
「ギグリアもキリル=ヴェインさんも、変わらなければならないことは分かりました。私達はその手助けをしようじゃありませんか。」
別れの挨拶を済ませた後、3人は去っていった。ユミスタスは自身の身の振りについて考えると、ため息が出てしまう。
「引退も視野に入れて、構造改革かな…。」
ユミスタスは、ギグリアの政治問題について今一度考察した。
イーゲル=クライスは、48歳の口ひげを生やした坊主頭だ。猫背だが妙に筋骨質な印象を与える。パブロア王家の出自だ。クライスは、22歳にしてパブロア魔術に嫌気が差した。
当時のパブロア王は生贄の儀式について研究しており、クライスはその調達係をしていた。調達係と言っても、生贄を買えば良いわけではない。当時のパブロアは治安も良く、問題がある人物を連れてきて生贄にできるわけでもなかった。ただ問題の無さそうな人物を騙して生贄にするという非人道的なやり方をするより他は思いつかなかった。そんな折、ギグリア人が声をかけてきた。
「パブロア魔術に詳しい人物が欲しい。」
ギグリアの政治家、当時35歳のセルファン=ユミスタスは極秘裏にイーゲル=クライスに接触したのだ。
「見返りは?カネがもらえるなら一向に構わない。」
「ギグリア国民になってもらうこと、こちらの用意した住居に住んでもらうこと、大学の講師になってもらうことが条件です。引っ越し祝い金くらいなら出せるかもしれません。」
この条件でクライスは快諾した。
今思えば最適解だったのだろう。そのままパブロアにいれば、戦争で死んでいたのは間違いない。だが呪物の研究は、はっきり言って面白くない。成果を上げても多くの事柄が公表禁止となるからだ。評価してくれる人はいるにはいるが、果たしてどの程度理解してくれているのだろうか。呪物そのものも危険な物がごまんとある。真贋の判定が難しく、知らない間に呪われていることもある。この前は寝ている間に悪夢を見て、汗びっしょりで目を覚ました。その後、天使のペンダントに触れた時に何かが自分の中から抜けていくのを感じた。天使のペンダントの効果を知れたのはありがたかったが、リスクが分かりにくいのが恐ろしい。嫌な予感がし、得体の知れない危険と隣合わせであることに不満を感じる毎日である。しかし、そもそも自分に安住の地など無いのだろう。この世界のどこに行っても危険は存在している。今やロストテクノロジーとなった先祖の遺物を収集し解析する仕事は分相応なのだろう。ここに誇りを見出したい。そう思う毎日だ。
解呪の方法は、キリルが自力で見つけられるほど簡単ではなかった。ここは、【呪われた地】ガルザ地区の中心、旧国境沿いだ。晴れてはいるが雲が何かを訴えている。嫌な予感がキリルの体にまとわりつく。それが指輪がもたらすものなのか、単なる自身の不安からくるものなのか分からない。下車し、道があるような何もないような、そんな道を歩いていると炉が見える。レンガの壁は三方向にあるが屋根のない建物の中に、ただ土の山にも見える前時代的な炉がある。その近くに男がいる。
「あんたがパブロア魔術の研究者、イーゲル=クライスか?俺はダルン=ドラウナーだ。」
「はい、クライスです。ということはこちらがキリル=ヴェインさんですね?」
「あぁ。」
「解呪をご希望と聞きました。ですが、一朝一夕で終わるようなものではありません。ちょっと指輪を見せてもらえますか?」
クライスはぶっきらぼうに出されたキリルの左手首を掴んで、目を細めてため息をついた。
「パブロア魔術は魂を操る術です。その中の一つ、呪物生成術は、物体に魂を宿らせる術です。この指輪はその中でも最たる物であり、ここにある魂は悪魔のような存在でしょう。」
「それは知ってる。どうしたら解呪できるんだ?」
「悪魔は現世での受肉・降臨を望んでいることが普通です。それゆえに、ヴェインさんが死ぬだけでなく、最悪、肉体を乗っ取られてしまい、周囲の人まで被害を受ける場合があります。相手が高位の悪魔かそれと同等の悪意ある存在であれば尚更でしょう。」
ため息をついて、再び一言つぶやく。
「…私は正直、この件に関わりたくなかった…。」
後ろ向きなクライスにキリルは言う。
「あんたがいなくたって、俺はやるぞ。方法さえ分かれば、誰だってできるのがパブロア魔術だろ?教えてくれ。」
何やらブツブツ言いながら、解呪の方法を手帳に書き始めた。しばらくして書いたページを雑に破ってキリルに渡した。
「私は途中で降りさせてもらいます。マズいことになるのが予想できるからです。ただ、マズいのはヴェインさんだけじゃない。この半島にいる人全員です。」
「は?」
驚いたキリル。一方で、ドラウナーも何だか逃げ腰になる。
「助けてやりたいが、ちょっと今回は…。」
「ちょっと待て。とりあえずこの身代わりの土人形をつくるところまで一緒にやってくれ。」
メモには『最初に、【呪われた地】の土をこねて人型(土人形)にして炉で焼く。次に、儀式によって魂を呪物から土人形に移す。最後に、特別なハンマーで土人形を破壊することによって解呪ができる。』とある。
「儀式中に事故が起こることがあります。特に高位の悪魔の場合は事故が起こりやすいんです。魂を移す際に、依り代が土器ではなく呪物所持者になってしまうことや、土人形が破壊不能な物に変質して結局元の呪物に戻る場合もあります。」
「悪魔を祓うことはできるのか?仮に俺が依り代になったら、どうにもならなくなるのか?」
「悪魔次第のところはあります。そもそも昔から祓魔・解呪はやらないことになっていました。例外的に行うこともありますよ。ただ呪物が思い通りにならなくなれば、依り代となってしまった人を銃殺することも覚悟する必要があります。破壊不能物質となれば、深海に沈めることもあります。しかしハプニングが起きた場合は大抵うまくいきません。海に沈めても翌日、手元に戻っていたり、形が変わった状態で目の前に現れるなんてことはよくあることです。結果的に呪いが強まり、問題が大きくなったり複雑化することが普通です。」
「問題が大きくなるとか複雑化するってどういうことだ?」
「呪物との一体化が強化されて、より精神に悪影響を及ぼした例を知っています。浸食されてしまうんです。結果的に、悪魔を召喚することに繋がりやすくなります。」
キリルは何も言えなくなった。多くの人に迷惑をかけるような話だ。クライスとドラウナーの反応が何より堪えている。自分だけが助かるために、周囲の人を巻き込んで良いわけがない。
「その指輪は実に良くできています。良い物であるからこそ、高い安全性、高位の悪魔かそれに類似する魂が宿っているのです。ですが解呪することが前提で作られてはいないでしょう。そもそも解呪前提の呪物を見たことなどありませんけどね。」
ウルテガは答える。
「なるほど。解呪はやめよう。キリルの命はあとどの位なんだ?」
「それは分かりません。ですが通常、最期は悪魔が呪物所持者の魂を喰うと聞いています。」
クライスは分からないと言っているが、キリル自身は自分の人生が残り短いことを悟っていた。しかしまだ納得がいってない。ウルテガは言う。
「魂を喰われる時は傍から見て、どうなるんだ?」
「突然、黒い霧がかかって心臓が止まるだけです。死体は最悪、灰となりますが、呪物は残りますのでご安心ください。」
キリルはふらふらし始めた。先のことを考えるのにウンザリしてきた。死を覚悟し、助かるのかもしれないと感じ、今また死が近いように感じる。疲れて、その場に座った。ドラウナーは言う。
「解呪ができそうにないっていうのは分かったけど、お前の人生がまだあるのは確かだろ?まだパブロア民のために何かできるんじゃないのか?」
キリルはそんなに簡単に前向きになれない。
「そもそも、命と引き換えにパブロア民を救うって言ってただろ?」
「…そうだな。」
キリルは今の自分の境遇を再確認した。ギグリアに自分の居場所は無い。ダリル収容所はいつ襲撃されるか分からない。立場上、引き返せない。むしろ突き進むしかない。達成困難な大事であり、人々を救うためには指輪の力が必要だ。
「ヒヨっていた。俺には元から生きる道なんて無かったんだ。」
キリルは立ち上がり、指輪を見つめる。
「指輪をした時に、違うな、指輪をする前から、もうすでに決まっていたんだ。助かるかもしれない解呪なんか必要ない。今の俺に必要なのは、無闇に長生きする方法じゃない。パブロア民を救う手段を見つけることだ。それも漠然としたものではない、より具体的な手段だ。」
「そうだな。で、どうするんだ?」
「反革命派が傭兵を雇い、俺を殺して、ダリルを陥落させるつもりだ。それを阻止する。」
「反革命派?そんなのいたか?」
「…昨日の大統領との会談の影響だ。大統領は革命を起こそうとしている。だがそれに抗う連中が現れる。」
キリルとドラウナーは来た道を引き返す。クライスは一人つぶやく。
「この国を動かしているのですね。初代パブロア王の指輪の影響力は本当に凄まじい。」
どんよりとさせる雲、赤くなる空。クライスは炉の火を消して煙の行く末を見る。煙は風に吹かれて見えなくなった。