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お医者さんごっこ

「お兄様」


 背後から萌々子の声がした。


「ん? 萌々子か。どうした、遅いな」

「自主学習会に参加していました」

「自主学習会? なんだそれ?」

「頂点を目指すハイレベルな高校生による学習会です。生徒会進学対策委員会の主催です。毎週金曜日に開催されています」


 はい、といって萌々子がプリントを差し出した。たしかに生徒会進学対策委員会主催と書いてある。そんな委員会があったんだ。意外に知らないものだな。


「頂点って……もしかして、萌々子、東大に行くのか?」


 と俺が聞くと、


「萌々子の夢、覚えてないんですか、お兄様? 萌々子の夢はお医者様ですよ?」


 と萌々子が笑って答えた。


「そうだっけ?」

「覚えてないんですか? 萌々子とお兄様、よくお医者さんごっこしたじゃないですか。萌々子がお医者様で、お兄様が患者」

「そういえば……」


 そうだった。基本萌々子が医者で俺が患者だった。それもなぜかERに緊急搬送されてきた重傷人だ。なんでそんな特殊状況だったかというと、当時BSでやっていた海外医療ドラマの影響だった気がする。


「もーお兄様、萌々子のこと、全然覚えてないっ。萌々子傷つきました。くすん」

「覚えてるって。覚えてるよ」

「じゃあお兄様、お医者さんごっこしよ? 今回は萌々子が患者になってあげる。お兄様がお医者さんね。お医者さまー、萌々子、お腹痛いの。さすってー」

「なんで俺が医者なんだよ。医学部に行くのは萌々子だろ?」

「でしたっけ?」


 とぼける萌々子。


「とにかくですね、萌々子の夢はお医者様になって、お兄様の主治医になって、つきっきりで治療することです」


 つきっきりで治療って。俺、そんな重病になる予定なの? 寝たきりなの? 死ぬの?


「なので、萌々子は医学部に行くんです。大変なんですよ、医学部って!」

「らしいな」

「らしいな、じゃありません! お兄様だって知ってるでしょ? 萌々子のお家、ただのサラリーマンです。私大医学部なんてとても無理です。国公立の医学部に行かなくちゃ。だから、萌々子学習会に出てるんです」


 知らなかった。萌々子が医学部志望だなんて。萌々子のことなら、なんでも俺は知ってると思っていた。好きな食べ物はイチゴ。メロンは食べ過ぎて軽いアレルギーになってしまっている。嫌いな食べ物はひじき。萌々子曰く「なんか虫みたい」だからだそうだ。


「ところでお兄様?」


 ひとしきりまくし立てた後、萌々子が低いトーンで言った。


「誰に手を振っていたんですか?」

「ああ、近藤さんだ」

「……やっぱり! あの喫茶店で無断アルバイトしていた演劇部員さんですね」

「無断アルバイトじゃないよ。あそこ、近藤さんちだ。言わなかったっけ?」

「むむむ!」


 萌々子が俺を睨み付けた。


「なんだよ、そんな怖い目をして」

「……いつの間にあの人の個人情報を入手したんですか?」

「個人情報って……。あのさ、俺と近藤さん、同じ演劇部員だろ? 一年も一緒に部活やってればそれくらい知ってるって。てかさ、お父さんも出てきただろ? 店の娘ってことくらいわからないか?」

「つまり、お兄様はあの人のこと、なんでも知ってるということですね」


 ふくれっ面で萌々子が言った。


「なんでも、ってわけじゃないけど……」

「どこまで知ってるんですか?」

「どこまでって……」


 無意識のうちに俺は手を見た。とりあえず、俺は近藤さんの体温は知っている。


「お兄様は、あの女にご執心なんですね」

「ご執心て。そんなんじゃないぞ」

「校門で手を振ってたってことは、部室から校門まで一緒だったってことでしょ?」

「まあ……そうだが」

「仲いいですね」

「だから、部員同士なら普通だって」

「もしかして、手なんて繋いでたりして」


 一瞬、ドキンと心臓が高鳴った。もしかして見られていたのか?

 いや、そんなわけない。旧校舎と信仰者の配置、萌々子が現れたタイミング、そのほか必要なパラメータを当てはめる限り、萌々子が俺と近藤さんを校門から出る以前に見ているたことはあり得ないはずだ。


「ま、まさか。恋人じゃあるまいし」

「今、わずかに挙動不審になりませんでしたか?」

「なってない」

「お兄様の心臓がびくっ、てなった気がします! 萌々子、医学部志望なんです。それくらいわかっちゃいますから!」

「んなわけねーし」


 んなわけ……あった。萌々子の鋭い突っ込みに口の中が乾いてきた。別にやましいことはしていない。萌々子に遠慮する必要もない。

 だが、近藤さんからは告白されたわけで、その相手と返事する前に手を繋いだ――それも恋人つなぎで――という事実が、なぜか俺に妙な背徳感を感じさせる。


「本当かなあ? 今日のお兄様、なんか変です」

「疲れたんだよ」

「どうして疲れたんですか? ……もしかして、部活動中に部室でお疲れしちゃう行為をあの女と……!」

「だから、なんでそんなに妄想激しいんだよ、萌々子は!」


 つん。萌々子の膨れたほっぺたを軽く突いた。


 ぽん、と萌々子の口から空気が漏れ、ふくれっ面が間抜け面になる。


「へへ、()()()()されちゃった」


 明るく萌々子が笑う。


「何年ぶりだろうな。こうやって萌々子のほっぺた突っつくの」

「うーん、小学校以来ですか? お兄様ったら、萌々子に触りたかったんですね? もう、触りたいなら触りたいって言えばいいのに」

「そういう訳じゃ」

「じゃ、なんなんですか?」

「いや……まあ、ふくれっ面よりも笑顔の方が萌々子には似合うかなって思ってさ。だから、なんとなく突っついた」

「お兄様、萌々子のふくれっ面は嫌いですか?」


 再びほっぺを膨らませ、悪戯っぽく微笑みながら俺を見上げる。


「バーカ」


 再びほっぺをつんつん。ぷしゅ。またもや空気が萌々子の唇から漏れた。


「嫌いなわけないだろ。萌々子は俺の妹なんだ。どんな萌々子だって嫌いじゃないさ」

「どんな萌々子でも?」

「ああ。泣いていようが怒ってようがね」


 空気が漏れた後、タコのように突き出された萌々子の唇。あの日の萌々子の唇と一緒だ。


 以下回想シーン。


 毎日、萌々子は共働きの親が帰ってくるまで俺の家で過ごしていた。ある日、両親ともに帰りが遅くなるということがあった。その日、本当ならば萌々子は母親と一緒にハンバーグを作る予定だった。


「おかーさんの嘘つき! 萌々子と一緒にハンバーグ作るっていったのにーっ!」


 その予定がドタキャンされたことで萌々子は猛烈に怒り、悲しんだ。ほっぺをパンパンにして怒り、そして泣いた。


「おにーたまー、萌々子、悲しーよー」


 怒りながらわんわん泣く萌々子。


「おかーさんのばかー!」


 泣いた直後にほっぺを膨らまして怒る用紙がおもしろく、可愛かったので思わず萌々子のほっぺを指で突いた。ぷしゅ、と音がして萌々子のほっぺが潰れた。いきなり空気が漏れたものだから、萌々子の口はまるでタコのごとく滑稽に突き出されてしまった。


「ははは、萌々子の顔、タコみたいだ!」

「うそー!」

「本当だよ。鏡で見てごらん」

「うん、見てくる!」


 慌てて洗面所に向かった萌々子、三面鏡で自分の顔を見て吹き出す。


「ホントだ! タコさんだ!」


 以上、回想シーンおわり。


 そんなわけで、俺にとって萌々子はやはり可愛い妹だ。ほっぺを膨らまして怒っていようが泣いていようが妹なのだ。


 ……だが。


 久しぶりに触った萌々子のほっぺ。俺の指先はそこに明確な異性を感じてしまった。そして突き出された唇。普段は見えない内側の薄桃色のつややかな粘膜。

 ずきん、と腹の奥から何かがこみ上げてきて、そのままあの唇に吸い付きたい、とおもった。それだけではない。もっと……もっと違うものをあの粘膜に挿入したい。例えば……指とか。そして萌々子の口の中をかき回したい。そういう欲望の存在を感じてしまった。


 ――いかんいかん。萌々子は妹なんだ。


 自分に言い聞かせる。


「どうしましたお兄様? 萌々子のお口、そんなに変?」


 唇を凝視していたのがバレバレだったようだ。タコさんマウスのままの萌々子が言った。


「いや、何も」

「じゃあなんで見てたんですか?」

「それは……なんとなく」

「萌々子の唇が可愛くて、思わずちゅーしたくなったからじゃないですか?」


 はい、そうです。


「んなわけねーだろ? そんなタコみたいな唇、頼まれてもキスなんかしないぞ」

「むにゅー!」


 萌々子の唇がタコさんからアヒルに変化した。


「さあ、帰ろう」

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