最悪な邂逅
狭まる視野。強烈な眩暈。
目の端に折れて崩れる手すりが見えた。
(わざとじゃ……ないんだけど)
マンションの管理不備やら修繕費用やら。そんな、後でもよいことが頭をかすめた瞬間、意識はぷっつり途切れた。
――ガラガラと転げ落ちる音。そして……
「き、きゃあああ!」
雑多な都会の片隅に悲鳴が響き渡る。
舗装された路面上に、血染めの男が転がった。
――――
――
-
まるでプラネタリウムみたいな空間だった。
紫色の宙にいくつもの気泡が舞い踊っている。
――ここは宇宙か。それとも深海か。
両手で抱えられそうな砂時計やら。砂嵐を映し続けるモニターやら。とりとめなく種類もばらばらな物品たちがふわふわ漂っている。
そんなスペースデブリとも海洋漂流物ともとれる光景の中には、ぽつ然と立つ男がいた。
「まだもめてんのか……」
男の名はシバタ。彼は、聞いているだけの報告会やら、うんざりするばかりの経費精算やら。実に退屈で面白味のない仕事をこなした後のような表情を浮かべていた。
『420円』
それは、彼がちょうど手を伸ばして届きそうな位置に漂ってきた『Allon』なるローチェアの値段である。
掴んだ後で安物だと悟ったシバタの唇が、への字に歪んだ。それでも彼は、どかっと腰をおろし、パーカーとスラックスのポケットを探り始める。
「どうせなら、このままほっといてくれよ」
呟きながら髪をかき上げたその手は、血にまみれている。頭部からの出血だろう。触って傷が開いたのか、額と頬が赤く染まっていく。
「あーあー。替えたばかりのスマホもこれか……」
舌打ち混じりに振られるスマートフォンの画面は、一面に蜘蛛の巣を貼り付けたようだった。
これで分割払い零回目なのだから、彼はついていない。ただただ、不運だった。
――一例を挙げれば。
彼の記憶に新しいチャットの文字列。ディスプレイに表示されたそれが分かりやすいかもしれない。
『dupe確認しました』
ここでのDupeとは、アイテムや"魔法石"の無限増殖などのバグだ。ストーリー中で先に進めなくなる“進行停止”やゲームクライアントが落ちる“強制終了”と同列に扱われるSランクのバグ。
ありていに言えば、超ヤバいバグだ。
「……」
ゆえに、シバタが言葉を失ったのも当然のことであるし、入力中のダイアログが解消された後に届いた文章もひどく不穏なものだった。
『課金停止と再開未定で緊急メンテ入ります。全返金とロールバック視野に対応願います』
――解決方法が見つかっていない上に、巻き戻し。
死刑宣告にも等しいその文章は、彼の心臓の鼓動を早めるには十分だった。
なぜなら、このゲームは今日が“サービス開始日”であり、彼自身も担当エンジニアであったのだから――。
「――っ」
かつて映っていたログをかき消すように、その時感じた感情を振り払うように、シバタはやみくもにスマートフォンを操作した。
反応するはずのない画面を何度もタップして、入るはずのない電波を求めて振り回す。もし手を滑らせてしまえば、次はどれほどの損傷を負ってしまうのか。
そんな心配をしたくなるほどの勢いだった。
しかし、どれだけ壊れたとして、今となれば支払いを気にする必要はもうない。
「動いた?」
突如として画面が明滅した。かつての美しい色表現は見る影もなく、歪んだ梨のマークが映し出される。ローディングを表すゲージが伸びていき、カメラが起動した。
「撮れるのかな、これ」
彼はほとんど無意識に、レンズを視線の先に向けた。
割れた画面越しに“そいつら”が映る。
訝しみながら、シバタは己の運命を歪めた“そいつら”をアングルに捉える。普段なら出会うこともない、異能の奴らだった。
彼はピントを合わせて、そして――。
『カシャ』とシャッターを切った。
――その瞬間。
「業務中だ。撮らないでくれ!」
「あっ。ち、血が……血……が……」
「僕のアロン。勝手に使わないでくれなのだ!」
スマートフォンのレンズ越しにいた"そいつら"。シャッター音を聞くまで取っ組み合いをしていた連中が、シバタに向かって勢いよく突っ込んで来る。
「ちょ……っ。えぇ?」
向かってくるとは思っておらず、おののいたシバタへ真っ先に声をかけたのは、そのうちの、黒髪短髪の青年だった。
「結局あんたは誰を選ぶんだ? 俺と行かなければ天界か異世界行き。どちらも真っ当な生活ではないぞ」
上から下まで、黒をベースに灰色が散らされた市街地用の夜間迷彩柄。手に持つのはNP7にそっくりのSMG。
兵士の出立ちなものの、腰に備える禍々しい『鎌』が、彼を兵士ではないと雄弁に語っている。
「聞いているのか? さあ、俺とともに死神への一歩を踏み出すんだ。不安はわかる。誰もがはじめは新兵だからな。しかし、俺たち死神は……」
死神の熱っぽい勧誘を遮ったのは、少年のようで少女のようにも聞こえる、妙に明るい声だった。
「勝手に進めないで欲しいのだ!」
声の主は中性的な顔を歪ませて、死神を見上げて踏ん反り返っていた。
白鳥を思わせる風体の中で異彩を放つのは、背中から伸びる翼と、そこにでかでか書かれた銀色の『P』の文字だろう。
シルバープロデューサー? 戸惑うシバタが発した無意識の声は、誰にも気づかれず素通りする。
「シバタは僕と一緒に行くのだ! 神様の元で天使として過ごすのだ! 天界に行ったら衣食住は完全保証なのだから、そんなのもう決まってるよね」
独特な語尾で死神を威嚇する、彼or彼女は天使だ。翼を羽ばたかせるだけでは足りないのか、天使は「あ?」とか「お?」とか、死神の顔を下から睨みつけている。
「……いつもながら安い挑発だな。お望みなら、この場で鉛弾をブチ込んでやるぞ」
死神はセレクターをセーフティからフルオートに切り替える。同時に銃口を天使に向け、有言実行の構え。対する天使は徒手空拳のまま、さらにふんぞった。
「やってみろなのだ。今日こそ僕の椅子として、尻の下に置いてやるから感謝しろなのだ」
不遜な物言いをしながら繰り出されるのは、のんきなワンツーだった。ひとしきり宙を打ってから親指を下に向けて挑発のポーズ。
「……」
「……」
火花の散るような睨み合い。もはや両者の争いは避けられず、今まさにゴングが鳴ろうとしていた。が……
「ふ、ふ、ふたりとも何言ってるんですか……。わ、わたしが最初にシバタさんを見つけた……んですから……ね!」
臨戦態勢の二人がレフェリーにブレイクされたように引きはがされた。無理やり割り込んだのは桃色のシルエット。
「ふん……」
「けっ……なのだ」
邪魔をされた二人は不満気に各々背を向けた。
メンチ切りを目の前で見せつけられていたシバタは、安堵の息を吐く。
「ありがとうございます。ええと、女神さま……でしたか」
「は、はいっ。あ、あの、お礼は……大丈夫、です。わたしは……あなたの味方ですから」
その娘は頬を赤らめながら、ぎこちなく笑みを浮かべる。傾げた首につられて、栗色のウェーブ髪と桃色の導師服がなびいた。
その姿はまさにファンタジーの世界から抜け出してきた女神そのもの。彼女がメインビジュアルを飾れば、どんなゲームだろうとミリオンヒットは約束されたも同然。
まさに『かきくけこ』(可憐で華奢で屈託なく健気で神々しい)の体現者足りえるだろう。
「そ、それでは始めましょう。私とあなた……その新しい運命を……」
女神は小さく口を動かし何かを唱え始める。すると、構えた杖が輝き始めた。
赤やら青やら複雑な光を湛える杖がカツンと床に打ち付けられる。その途端、紫空の宙にいくつもの映像が浮かび上がった。
――空中に浮かぶ、巨大な樹。その大枝には尖った耳の人型種。物憂げに腰掛けているのはエルフだ。
――帆船が穏やかに海を進む中、突如海が割れる。全高よりはるかに大きなイカが船を叩き割っていく。
あまりにも非現実的で幻想的な映像の数々。PVと見間違いそうな冒険のワンシーンやら強大な敵とのバトルやら。それらが同時に、いくつも展開されていく。
「こ、これは……? プロジェクションマッピング……じゃないですよね?」
顎に手をやって観察姿勢のシバタは見たこともない現象を訝しむ。近寄って恐る恐る手を伸ばしているが、その手に何かが触れた様子はない。
「どういう原理だ……?」
怪しむシバタはひとりでぶつぶつと「3D投影のモニターはまだ」だの「ドローンを並走させれば?」だのと呟いている。
「これは、『魔法』あなた方がそう呼ぶ物です」
「『魔法』ですか?」
シバタの表情にありありと困惑が浮かぶ。
『高度に進化した科学は魔法のように見える』とは彼も知っているが、科学で説明できないから即魔法とはいかない。
なやむ彼の元に、球形の模型がゆっくりと飛んできた。女神の掲げた杖に操られ、引き寄せられるように。
「これは……?」
地球儀のような物体を見つめるシバタの瞳が、困惑に曇っていく。そこに、彼の知る大陸や島はなかった。
「あなたの『転生先』です」
女神は妖しく光る杖を回転させながら、ゆっくりシバタの周りを歩き始めた。柔らかそうな唇はやや弧を描き、一歩進むごとに、少しずつシバタと距離を詰めていく。
「てん……せ……い…….?」
聞き返すシバタは不思議な音を聞いていた。
例えるならモスキート音だろうか。耳から脳へ。脳から全身へと音が巡るにつれ、だんだんと彼の身体は感覚を失っていく。
今にも目を閉じそうなシバタの瞳から光が消えていく。まるで電車で眠りにつくように、こくりと頭が下がった。
「そう、だからあなたは私と契約して、異世界でチーレムを作るのです」
――チートでハーレム? 異世界? そんなばかな。
否定しようとする彼の口は、勝手に動いていた。
「しょうち……しました……。め、女神さま……よ、よろ……こんで……いきま……」
女神の表情が歪んだ歓喜に変わる。宙に向かってガッツポーズ。いままさにシバタが異世界転生に了承した、かと思われた。
――パン。
風切り音の後、乾いた音。
シバタがどさっと椅子から崩れ落ちた。
へ? と女神が間抜けな声をもらす。
「尻尾を出したな女狐め……」
がしゃこん、とポンプアクションの音がした。
女神が音の方を見ると、死神が油断なく散弾銃を構えている。
「ぐ……いって……」
シバタがよろよろと立ち上がる。足元にはゴム弾が転がっていた。
死神が顎で彼の背後を指す。
「あんた、騙されかけていたぞ。この詐欺女神に」
「え?」
シバタが振り返った先には、こめかみに青筋を立てながら笑顔を作り続ける女神が立っていた。
彼女は小刻みに震えながら、死神へ視線を移す。
「な、何のことですかぁ? いまぁ、大事な話をしていたのでー、ちょーっと黙っててくれますかぁ?」
「まだ猫かぶってるのだ」 ぱたぱたと浮遊する天使はお腹を抱えて笑っている。
まわりの様子から察せないほどシバタも鈍くはない。女神が自分に何かをしていたのだと悟った。おおかた、魔法なのだろう。
「ふん。何が大事な話だ。俺はお前の小遣い稼ぎ(ピンハネ)に付き合うヒマはない。大体、この間職場(異世界)に送り込んだ奴はどうなった?」
「あぁー……あいつね。二週間で死んだ。三ヶ月生き延びてくれないとこっちも困るのよねー」
――成功報酬もらえないし。
隠す気もなくなったのか、女神は手鏡を取り出して化粧を直し始める。
「あー……そういう座組なんすね」
おぼろげながら事情を察したシバタは、げんなりと肩を落とした。
女神のいう『転生』とは、実のところ異世界『転職』なのだろう。さしずめこの女神はエージェントと言ったところか。
「察しがよくて助かるのだ。あの女、派遣先からキックバックされた金でゲーム三昧なのだ。」
「はっ。何だっていいのよ。このねずみ講天使。大体、あんたのやってることよりマシ。死の淵から救ってるのは事実だし、非難されるいわれはないわ」
そんな女神の言葉に銀Pの天使は涼しい顔で言い返す。
「ちっ、ちっ、ちっ。ねずみ講じゃなくて、ネットワーク互助会なのだ。天界で始まる『ラグナロク』に備えるのだから、魂のランキングをあげるのは当然のことだよね。電磁波まみれのヒキゲーマーは"真実"を見てほしいのだ」
死神が汚物でも見る目をして吐き捨てる。
「似たようなものだ。おおかた、ノルマがきつくて俺の勧誘に手を出してきた。そんなところだろう。このハイエナめ」
「何とでも言え、なのだ。僕は死者を救って天界へ導くのだ。これさえあれば死神の力なんてポイなのだ!」
妙に目の座る天使は、銀色のとんがり帽子をかぶる。
「勝手に決めてくれんじゃないよ! 死の淵に立った者を導く。それがあたしら女神の食い扶持なんだ」
「俺がもっとうまく殺してさえいれば……だが、シバタが同胞なことは譲らんぞ?」
「あー、この流れは……」
面倒くさい争いが再開される予感に、シバタはアロンのチェアを少し離して置き直す。
「僕なのだ!」
「あたしだよ!」
「いや、俺だ!」
もういい加減にして欲しい、シバタが抱いている感想にこのほかなどあるだろうか。いきなり意識が遠のいたと思えば、死神、女神、天使に囲まれてこの有様なのである。
「何でこんなことになったんだっけな……」
シバタは飛び交うタブレットやらペットボトルやらをひょいひょい避けながら嘆息する。
シバタの身に降りかかった災難の発端。
それは一体なんだったのか。
――――
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