萌々子珈琲店のモーニングメニュー
近藤珈琲店を出て家に帰り着いたのは9時ちょっと前だった。それから俺たちは風呂に入り――もちろん別々にだ――、明日の準備等を済ませ、11時頃に寝た。
「萌々子……いっしょに……ねるの……」
近藤珈琲店で約束したもん、と言って俺の布団に忍び込んできた萌々子であったが、俺に「ぎゅー」してくる、あるいはされる以前に深い眠りについてしまった。高校に入学したばかり、新しい環境に適応するのは肉体的にもメンタル的にもハードなのだ。疲れて当然だろう。
俺の布団から追い出そうにも萌々子は熟睡。お姫様抱っこで萌々子の部屋に運ぶ腕力もない。仕方ないので萌々子の隣で寝た。幸い萌々子はベッドの端の方で寝ていたので、俺は萌々子と肉体的に接触することなく安全に寝ることが出来た。
もちろん、ぎゅーなんてしなかったぞ。
翌朝起きると萌々子はベッドにいなかった。「ぎゅーしてない!」って責められるかと思ったが、それはなかったようだ。
なお、通常は明け方に潜り込んできて、俺にじゃれついて、それから一緒に起きて萌々子が朝食の用意をする。それすらなかった。
とりあえず、一晩中一緒に寝ていたので満足したのだろう。
と思いたい。
俺は部屋で制服に着替え、洗面所で歯を磨き顔を洗ってからダイニングに行った。キッチンからはベーコンを焼くいい匂い、そして気持ちよさげな萌々子の鼻歌が聞こえてきた。
「あら、お兄様、おはようございます」
制服にエプロン姿で萌々子が言った。
「おはよう。今日は早起きだな」
「はい♪」
テーブルを見る。いつもと同じトースト、サラダ、卵料理なのだがどれも手が込んでいた。まずトースト。普段はジャムかバターを自分で塗る。だが今日はピーマンのグリーンがまぶしいピザトーストである。サラダも気合いが入っていた。いつもはプチトマトとレンジでチンしたブロッコリーだけのサラダなのだが、今日はプチトマトとベビーリーフ、そしてカリカリに焼いたベーコンのグリーンサラダだ。そして卵料理はふわふわのスクランブルエッグ。
「今日は豪華だな」
「ええ。萌々子珈琲店のモーニングメニューですから、ね?」
「……萌々子珈琲店?」
「そうです。近藤珈琲店を廃業に追い込んだという伝説の純喫茶です!」
いつ出来たんだよ、その萌々子珈琲店。つか、近藤さんちを勝手に廃業させるなよ。
「今ハンドドリップでコーヒー淹れてますから……お待ちになってね、お兄様」
普段はコーヒーメーカーなのだが、どこからか見つけ出したガラス製のコーヒードリッパーでハンドドリップしていた。あのドリッパーには見覚えがある。確か親父が買ったやつだ。雑誌の記事かなんかに影響されて「俺はバリスタになる」とかなんとかいってアマゾンで買ったやつである。母に「コーヒーメーカーの方が美味しいからやめて」と言われて使わなくなったが。
「よいしょ、よいしょ」
なぜハンドドリップにそんなかけ声が必要なのだろう。
「きゃ! そ、そんなにおっきくなるの? だめだよ、そんなにおっきくなったら……あふれちゃう!」
何を言ってるんだ萌々子は。
「お兄様! どうしましょう!」
萌々子が俺に助けを求める。
「どうした?」
「コーヒーが……コーヒーが!」
悲痛な声で何らかの異変を萌々子が訴える。俺は立ち上がり萌々子が指さすコーヒードリッパーを見た。
「コーヒーがどうした?」
何の異変もないことを確認して俺は言った。
「すっごい、盛り上がってるんです! パンパンです!」
「……もしかして、ハンドドリップ初めてなのか?」
「はい!」
普通に盛り上がっているレギュラーコーヒーの粉。これまでコーヒーメーカーでしか作ったことのなかった萌々子にとっては驚きの初体験だったようだ。
「大丈夫。新鮮なコーヒー豆はすごく膨らむんだ。そんな風にね」
「へー……。こんなにおっきくなるんですね。萌々子びっくり」
興味深げに隆起したコーヒーの粉を萌々子が見つめる。
「これ……つんつんして、潰した方がいいですか?」
「しない方がいいと思うぞ」
萌々子よ。自分のスマホよく見ろ。「美味しいハンドドリップ」ってページなんだろ? どこに「盛り上がったコーヒーの粉をつんつんしましょう、潰しましょう」って書いてある?
「ふう。びっくりしました」
誰かの結婚式の引き出物であろう瀟洒なコーヒーカップ。萌々子のハンドドリップコーヒーが注がれた。
「はい! めしあがれ、萌々子のハンドドリップ! コーヒー本来の味が楽しめるブラックがおすすめです!」
自信たっぷりに萌々子が言った。
「ありがとう。じゃあ、ブラックでいただくよ」
まかせろ、俺はブラックコーヒーは得意なんだ。俺は数年ぶりに食器棚から取り出されたコーヒーカップに口をつけた。
「ぶほっ!」
苦い。やたら苦い。なんだこの苦さは。
「ど、どうしました、お兄様?」
「……飲んでみろ」
萌々子にコーヒーカップを手渡す。
「え……? でも……それって」
なぜか萌々子が顔を赤らめて戸惑う。それにかまわず、
「いいから、飲んでみろ。一口でいい」と俺はいった。
「……はい」
おずおずと萌々子がコーヒーカップを手に取る。じーっと見つめた後、意を決したように軽く頷いてから、コーヒーカップに唇を寄せた。
「に、苦い! 苦いです、お兄様! 萌々子、こんな苦いの初めて!」
「だろ?」
「どうして? 萌々子のハンドドリップ、間違っていたのかしら?」
萌々子がドリッパーをのぞき込む。
「お兄様も一緒に見て」
「おう」
立ち上がり、改めてしっかりとコーヒードリッパーの中をのぞき込む。
「……おい、萌々子」
「はい」
「何杯分の粉いれたんだ?」
「え?」
先ほどのコーヒー豆の盛り上がり、俺は豆が新鮮だからそうなったと思っていた。そうじゃなかった。量が多すぎたのだ。二人用ドリッパーの上端ギリギリまでレギュラーコーヒーが詰め込まれていた。一体何人分の豆を使ったんだ? 倍では聞かないだろう。5、6人分は使っていそうだ。そりゃ、こんもり膨らむというものだ。
「どうしましょう、お兄様。せっかく……萌々子が……頑張って……お手々で出したのに……」
「お湯で薄めればいいんだ」
ティファールの電子ケトルに水を入れ湯を沸かす。待つこと数分。沸いた。コーヒーをいつものマグカップに入れ直し、湯を注ぐ。
「ほら。飲めるだろ?」
「ほんとだ」
いわゆるアメリカンコーヒーである。濃ゆいけど。
「うん、味も悪くない。美味しいぞ萌々子」
「本当に? 萌々子を慰めるために嘘ついていませんか?」
「そんなことない」
実際コーヒーはうまかった。豆の量はミスったが、ハンドドリップそのものは上手だったのだな。
「さ、食べよう。ゆっくりしてたら遅刻するしな」
「ええ」
ということで、俺は近藤珈琲店のモーニングメニューとやらを食べることになった。




