②②
カトリーナはクラレンスの問いに答えられずに口を噤んだ。
今まで麻痺していた感情の歯車が、ゆっくりと動いていくのと同時に忘れていたものが呼び起こされる。
(なくなってしまいそうで……怖い)
些細な幸せですら、当然のように全て奪い取られていったカトリーナにとって、トラウマを呼び起こすような恐怖だ。
カトリーナがキュッと唇を結んで俯いているとクラレンスは暫く考えて頬を掻く。
「まぁ……気負わずにテーブルマナーの練習だと思えばいい」
「練習、ですか?」
「…………。そうだ」
ニナが後ろから「クラレンス殿下、お誘いが下手すぎます……!」と唇を噛みながら悔しそうに地団駄を踏んでいる。
クラレンスはニナの言葉をかき消すように咳払いをした。
(こんな私が……クラレンス殿下とご一緒してもいいのかしら)
カトリーナがどうすればいいかわからずに迷っていると……。
「ニナから行儀見習いとしての仕事は完璧で教えることはないと聞いている」
「……!」
確かに十年もの間、サシャバル伯爵邸の使用人として、侍女として働いてきたカトリーナに教えることといえばほとんどないのだろう。
「今度は令嬢として学んでみるのはどうだろうか?」
「私が、令嬢……ですか?」
カトリーナはそう言って驚きに目を見開いた。
「令嬢として素晴らしい立ち振る舞いを身につけて、どん底にいるアイツらを見返してやればいい」
「………え?」
クラレンスはサシャバル伯爵家が今どんな状況にいて、どの様にカトリーナをシャルルの身代わりにしたのかを説明してくれた。
今、カトリーナは書類上でサシャバル伯爵家の籍に入っているそうだ。
(私が……サシャバル伯爵家の娘)
そう思うとゾワリと鳥肌が立った。
そしてサシャバル伯爵家の内情やカトリーナの過去も調べたそうだ。
しかし全てを知った上でクラレンスはカトリーナを受け入れてくれている。
(私がどんな風に暮らしてきたか知っているのに、こんなに優しくしてくれているの?)
カトリーナはサシャバル伯爵邸で、ずっと否定され続けていた。
それを知ってもクラレンス達はカトリーナを受け入れてくれている。
それが嬉しくて安心するのと同時に不思議で仕方なかった。
「もちろん、無理強いするつもりはない」
クラレンスのディープブルーの瞳は真っ直ぐにカトリーナを見つめている。
(私が令嬢のように振る舞うの……?シャルルお嬢様のように)
今まで自分が令嬢のように振る舞えたらなんて、一度も考えたことはなかった。
シャルルはカトリーナとは違う、手の届かない存在だとずっと思っていた。
自分にそんなことができるわけがない……そう思っているのにやってみたい、見返すことができるならば見返したいと思う。
そうすればこの体に染みついた怒りや悲しみ、憎悪を思いを断ち切れるのではないか。
しかしカトリーナ・サシャバルとしてサシャバル伯爵家の籍に入っているのなら、また戻されることもあるのではないか……この幸せを知ってしまえば、あの場所に戻ることが怖くてたまらない。
そんなカトリーナの思いを見透かしているようにクラレンスは口を開いた。
「だが、もう二度とあの場所に戻ることはないがな」
「…………!」
「俺がそうはさせない」
クラレンスの力強い言葉が、カトリーナの心にじんわりと沁みていく。
今まで誰も信用したことがなかったが、クラレンスの言葉は不思議と信じられる。
カトリーナが「お願いします」と返事をしようとした時だった。
荒く鼻息を吐き出しているニナが「もう見ていられません!」と顔を出す。
「クラレンス殿下ってば、そこは〝俺が幸せにしてやる〟じゃないのですか!?」
「ニナ、これ以上カトリーナの前で余計なことを言うな!」
「……?」
「モタモタしていると、横から掻っ攫われるのはロマンス小説ではよくあるパターンですよ!?」
「……っ、わかっている!」
「わかっているのならどうしてお伝えしないですか!一緒に食事をしたいのなら素直にそうおっしゃればいいのです。俺がお前を守ってやるくらい言わないと伝わりませんよ!?」
「~~~~っ!」
「???」
ニナはいつものように早口でクラレンスを責め立てている。
カトリーナはクラレンスとニナの言い争う姿を見て戸惑うばかりだ。
ゴーンがフォローするように「いつものことですから」と言って、カトリーナの肩に手を置いた。
クラレンスは額に手を当てて、ため息を吐いている。
ニナは不満そうにしているが、何故だか嬉しそうでもあった。
それからカトリーナはニナに身なりを整えてもらい、言われるがままにテーブルについた。
テーブルマナーの知識は得ていても、やはり実際にやるとなるとわからないことが多く、食器を持つ手が震えてしまう。
戸惑っているカトリーナを怖がらせないようにか、いつもより優しい声色のクラレンスがカトリーナに声をかけながら丁寧に教えてくれた。
その日、カトリーナは生まれてはじめて食事が楽しいと感じた。
カトリーナの僅かな変化に気づいていたクラレンスも嬉しそうにしている。
「クラレンス殿下、今日はありがとうございます」
「訓練は毎日行う。いいな?」
「はい、よろしくお願いします」
カトリーナは深々と頭を下げた。
クラレンスの気遣いや優しさを感じたからだ。
どうにかしてその気持ちを伝えようとカトリーナは声を上げた。
「あ、あの……!」
「どうした?」
「こんな私に、色々と教えてくださって……とても嬉しいです」
「こんな私などと言う必要はない」
「え……?」
「お前は美しい。もっと自分を誇れ」
クラレンスはそう言ってカトリーナの頭を撫でてから後ろに控えていたトーマスにいつものように「国境を見回りにいく」と言って黒いローブを羽織った。
トーマスが「クラレンス殿下もクラレンス殿下なんだよなぁ」と呟きながら彼の後ろを追いかけていく。
カトリーナは暫くクラレンスが言った言葉の意味がわからずに放心状態だった。




