倒錯
衝動的に飛び出した死神を待っていたのは、相槌もしない紫の虚空だった。無機質な空間は何も語らず何も聞かない。誰の味方でもなく、誰の敵でもない。
「俺に……意思など……」
彼の周りにあるのは宙に浮くデブリと地に刺さる岩だった。それらは他人であり、孤立した傍観者でもある。
「死神の役割は……」
情景は皮肉で滑稽にも見えた。なぜなら、彼の言う『死神の役割』とやらは、ひどく上位下達であり、高度に組織化されている。
死神の集団はひとつの生命体かのように、柔軟で迅速に振る舞う。上位者が頭なら、彼は手足だ。頭を守るため、手足は存在の喪失を厭わない。
『己の命を奪った者への服従』
それが死神の同胞となる条件だ。分かりやすくもあり、理解し難くもある。
――また、遊ぼうね。
死神が人として最期に聞いた言葉ーーそれが彼の脳裏によぎった瞬間、巨大な岩――透明で硬質な結晶体が爆散した。
砕けた結晶が粉雪のように舞い、爆散の主――彼のひじから先は、その衝撃で消し飛んでいた。しかし、石膏で鏡像を作るかのように、すぐさま再生が始まっている。
「ユイ……」
その名は、かつて彼の妹だった存在。彼はきっと、間違ったのだ。最期に頼る相手を。死神を選んだことが、彼と妹を永遠に引き裂いていた。
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「なんで自分の能力の仕様を知らないんですか? スティーブン・ジョンが社長ならクビですよ!」
ばん、と叩かれたホワイトボードには、いくつかの直線に加え、ぐー、ちょき、ぱーの三すくみが描かれていた。それぞれのマーク横には杖、銃、翼が小さく添えてある。
「普通気にしないわよ。そんなの」
桃色導師服の女神は面倒くさそうにグラスを傾ける。かすかに泡たつ黄金色の液体――シードルが彼女の整った喉を上下させた。
「僕はなんでもいいのだ。シバタが死んでるのは本当だよね。だから、僕が天界に導くだけなのだ」
そういって翼を広げて両手を組むのは、白羽の中性的な丸顔――天使だった。
「死んでいる――。それはまあ、百歩譲ってありえる仕様としましょう。でもね、その後の処理が曖昧なのは許せないんですよ」
既に死んでいる――それをあっさり受け入れたこの男。ホワイトボードに手をかけた彼の名はシバタ。生前ゲームエンジニアとして働いていたことから『仕様の曖昧さ』――バグには過敏だった。
彼は続けた。
「死の淵へ手を差し伸べる女神! 死人を救済する天使! それから、殺すことで眷族とできる死神!」
「……なんだ、突然」
ちょうど扉を開けて戻ってきた死神へ、シバタはびしっと指をさした。
「わかりませんか? これは三すくみ! 無限ループ! つまりバグなんです。神が見逃しても僕は許さない。僕が信じるのは唯一にして絶対のものなのだから!」
シバタは言葉を切って三方へ視線を向ける。
――何よそれ? と女神が問うのを受けて、シバタは大げさに言った。
「仕様です。仕様こそが唯一にして至高のルールです」
天使と女神が顔を見合わせた。
「もしかしてババ引いたのだ?」
「えぇ。これだからワーカホリックな民族は……」
肩を落とす彼女らを無視して、シバタは死神へ訊ねた。
「死神さん。あなたは自分の能力……殺すことで仲間とする力……その詳しい仕様――ええと、使い方や手順を説明できますか? 例えば、名前と顔が必要とか」
「機密事項は伏せるが……説明は可能だな」
死神の言葉を聞いたシバタの目が、ほら見ろとでも言いたげに変わる。彼のじとっとした視線を受けた女神は呆れたように手のひらを天に向けた。
「俺たち死神は――、」
死神は一呼吸置くと一気に語り出した。
「ターゲットを事前に選定、申請した後に綿密な議論を重ねる。議論には交戦規程や必要な装備、作戦内容といった戦術的な物から、周辺のマップや天候、気温、時刻といった諸条件まで様々だ。特に気をつけるのは現地の政治的状況や治安で、メキシコやアフガンなどでは武装した現地人も多く、想定外の事態で作戦が失敗しやすい。その点、ニホンのトーキョーは政治的にも安定し治安も良いことから作戦には理想的だった。もちろん、第三勢力として天使や女神との遭遇も検討したが……。正直これは不運としか言いようがない。地上の人口密度と死者数を勘案すれば、普通は遭遇しないからな」
流暢にどことなく得意げに語る死神だったが、周りの反応は冷ややかだった。天使にいたっては居眠りを始め鼻提灯をたてている。
「ぼく……ただの一般人すよ」
「あんたら、毎回そんなめんどくさいことしてんの……? どこの秘密結社よ……」
「力には責任が伴う。慎重なのは褒められることだろう」
死神はがしゃこん、と背負ったショットガンに次弾を装填する。
「事実、作戦は最小限の装備で想定通りに進んだし、念のため備えたSMGとSGも使わずにも済んだ。こいつらも市街地で高低差や遮蔽物が多いことを踏まえれば、それほど有効ではないからな」
そこでシバタが疑問を口にした。
「どうしてその銃で俺を打たなかったんですか?」
「そうしたいところだが、俺たちの武器は現世の生命体には影響を及ぼせないらしい。研究チームが色々と試作して、ようやく生命体以外の無機物――今回なら手すりだな。それらを脆くしたり、車のタイヤをパンクさせたりと干渉できるようになった。つまり、間接的にしか手を下せない」
「能書の割に地味ね」と女神。
「あー……なるほど」
シバタは苦虫を噛んだように顔を傾ける。
「じゃあ、手すりが壊れたのは――死神の仕業、と?」
「そうだな。当時のシバタに視認する術はなかったろうが、俺はあの階段にいて、手すりに細工をしていた」
「ふむ……。でも、手すりが壊れて、落ちただけでは死にませんよね?」
「いや、死ぬだろう。まぁ、三階……よりはもっと上層が望ましかったが」
シバタは不敵に笑いながら、ホワイトボードの文字を消した。そして、一本の線を引くと、中央、左右と目盛りをつける。
中央の目盛りはHP=0、左には1、右には-1と記していく。
「あぁ、そういうこと」
普段からゲームに触れているらしい女神が呟く。
「私がシバタを召喚したのは、中央から左のどこかね。死神が落下させても、落ちるまでは死なない。少しはラグがあるはず」
「む……」
死神は顎に手を置いた。
「なら僕は中央から右側のどこかなのだ。死んだ人を導くのだから、0から-1を通るのに決まってるよね」
「その通り。つまり、死神の能力が効く範囲は……」
シバタは0の上に死神と記す。
「そこだけか? 確かに、殺しても天使に横取りされることはあるが……」
不服そうな死神に、シバタはフォローするように言った。
「死神の能力はいわゆる"ラストヒット"を取ることで発動するもの。これはこれで強力ですよ」
――それに、とシバタは続ける。
「女神さんと天使さんの能力は受け身なんです。常に後手。僕は嫌ですね」
シバタはホワイトボードに細々と何やら書きつけ始めた。
「たしかに、あいつ死なねえーかな、って思うやつほど長生きするのだ。天使のあるあるだよね」
長い人類の歴史から見れば、生存者と死者の数は比べるべくもない。死者の数は膨大で、天使の勧誘対象は無限にも思われるだろう。しかし、天使たちの採る組織体がそれを希少な宝石へと変えていた。
――無限連鎖講。
十二代目で総数が三億を超えるその連鎖は、漏れなく死者を救済するという理念以上に、天使をノルマという名の鎖で縛っている。
「ふん。死に群がるハエどもめ」
「何だとこのばか人形」
「はいはい。もうやめなさい。進まないわ。――それで、シバタは何が言いたいの?」
シバタはホワイトボードの直線から視線を剥がさず言った。
「要するに、僕が死んだタイミングで有効だったスキルはどれか? それによって僕が誰と行くべきかが変わると思うんです」
――こんなものかな。 シバタは振り返ってホワイトボードを三者に示した。
「……なぜお前はそんな顔をしているんだ」
死神の指摘に反論する者はいなかった。なぜなら、シバタの表情は実に楽しそうで――。
迎えた不慮の死を嘆くどころか、まるで面白い玩具を見つけたような、そんな眼差しで。
「死神。考えても無駄なのだ。キミはキミの任務を果たすのが第一だよね」
「わかっている」
死神をひどく打ちのめしていた。