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カトリーナがナルスティナ領で暮らしはじめて一ヶ月以上経つ。
最初は寝て食べてまた眠ってと、よくわからない生活を送っていた。
それなのに誰にも怒られることもなくニナには「たくさん食べましたね!」と何故か喜んでいる。
食べることが仕事だとクラレンスから指示を受けていたが、こんなに贅沢な生活をしていることが申し訳ないと思い「働きたい」と言ってもクラレンスは許可してはくれない。
まるで本で読んだお姫様のような生活だと、目を覚ます度に何度も何度もカトリーナは思った。
(夢、じゃない……)
カトリーナはクラレンスの言いつけを守っていたが、部屋にあったワンピースに着替えるとフラフラとした足取りで部屋の外に出る。
着替えはこれしかなかったし、何よりこの寝間着はカトリーナが着ていた服よりもずっといいものだとわかった。
汚すわけにもいかずに、ここに来た際に着ていた草色のワンピースに着替えるしかなかった。
そして倒れる前にニナに案内された場所にある掃除用具を手に取ってサシャバル伯爵家より数倍冷たい水を汲んだ。
膝をついて床を拭いていると、ガラガラとワゴンの音が聞こえた後にパタパタと足音が近づいてくる。
そして「キャーー!」という甲高い悲鳴が屋敷に響き渡った。
ニナが慌てて駆け寄ってくるのを見てカトリーナはビクリと肩を揺らす。
そしてニナはすごい形相でカトリーナを抱きしめてから「何をされているのですか!?」と叫んでいる。
もしかしたら掃除のやり方が違うのかもしれない、使うものが間違っていたのかもしれないと「申し訳ございません」といつものように謝罪する。
するとニナは「謝らなくていいんです!体が冷えてしまうのでお部屋に戻りましょう」と言って、半ば引き摺られるようにして部屋に戻った。
そして温かい紅茶を渡されたカトリーナが不満そうにしていると「そんな可愛い顔をしても、わたしは絆されませんからね!」と言って瞳を潤ませている。
(可愛いのはニナさんの方では……?)
そう思っていたカトリーナが紅茶を飲んでいるとクラレンスがカトリーナの部屋に入ってくる。
「先程の悲鳴はなんだ?」
「クラレンス殿下……!」
いつも優しくしてくれるニナが怒られてしまうことだけは防ぎたいとカトリーナは紅茶を置いて、ニナとクラレンスの間に入るようにして立った。
「私が勝手なことをしてニナさんに迷惑をかけてしまいました」
「カトリーナ様……!」
「少しでも役に立ちたくて差し出がましい真似をしました。掃除用具が間違っていましたでしょうか?今度は間違えませんので……申し訳ございません」
深々と頭を下げるカトリーナにクラレンスの重たい溜息が聞こえた。
ニナはクラレンスに先程のことを説明しているようだった。
「はぁ……そういうことか」
「お部屋にもいなくて探していたら、こんなにも寒い廊下を掃除なさっていたのでつい驚いてしまったんです」
「申し訳ございません」
「謝らなくていい」
どうやらカトリーナの行動でニナを驚かせてしまったらしい。
この一ヶ月、身近でカトリーナの世話をつきっきりでしてくれたニナに感謝している。
クラレンスは溜息を吐いたり、突き放すような冷たい言葉を言ったりするが、とても優しいのだとカトリーナは気づいていた。
「カトリーナ、どうして部屋にいられない?」
クラレンスの言葉にカトリーナは頭を下げたまま答えた。
「何もしないのは体がムズムズします」
「……そうか。なら、本でも持ってこよう」
「いいのですか?」
「大人しくしているのならば構わない。体調が整うまで必要以上に部屋から出るな。ただでさえ体が弱っているのだ」
「…………はい。申し訳ありません」
カトリーナがしゅんとして反省した様子を見せると、クラレンスは溜息を吐きつつも、いつものようにカトリーナの頭を撫でた。
「必要以上に謝るな」
クラレンスの表情は相変わらず全身、黒いローブに囲まれてわからなかったが、怒っているような……そんな雰囲気を感じていた。
「ここではサシャバル伯爵邸でのことは忘れろ」
クラレンスにそう言われてカトリーナは目を見開いて思わず顔を上げる。
「それは……どういう意味でしょうか」
「ここはサシャバル伯爵邸ではない。あの邸でのルールは気にしなくていい。ここにはここのやり方がある」
「やり方……?」
「そうだ」
「……はい、わかりました」
クラレンスのひんやりとした手のひらがカトリーナの頭をそっと撫でる。
カトリーナはクラレンスの指示を素直に聞いていたが、暇を持て余して体がムズムズとしてくる。
働きたいと頼むものの、クラレンスにもニナにもゴーンにもトーマスにも却下されてしまう。
カトリーナがいる部屋には一日に一度か二度、クラレンスが様子を見るために訪ねてきた。
クラレンスはカトリーナに様々なものを与えてくれた。
いい匂いがするベッド、温かい食事、ゆっくりと眠れる場所。
それはカトリーナが今まで生きてきた中で得られなかったものばかり。
しかし今まで朝から晩まで働きっぱなしのカトリーナにとっては天国のような生活も何か悪いことの前触れのような気がしてならない。
クラレンスいわく「普通のことだぞ」と言っていたが、カトリーナにとっては全てが真新しく思えた。
ニナとゴーンも邸で働く他の侍女達もカトリーナにとても親切にしてくれる。
トーマスはカトリーナを見て「雪うさぎみたいで可愛いなぁ」と言っていつも笑っている。
サシャバル伯爵家とは真逆な生活はソワソワするのと同時になんだか不思議な感覚だった。
そんなカトリーナの元に数冊の本が届けられる。
それは屋根裏部屋では見たことないほどに美しい本だった。
真っ白な紙に書かれている文字やツルツルとした発色のいい背表紙を何度も撫でていた。
(紙が真っ白で、酸っぱい匂いもしない……)
中身を読まずに新しい本を撫でては喜んだあとに、やっと中身を読み始める。
物語に熱中しているカトリーナを複雑な表情で見つめていたクラレンス達に気づくことはなかった。




