王太子は『彼女』に魅了されている
「まったく、殿下にも困ったものだわ。そうは思わなくて、ユアーナ?」
「はい、お嬢様」
いかにも不機嫌そうな声に問われ、幼い頃から彼女に付き従う侍女ユアーナは言葉少なに頷いた。聞く者が聞けば随分と素っ気ない態度だと感じたかもしれないが、侍女の主人――クラウディアは気にも留めない。
クラウディアがドートレット公爵家に生を受け、これまでおよそ二十年。その人生の半分以上を共に過ごしてきた侍女に、クラウディアは愚痴を聞いてほしいだけなのだ。ユアーナとて主人の心情は正確に把握し、ただ頷くだけに留めている。だからクラウディアは安心して更に愚痴を口にする。
「貴方も知っているでしょう。殿下ったら、あの子にとんでもなく甘いのよ」
手元にハンカチがあったら破れるほど噛みしめていただろう。そう思わせるほど、クラウディアの表情は険しい。知っているでしょう、と問われてユアーナは昨今の記憶を回想し、言葉に出さずに軽く頷く。殿下――この国の王太子殿下、ヘルマン・ルッツ・リンテドールは、確かに彼女にすこぶる甘い。
「わたくし、殿下はもう少し知的な振る舞いをなさると信じていたわ。でも大間違い、大いなる勘違いだったわ」
クラウディアの愚痴は止まらない。それだけ彼女の鬱憤が溜まっているせいだろう。幼い頃からよく知るお嬢様のストレスを発散させるべく、ユアーナは黙って彼女の言葉に耳を傾けながら、ヘルマンの言動に関する記憶を遡ってみる。
公爵令嬢であるクラウディアは、弱冠八歳の頃にヘルマン第一王子の婚約者へと定められた。家同士の決めた政略結婚の相手。だがクラウディアは幼いながらにヘルマンと良き関係を築き上げていたし、ヘルマンもクラウディアに対して誠意ある態度で接していた。それはヘルマンが立太子されても変わらず、ヘルマンとクラウディアは誠実な婚約者同士の絆を深めていた。
同時に、ヘルマンは将来王位についたならばきっと賢王となるだろうと思わせる素質を昔から見せていた。幼い頃から政治学を修め、大人顔負けに議論に参加し、民のためにどうすればより良い国になるかを常に考えるような王子であった。
そんなヘルマンに触発され、クラウディアも子供の頃から懸命に勉学に励んでいた。二人が顔を合わせても、子供らしい会話など交わさない。弱冠十歳の子供たちが、先だって起きた水害を憂い、農村の治水について真剣に議論し、国家からの補償をどのように与えるのが最適かを熱心に考えていたのを、ユアーナは昨日のことのように思い出せる。子供らしくはなかったが、ヘルマンは将来の王太子として、クラウディアは将来の王太子妃として、自分たちの立場をよくよく理解し、真面目に勉学に打ち込んでいたのだ。
だが近頃のヘルマンの様子はどうだ。確かに立太子してからというもの、これまでよりも真剣に、より誠実に、民のことを考えた行動をとっている。クラウディアのことも信頼し、知的で真摯なパートナーとしての振る舞いを見せている。が、こと彼女のこととなると話は別だ。
「殿下ったら、私には見せたこともないような笑顔で、聞いたこともないような甘ったるい声であの子に話しかけるのよ」
それはユアーナにもよくわかる。彼女を前にすると、理知的で理想的な王太子としての表情は鳴りを潜め、甘ったるい表情と声音で彼女に話しかけるのだ。俗っぽい物言いをするなら『めろめろ』といったところ。ヘルマンは彼女にめろめろの首ったけなのだ。
「それをわたくしが指摘したら、何と仰ったと思う? 『嫉妬しているのかい、クラウディア』ですって!」
そんなわけがないじゃない! と苛立った様子で声を上げ、クラウディアが手近にあったクッションに拳を打ち付ける。質の良い柔らかいクッションをへこませた白魚の手を見守りながら、ユアーナは呆れた溜息をつく。クラウディアの愚痴もやむ無し。ヘルマンはクラウディアの心をあまり理解していないようだ。
「この件に関しては、お父様やお母様、国王陛下にも王妃陛下にもご相談などできないし……」
ぎり、と親指の爪を噛んでクラウディアが悔し気に身悶えする。確かに相談などできないだろう、とユアーナは密かに思った。
クラウディアの父母である公爵閣下と公爵夫人は、一人娘であるクラウディアを随分と可愛がっている。義理の父母である国王と王妃もまた、クラウディアを実の娘のように大切にしている。どちらも関係は良好であるが、否、だからこそ今回の愚痴の内容は告げられないだろう。
「……わかっているのよ、わたくしだって。殿下があの子を可愛くて仕方ないと思うのは。当たり前だわ」
先ほどまで声を荒げていたクラウディアは一転、溜息交じりの愚痴を口にする。ユアーナは無言を貫き、表情にも出さなかったけれど、内心ではクラウディアの言葉に同意していた。
ヘルマンが彼女を可愛がるのは当たり前だ。事実、彼女は非常に愛らしい。顔立ちが非常に整っているのは当然のこと、天真爛漫な振る舞いも、誰にでも笑顔を振りまく愛嬌も、どれもが周囲の心を打つ。ユアーナだって、彼女を見ているだけで自然と笑顔になるほどだ。
だがクラウディアの危惧もわかる。ヘルマンの彼女に対する態度は、少々危険である。
「でも……殿下はあの子に、何でも買い与えようとするのよ。巷で流行っているお菓子があると聞いたらすぐに取り寄せるし、ドレスも宝石も、本当に何でも誂えようとするのだから」
はぁ、と溜息をつきながら、クラウディアが頭痛に耐える仕草でこめかみを押さえた。その話も聞き及んでいたユアーナは、黙って静かにひとつ頷く。
ヘルマンが彼女をでろでろのめろめろに甘やかすのは、百歩譲って自由だと言える。だがクラウディアに何の話もなく、お菓子にドレス、宝石まで買い与えるのはいかなものか。いくらヘルマンが王太子で、自分の自由裁量に任された予算があるといっても、その内容には限度がある。
「はぁ……まったく、殿下にも困ったもの……」
コンコンコン。
項垂れたクラウディアの愚痴を、硬質なノックの音が遮った。身に沁みついた習慣で、ユアーナはさっと扉の前に立つ。そっと扉を開ければ、そこには王宮の侍女が困ったような半笑いで立っている。その侍女がクラウディアへの取次ぎを申し出るより先に、侍女の背後に立っていた彼女が二人の間をすり抜けて室内へと駆け込んできた。
「おかぁたまっ!」
彼女――アマリリスの明るい声が響き、小さな人影が転がるように走り出す。白い小さな手が真っすぐ伸ばされ、クラウディアへと駆け寄っていく。
が、小さな足先が毛足の長い絨毯に引っかかり、その体が大きく揺らいだ。あわや転倒する、とユアーナが慌てて駆け出そうとしたが、それよりも先にソファを立ち上がったクラウディアが小さな体を抱きとめた。
「リリス……走っては危ないわ。それに、お部屋に入るときは先にご挨拶、でしょう?」
「ごめんなしゃい……おかあたまに、はやくあいたかったの……」
クラウディアが眉をひそめつつ注意をすれば、アマリリスは眉を下げてうるうると両目を潤ませる。クラウディアによく似た大きな碧眼が揺らぐ様子に、ユアーナも、案内してきた侍女も、クラウディアですら心を撃ち抜かれている。
彼女、アマリリス・ダイナ・リンテドールは、ヘルマン王太子とクラウディア王太子妃の間に生まれた第一子である。美貌の王太子夫妻の娘にふさわしい、美しく愛らしいロイヤルベビーは御年三歳になったばかり。すくすくと周囲の愛情いっぱいに育つアマリリスは、しかしクラウディアの昨今の悩みの種である。
原因といえば、先ほどクラウディアの口から語られた通り、夫ヘルマンの娘への溺愛ぶりである。知的で紳士な王太子殿下は、娘が生まれるとその態度を豹変させた。アマリリスを目の中に入れても痛くないほど可愛がり、甘やかし、めろめろのでろでろである。口さがない王宮の使用人たちに、『王太子殿下は第一王女殿下の奴隷』だと揶揄されるほどである。
ただ可愛がるだけならいい。だが、ヘルマンはとことんまでアマリリスを甘やかすのだ。我儘を言っても注意するどころか何でも叶えようとするし、悪戯や悪さをしても愛らしいと笑うばかり。クラウディアが我慢を覚えさせようとしているのに、アマリリスが欲しがったものは何でも買い与えてしまう。
このままでは我儘姫まっしぐらだ、と娘の将来を案じたクラウディアが苦心して淑女教育を施そうとしているが、アマリリスを甘やかすのはヘルマンだけではない。彼女の両親である公爵夫妻、ヘルマンの両親である国王夫妻もまた、アマリリスを甘やかすだけ甘やかそうとしてくる。
公爵たちにとってはクラウディアは一人娘、アマリリスは念願の初孫である。また国王夫妻にとっても長男夫婦であるヘルマンの子は初孫だ。王家と公爵家はこの三年間、初孫フィーバーで沸きに沸いている。故に、クラウディアは己の悩みを相談しようにもできないのだ。
もし彼らに「殿下がリリスを甘やかして困るのです」と相談したとて、「まぁまぁ、今はまだそんなに厳しくしなくたっていいじゃないか」「可愛いのだから仕方ないわよ」「あの笑顔には勝てないさ」「じぃじとばぁばもリリスを目いっぱい甘やかしたいわ」と言われること間違いない。というより言われたことがある。ユアーナはその時のクラウディアの絶望顔を忘れないだろう。
何もクラウディアは娘憎しと我慢をさせたいわけじゃない。己の腹を痛めて産んだ子だ、誰より可愛いに決まっている。だが娘の未来を案じるからこそ、甘やかすばかりではいけないと考えているだけなのだ。可能であればクラウディアだってアマリリスをひたすら甘やかし、笑顔だけを見ていたいに決まっている。
「それで、そんなに急いでどうしたの、リリス」
「あいっ! あのね、あのね、おとうたまに、おかちをいただいたのっ! おかあたま、いっちょに、たべまちょう!」
態度を緩めたクラウディアに、ぱぁっと笑顔を見せたアマリリスははしゃいだ声でそう告げた。すぅっとクラウディア周辺の空気の温度が下がる。ユアーナと侍女はそれを察したが、幼いアマリリスは満面の笑みでクラウディアの手を引いて「はやくはやく!」と急かす。
「そう、お父様が、お菓子を……ねぇ貴方、殿下はいまどちら?」
「は、はい、休憩用ティールームに……いえ、今こちらにおいでです」
クラウディアの冷気に身を縮めた侍女が、ヘルマンの訪問を告げる。アマリリスに手を引かれたまま立ち上がったクラウディアは、冷えた笑みを浮かべたままヘルマンを迎え入れた。
「やぁお姫様、お母様は……く、クラウディア? 何か怒ってる……?」
「ご機嫌麗しゅう、リリスに無暗にお菓子を与えないでくださいませというわたくしのお願いを全然覚えてくださらないヘルマン王太子殿下」
一息で言って、にこりと笑う。妻の冷気を感じ取ったヘルマンの顔が盛大にひきつった。視線を逸らしつつ、両手の人差し指をつんつんと突き合わせる。普段の怜悧で聡明な王太子の姿は見る影もない、完全に妻の尻に敷かれた夫の顔だ。これがあの国民の人気も高い美貌の王太子かしら、とユアーナは内心で嘆息した。
「い、いやね……? 国王陛下から『ぜひリリスに食べさせてあげなさい』といただいたものだから、ね……?」
断れないだろう? とお伺いを立てるヘルマンに、クラウディアは額を指先で押さえて溜息をつく。確かにこの国の最高権力者である義父に渡されたのなら断るのは難しい。が、恐らくそれは言い訳だとユアーナにも分かった。ヘルマンだって喜んでその菓子を与えようとしているに違いない。
「おかあたまー?」
「クラウディア……?」
アマリリスからは期待に満ちた瞳で、ヘルマンからはご機嫌伺いの瞳で、同時に覗き込まれてクラウディアはがくりと肩を落とす。アマリリスはまだ何もわかっていないし、ヘルマンは確信犯だ。最終的にはクラウディアが折れるとわかっていて、やっている。それでも一言を加えずにはおけないので、クラウディアはかがみこんでアマリリスの顔を覗き込んだ。
「お菓子はひとつまでよ。お夕食が食べられなくなりますからね」
「あいっ!」
今日一番の良い返事で頷いて、にぱっとアマリリスは笑った。現金なその笑顔に脱力し、次いでクラウディアは困った笑みを浮かべた。どれだけクラウディアが肩ひじ張ろうと、この二人には勝てないのだ。愛しているが故の弱み。最愛の娘に手を引かれ、最愛の夫に連れられ、美貌の王太子妃は母の表情を浮かべて部屋を後にした。
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