バイオリン
黒髪のちょっと吊り上がった眼鏡をかけた家庭教師はパンパンと指導棒をたたいて調子をとる。
家庭教師のMrsモーリスは近くの村の教会の神父の親戚にあたる未亡人だ。
ひっつめた黒髪と、誰もかけていない眼鏡の瘦身の中年女性だ。
彼女は自分の持つ指導棒をメトロノームの代わりにしている。
アリスは今日も大っ嫌いなバイオリンの練習をしていた。
鋸を引くような音の後やたら甲高い音が聞こえてくる。今まで一度もきれいだという音を出せたことがないのだ。
どれだけ努力しても程よい高さの音がどうしても出せない。
メアリーはずるい。最初に楽器を選ぶ際にピアノを選んだ。ピアノは鍵盤をたたくだけで澄んだ音がする。
アリスも本当はピアノがよかったのだ。
しかしメアリーが最初に楽器を選ぶ権利を与えられたので早々にピアノを選んでしまった。
それでもエイミーよりましだ。エイミーは選ぶ余地がないフルート一択なのだ。
エイミーの肺活量でフルートから音を絞り出すまでにどれほどかかるかは知らない。たぶんアリスがバイオリンからきれいな音を出すまでの時間よりかかるだろう。
メアリーはアリスより二つ上なのですでに二年間ピアノの練習を続けていたのですでに簡単な曲ぐらいは弾けるようになっていたがアリスは一小節どころかまともな音階すら出すことができない。
両親は姉妹を合奏させるのが夢なのだという。しかし不協和音しか出すことのできないアリス、楽器の練習は三年後の予定のエイミー、両親の夢がかなうにはあと十年はかかるだろう。なんとも気の長い話だ。
ディアレストとリガードという無駄に豪華な名前の黒猫兄弟はアリスの奏でる轟音に恐れをなして逃亡していた。
二匹の猫はバイオリンを見ただけで逃げ出すようになってしまった。
アリスはバイオリンの弓で力いっぱい弦をこすり続けた。
Mrsモーリスはアリスの指をそっとこすった。
「これくらいの力でこすってね」
アリスの指から少し力を抜いた。
家庭教師は村の教会に勤め村の子供たちの合唱や音楽界の指導をしていた。この家には三日に一度通っていた。
Mrsモーリスは音楽だけでなく勉強も一通り習っているので音楽レッスンは週に一度、それ以外は音楽も他の授業も自習だった。
「そんなの力を入れると弦と弓が早くすり減って傷んでしまいますよ」
そう注意された重低音と高低温の暴走は少しだけ静かになった。
アリスが手を止めたときちょうどドアベルの鳴る音がした。
「あら、ちょっといいタイミング。さっきまでなら聞こえなかったかもしれないわ」
いうまでもなくアリスの奏でる轟音によってだ。
そして音楽室の扉が開いた。
「これから私のレッスンの時間よ」
メアリーがおさげを揺らして入ってきた。
「お客様は?」
アリスが尋ねた。しかしメアリーはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「つまんないおじさんだったわ」