-永久明鏡止水物語-
それは神様と少女のお話し
***
人が滅多に入る事の無い、深い深い森の中に、小さな池がひっそりと佇んでいました。
その池は、澄み切っていて綺麗で、でも、とても不思議な池でした。
何故ならその池は、何があろうとも、波紋が広がる事は無かったのです。
綺麗でしたが、鏡の様な不思議な池でした。
また、其処には、その池の水の様に澄み切った美しい神様がいました。
そして、それはこの池の神様だったのです。
この神様には感情と言うものがありませんでした。
もし、神様が喜怒哀楽を少しでも感じることがあれば、その土地に何らかの変化が表れる筈ですが、この神様は何も感じる事がありませんでした。
だから、この池は風が吹こうとも、雨が降ろうとも、波紋一つさえ出来ませんでした。
それは、今までも、これからもずっと……
***
時は流れ季節は過ぎ
また同じ季節を迎えた頃
変化が訪れた―――
***
14、5歳の少女がこの森に入って来た。
滅多に人が入って来る場所では無いのに、何故だろうと思い近寄ってみたら、少女と目があった。
少女は不思議そうに覗き込んで来て、私に向かって誰かと問うた。
私は知らぬと言うと少女は更に不思議そうにし、
“貴方は自分が何か分からないの?”
そう言うと、さっきまでの無邪気で好奇心のままに動く幼子のような顔から一変し、母親のような顔で悲しそうに微笑んだ。
けれど、途端に元の表情に戻り、
“じゃあ名前は?”
私は答えられなかった、名など無いのだから。
私がずっと黙っていると少女はそれを察したのか、
“無いの?なら私が名前を付けてあげる”
そう言うと、ああでも無いこうでも無いと呟きながら、一生懸命私の名を考える少女をじっと見つめていた。
暫く経ってまだ悩んでいる少女に、“別にいらないから”と言おうとした時、急に表を上げ少女は顔を綻ばせて、
“決めた!!あなたは
―――ウォアード”
そう、言った。
少女は満面の笑みで何度もその名を呼んだ。
その名を呼ばれると、まだ名前も知らない感情が溢れ出しそれで心が一杯に満たせれる感覚になる。
初めて味わう感覚に戸惑いながらぼうっと少女を見ていると、少女は急に“あっ”と声を出して、急に改まったようにこちらを見、
“そうだ、まだ私の名前を言ってなかったね。
私の名は~~~
よろしくウォアード”
そう言い、手を差し出した。
私は恐る恐る手を差し出し、少女の手に重ねると、いっそう嬉しそうな顔をして、
“じゃあまた明日来るね”
そういって手を降って帰っていった。
***
紅に染まる空が、太陽を連れて往き
そして紺色に覆われた空が、月を連れて来る
***
ぼんやりと、いつもとは違う出来事を思い出しながら月を眺めていた。
―――あなたは、
ウォアード――
少女の言ったあの言葉が深く、深く胸の中で響いた……
――――ちゃぽん…――
***
あの日以来毎日のように少女は訪れ、他愛もない話を途切れる事なくしていた。
そして、来る度に私の事をウォアード、ウォアードと呼んだ。
呼ばれる度にじんわりと胸に暖かいモノで満たされていった。
何度目、だっただろうか。
何時も自分を見つけて嬉しそうに駆け寄って来る筈の少女は、今日は何処かぼんやりとして、池の淵に腰掛け鏡の様な水面を見つめたままさっきから一言も話さない。
黙って傍に居てやると、少女はぽつりぽつりと自分の話をした。
自分はある病にかかっているらしい、その病は治る事のない不治の病でせめて空気の澄んだ自然の豊かな所で療養するようにと此処に来たのだ、と言う。
そんな事を話している最中も笑みを絶やさなかった。
少女の纏う薄い生気に、薄々は気付いていた。
けれど、来る日も来る日も、幸せそうにいろんな話をする少女が、不治の病かかっているなんて到底思えなかった。
その次の日から、少女は此処には来なくなった。
始めは何とも思わなかったが、一日、また一日と過ぎる内に疑問に思い久しぶりに村の梺へ下りると、家の数もまた精霊や守り神の数も減り、村は錆びれていた。
人一人居ないような静けさの中
真新しい家から啜り泣く声が聞こえてきたので気になって家の中を覗くと、少女が手を組みベットに横たわっていて、横で女の人は少女の手を握り啜り泣き、男の人がその女の人を抱きしめていた。
少女は亡くなっていた。
患っていた病が急に悪化した為だった。
その時、私は初めて悲しいと感じた。
すると頬につうと伝う一筋の生暖かい水が流れた。
それが涙と分かるのには、少し時間がかかった……
――――ちゃぽん…――
まだ微かに胸に残る温もりは、小さな痛みを残し消えていった。
そこから森には再び静かな時が流れた。
少女と出会ったのが嘘のように静寂を取り戻した心。
結局、感情を持てたのはあの時限りで、もう池には二度と波紋が広がることはなかった。
涙も、もう出ては来なかった。
ただ時々、少女と最後に話したあの日を思い出す。
少女はあの日自分の名を呼んで欲しいと言った。
私が渋っていると少女は悲しそうな顔をしたので、私は気恥ずかし気持ちを我慢して呼ぶと、今までで一番の満面の笑顔で私の名を呼んだ。
――――ウォアード―――