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代書屋営業日誌

依頼人 メンド 1


「メンド様の仰りようをそのまま筆記すると、場合によっては喧嘩を売っていると捉えられかねません。ですので私としては決してお勧めできません。こちらで言い回しを考えることもできますが、いかがいたしましょうか?」

 代書屋のスクライブは、目前に座る依頼人のメンドに向かって翻意を促した。

「いや、俺の言ったとおりそのまんまを手紙にしてくれ。あんたの綺麗な言い方だと、俺の怒りが奴に伝わらないかも知れない」

「言葉には様々な種類があります。もちろん、その中には激しい怒りを伝える表現もございます」

「ふむ、そうなのか……いや、待ってくれ。やっぱり俺の言ったとおりにして欲しい。代筆を頼んでいる時点で俺が書いていないことは間違いないんだが、だからこそ俺の言葉をそのまま書いて欲しい。この手紙は間違いなく俺が代書を頼んだ、と奴へ伝わるように」

 激しい怒りを抱えている、という割にメンドは随分と冷静に見えた。スクライブ自身が怒りの対象ではないからか、逆に怒り狂っているからこその冷静さなのかも知れない。とするとメンドの怒りを、赤の他人であるスクライブが推し量るのは難しいだろう。


「そうですか。もちろん仰った言葉を一言一句、違えずに書くことはできます。しかし、そうなりますと申し訳ありませんが、冒頭に一文を追加させていただきたい、と言わざるを得なくなります」

「その一文ってのは?」

「『以下の文章は依頼人メンド様の仰った言葉を忠実に筆記したものであり、代書人スクライブの一存で記された文章ではありません』というものです。

 正確に記してお伝えすることが私の職務ではありますが、その一方で無用な軋轢を生むことは望みません。メンド様の仰りようは先ほども申し上げましたが、喧嘩を売っている、と捉えられかねません。この文章表現について私に責がない、と証明させていただけなければ依頼を受けることができなくなります。どうか、ご理解ください」

 スクライブの言葉を、メンドは咀嚼した。要するにスクライブは責任逃れを講じている訳だが、職務として必要な危機回避なのだろう、とはメンドにも理解できた。それにメンドの燃えるような怒りは正しくクラック本人だけに向けられるべきであって、手紙を代書する以外は無関係である代書人を巻き込むべきではない。メンドは翻意しなかった。

「わかった。その一文を入れてくれても構わないから、俺の言うとおりを手紙にしてくれ」

「かしこまりました。それでは改めまして筆記する内容の確認を……」




依頼人 テーゼ 1


 その依頼人は、いかにも魔術士然とした風貌だった。ゆったりとしたローブに身を包み、その顔は神経質そうに痩せている。大切そうに持ち歩いていた袋には、二十枚ほどの羊皮紙が詰め込まれていた。依頼人テーゼが記した論文の原著である。

「これらの羊皮紙の内容を、筆写して欲しいのだが」

「失礼ながら魔術士の方とお見受けいたしますが、筆写の呪文をお使いにはならないのでしょうか?」

「あぁ、使わない。私の字では筆写しても見栄えが悪くてな。綺麗な文字を書いてもらえる、こちらにお願いしたいのだ」

「ありがとうございます。ですが、それだけの枚数ともなれば相応のお時間と材料費と手間賃を頂戴することになりますが」

「それは構わない。ただし、これはまだ一部だ。あと数倍はある」

「数倍、でございますか」

「うむ。やっとのことで完成させた論文ではあるのだが、提出にあたって少しでも心証を良くしたいのだ。内容以外で難癖をつけられては堪らない。甚だ遺憾ではあるが私の書く字では何を言われるか心配でならん」


 そこまで言う文字がどれほどのものか、スクライブは気になった。確認する必要がある。

「一部、拝見してもよろしいでしょうか? ありがとうございます。

 ……差し出がましいことを申し上げますが、十分に整った字体のように見受けられます。私が筆写させていただいたとしても、それほど印象が変わるとは感じられないのですが」

「そう褒めてもらえると悪い気はせんが、やはり念には念を入れたいのだ」

 第一印象どおり随分と神経質だな、とスクライブは失礼なことを考えていた。考えてはいたが、おくびにも出さない。この程度の図太さは他人の秘密を扱う代書屋を営むにとって必要不可欠だった。その証拠にテーゼが言葉を続ける。

「実は以前に、こちらの代書で手紙をもらったことがあってな。内容が美しかったこともあるのだが、字の綺麗さにも惹かれてな。論文の筆写をお願いするなら是非こちらで、と前々から考えておったのだ」

「重ね重ね、ありがとうございます。私に依頼してくださった方のおかげで、本当にありがたいことです。

 それでは私に依頼いただける、ということで詳細を詰めて参りましょうか……」




依頼人 クラック 1


 依頼人クラックの怒りは、スクライブを訪れたことで余計に増したかのような勢いを持っていた。

「言いたい放題で書いてくれる代書屋は、ここか! 仕事を持って来てやったぞ! 書け!」

「お客様。そのような仰りようでは書けるものも書けません。お引き取りを」

「なんだと? お前はメンドの言うことは聞けても、俺の言うことは聞けないってのか?」

 残念ながら依頼人のメンドを覚えていた。と同時に、冒頭の一文が仇になったか、とも思い返す。冷静さを保つためにスクライブは努力を要した。しかし当初の予定どおり、すべての責任をメンドへ転嫁して早々にお引き取り願おう、と方針を固める。

「いいえ。材料費と手間賃を頂戴できて、法に触れるようなものでなければ、どのような依頼でもお受けしております。本日はどのようなご用向きでしょうか」

「さっき言った。仕事を持って来てやったんだ、代書屋! 返事を書け!」

 スクライブは嫌な予感を覚えた。

「……返事と申しますと?」

「決まってるだろう、メンドへの返事だ。その代わり、俺の言うことを一言も違えるなよ? ほれ、書いてるだろう、ここに。『依頼人メンド様の仰った言葉を忠実に筆記したもの』と!」


 目の前に証拠の品を突き付けられては、スクライブの分が悪い。それはメンドの依頼でスクライブが筆記した、あの手紙だった。それでも抵抗を試みる。

「もしも、その手紙を筆記した責任を取って返事を書け、と仰られるのであれば、お断り申し上げます。私の一存で筆記した文章ではございませんので、責任を取る謂れもまたございません」

「違う! そんなことは言っとらん! 返事を代書しろ、と言っている! お前は俺の言葉を忠実に手紙にしてくれるのだろう?」

「はい、それはもう。材料費と手間賃を頂戴できれば」

 つい口を衝いて出た。手遅れだった。もっとも先ほども似たような台詞を口にしている。しかし今回は見逃されることもないだろう。案の定だった。

「俺も依頼する。メンドへの返事を依頼する、と言っている!」

「……手紙のお返事ということですが、わざわざ私のような者に金を支払って遠回りに伝えるよりも、直接お会いになって仰った方がよろしいかと」

「先に手紙なんていう、迂遠な手段を持ち出したのはメンドの方だ! 奴と同じやり方で勝負してやるのが礼儀ってもんだろう? 違うか?」

 そんな礼儀は知らないし違うとも思うものの、クラックの怒りをさらに増幅させそうな気がして口にはしなかった。それに、どうやら依頼として受けることで難を逃れられそうな雰囲気でもある。

「そういうことでございますと、まずは手数料についての説明からさせていただきます……」

 スクライブは諦めて、手紙での喧嘩に必要な手数料について説明を始めた。




依頼人 ノーティス 1


「吟遊詩人に任せる公告を口頭ではなく試験的に文章原稿で渡す、ですか」

「そのとおりです、スクライブさん。その方が吟遊詩人の方々に原稿も残りますから、間違いも少なくなるでしょう? この試験計画を是非、手伝っていただきたいのです。試験とは言え街の正式な計画ですから報酬の方は間違いありませんし、スクライブさんも行政府ご用達として商売に良い影響が見込めます。労せずして名前だけで客が舞い込むことだって、あり得ないことじゃないと思いますよ」

 濡れ手に粟で客が舞い込むほど簡単な商売ではないのだが、とは思っても口にしない。行政府ご用達の件にしても良い影響だけではないと思われるが、意図的に説明を省いているのか本気で良い影響しかないと考えているのか、スクライブは未だに依頼人ノーティスの腹の底が読めずにいた。

 もっと言えば「名前だけで客が舞い込む」ことは、それほど多くはないものの現時点で既にないこともない。箔付けのためだけに受けるとしても正直、気乗りはしない。ひどく面倒そうな依頼だが、表向きは試験計画とやらに興味があるようなないような風を装って、今のところノーティスが一方的に話をするのに任せている。

「という訳で、とりあえずは十名の吟遊詩人に対して試験的に配布を行なうのですが、こちらの評判を聞いて協力のお願いへと伺った次第なんです。是非とも、よろしくお願いします!」

 そう言ってノーティスは頭を下げたが、口調は既に断られることを前提としていない響きを持っていた。悪戯心が顔を出してきたものの、すんでのところでスクライブは押し殺す。それほど忙しくもない近況も相まって、手を引ける局面までは付き合うか、と興味本位で行動することにした。


「かしこまりました。試験ということでしたら、私もお手伝いさせていただけると思います。ただし計画の本格稼働を目指されるのであれば、代書屋の選出は公平な基準に因るべきだと思いますので、入札か何かをなさった方が良いでしょうね」

「なるほど、そうですね! 正式稼働の暁には、競争入札で代書屋を選定する必要が、確かにありますね! ……いや、スクライブさんには申し訳ないけど」

 やはり正式稼働となってもスクライブに話を振ろうとしていたようだが、ここで釘を刺せた。

「いえ、お気になさらず。では試験ですから、試験用の原稿を筆写したもの十枚、ということですね」

「いえいえ。試験ではありますが、原稿は本番のものを用意します。本当は十五枚用意して口頭伝達との人数を同じにした試験を狙っていたのですが、代書屋さんの底力を信用しない連中から横やりを入れられて十枚に減りました。でも効果が出ればもう一度、半数試験をしたって良いですし、事実そうなるだろうと思います。その際には是非またスクライブさんに力添えをいただければ、と考えています」

「そういうことであれば、半数試験のときから実験的に入札なさった方が手順として綺麗なように思われます。原稿制の正式導入と同時に入札制度も正式に、という方が納得も得やすいのでは?」

「……なるほど。それは、それは確かに。そうですね、入札制度も同時期導入してしまえば、うん。確かに……ありがとうございます、スクライブさん!」

「それでは、私の協力は今回までかも知れませんが、精一杯やらせていただきます。本番用原稿を十枚ですね? 料金や時間については先に説明差し上げたとおりになりますので、特に時間については余裕をもった対応をお願いいたします」

 スクライブは不安に包まれながらも、この試験計画についての依頼を受けることにした。




依頼人 テュイション


 魔術士学校の生徒であるテュイションだが、非常に苦労している学生でもある。

 月謝もそうだが、特に入学金は比較的裕福な彼女の実家にとっても小さくない出費であった。現在も月謝については実家が変わらず支援してくれているし、彼女自身も実家の支援に応えるべく奮闘している。

 そんな彼女が入学後に知った事実がある。その事実とは、学校への入学金については実家もそれなりの額を負担はしていたが、その大半が彼女の祖母からもたらされたものだということだった。

 魔術士としても実業家としても有能だった祖母は、世を隔てて登場した魔術士の才能に愛情を注ぎ、孫のテュイションもこれによく応えた。実業の才能は受け継いだが魔術の才能は受け継がなかった父親よりも、早くに連れ合いを亡くしていた祖母の方が孫の成長過程に重大な影響を及ぼした。それでも「大切な娘が望む生き方をさせたい」と考える両親にも、テュイションは恵まれていた。

 「どうやら最近、床に臥せっている時間が増えたらしいの」と、祖母の体調不良を知らせてきたのはテュイションの母である。母としては世間話のつもりだったかも知れないが、自身の人格形成に多大な影響を受けていたテュイションにとっては一大事であった。


 出自を魔術士学校と同じ街に持つ生徒は自宅からの登校が許されていたものの、テュイションのような出自を街に持たない生徒は寮生活を送ることになっている。街中への外出は──門限を守れば──比較的自由だが、街の外へ出るような外出や街中での外泊については許可が下りづらい。

 また外泊の許可が出たとしても外泊している間の単位が免除される訳ではないため、外泊が長期に渡るようであれば休学など別の手続きが必要となる。特に中級組から上級組への進級を目論んでいたテュイションにとって、それは選べない選択肢であった。

 長期の外泊許可を得て祖母の看病はできない。短期の外泊許可を得て祖母の下へ駆けつけることくらいはできるだろう。しかし、それを喜ぶ祖母だろうか、と考えると進級を棒に振ってまで駆けつけると逆に怒鳴られかねない。

 思い悩んだテュイションは、お見舞いの手紙を書くことにした。その手紙の中では看病に駆けつけたい気持ちも進級試験が迫っている事実も、包み隠さず書くことも決める。当初、手紙は自分で書くつもりでいた。しかし日常の課題と試験の準備に追われて、それもままならない。

 テュイションが次に選んだのは、代書屋に託すことだった。




依頼人 テーゼ 2


「この手法であれば私個人としては残念でもありますが、均一に整った文体が確実に得られる上、費用も抑えることが可能となります。何事をか申し上げるよりも、まずはご覧いただいた方が確実かと思われますので、ご覧ください。なお今からご覧いただく試しの材料費はこちらで持たせていただきますので、ご安心ください」

 スクライブはテーゼから借り受けている原著の一枚と、表面が削られた試し書き用の羊皮紙を並べて作業台の上に置いた。双方とも似たような大きさの羊皮紙であった。


 ──Invisible neighbours, lend me your power.

 ──Transcribe that words.


 試し書き用の羊皮紙に、じわりと変化が訪れた。表面にインクの染みのようなものが浮き上がってくる。ある程度、染みが浮き上がる前にテーゼには、それが何か理解できた。自らの原著を忘れるはずがない。読めはするものの癖のある字までもが記憶どおりだった。これは筆写の呪文だ。

「スクライブ君。筆写の呪文では意味がない、と言ってあったはずだが」

「これは下準備でございます。話の本番は、ここからです」

 スクライブは念には念を入れて、原著の羊皮紙を大切に仕舞い込む。作業台には筆写の呪文で作られた複製だけが残された。そうしてから再び詠唱の声が響く。


 ──Invisible neighbours, lend me your power.

 ──Rewrite the words of our territory into the words of your territory.


 今度は羊皮紙に筆写されたテーゼの原著に変化が訪れた。記された文字が奇妙に変形してゆき、とうとう羊皮紙一面に記されていた文章がすべて同じような文字らしき何かに変形して、終わった。

「……これは?」

「ご存じありませんか? 暗号の呪文です。ご入り用とあらば後で次の呪文と一緒にしてお教えいたします。それでは、次です」


 ──Invisible neighbours, lend me your power.

 ──Rewrite the words of your territory into the words of our territory.


 意味を成さない文字列か何かとなってしまったテーゼの原著の複製が、再び変化し始めた。先ほどと同じように文字が変形し始め、今度は読める文字へと変化してゆく。ただし同じものへは変わらない。テーゼの覚えている癖のある文字ではなく、もっと整えられた文字へと変化していた。

「これで終わりました。この呪文は復号の呪文と申しまして暗号の呪文とは対となるべき呪文ですが、副産物として整った字体を得ることが可能なのです。これでしたら材料費が抑えられますし、魔術士であるテーゼ様であれば、ご自分で作業を進められることすら可能となります。いかがでしょうか」

 テーゼは唸っていた。恐らく考え込んでいるのだろう。スクライブにしても相手が魔術士ということで、この手段を教える気になった。特段の秘密ではないものの、原本がなければ使えない手段でもある。

「君が自力で筆写したものは、あるかね?」

「もちろん、こちらにございます……どうぞ、ご覧ください」

 スクライブの文字の綺麗さは代書屋としての武器でもあるため、確かに整っていた。テーゼが惚れ込んだ文字でもある。しかし見比べてみると、そのテーゼから見ても暗号と復号の呪文を通した複製の文字は遥かに高い次元で整っていた。

 同じ文字は文章のどの部分で使われている文字であっても、まったく同じように記されており間違いもない。整っている、という観点だけで話をするならば、間違いなく二つの呪文を通した文章の方が整っていた。

「大変に整った、良い論文になっていると思う。同じ魔術士として知識を分け与えてくれようとしていることも、感謝に堪えない。

 だが、私は君の字が気に入っている。申し訳ないが読みやすさだけならば呪文を通した方が良いのだろう、と思う。だが、私は君の字が気に入っているのだ」

 これほど代書屋冥利に尽きる殺し文句も、そうそうない。




依頼人 メンド 2


「仕事である以上、あんたがクラックの代書も引き受けたことには何も言わない。その代わり、また俺の手紙の代書を、もちろん仕事として依頼する。クラックの野郎には心底、頭にきた。仕事として付き合ってもらうぞ、代書屋」

 何も言わないだけで、怒りの矛先は十分にスクライブへも向いているようだった。クラックの代書依頼を引き受けたときから覚悟していた展開でもある。怒鳴りこまれなかっただけ予想よりは静かな展開だったが、静かなだけにメンドの纏う空気が怒りを伝えてきた。

「そういうことでしたら気は進みませんが、引き受けさせていただきます。手数料などについては前回に説明させていただきましたので、今回は割愛させていただきます」

 反応がやや自動的になるのは見逃して欲しい、とスクライブは願った。その願いは叶えられる。早々にメンドが筆記内容の口述を始めたからだ。スクライブは試し書き用の羊皮紙を慌ててひったくり、メンドが口述する内容を書き留めてゆく。


 滔々とメンドの口から激しい怒りが噴き出していた。平静な調子にすら激烈な怒りが込められているかのような口述に、時折スクライブは自分が何を書き留めているのか見失いそうになっていた。

 とめどない怒りを記した羊皮紙は三枚に及んだ。ここまで言い淀みや言い間違え、言い換えもなく理路整然と文章を整えて口述できるメンドに対して、スクライブは舌を巻いた。言葉遣いこそ粗野に近しいものを感じていたが、論述そのものについては繊細かつ理知的なものを感じる。ただし、それらはすべて怒りに彩られていた。

 口述が終わると「どうだ」とメンドが問うた。「どうもこうもございません、清書させていただきます」がスクライブの答えだった。メンドの皮肉を込めた優しさは、ここで発揮された。

「例の一文、先頭に入れてくれていいぞ。ほら『私の一存で記された手紙じゃありません』とかいう奴だ」

「かしこまりました」

 一言を返すのが精一杯だった。言われなくても捻じ込むつもりでいた。清書してもメンドの怒りの口述は羊皮紙三枚から二枚と半分になっただけで、さほど変わりはしなかった。冒頭の一文など、焼け石に水だ。怒りに満ちた完全なる宣戦布告の手紙が出来上がった。




依頼人 ノーティス 2


 スクライブの不安は的中した。何度目かの来訪の際、ノーティスは手数料の大幅な値下げができないか考えてくれないか、という提案を持ってきた。材料費も出ないような取引に拘泥する必要はない。

「話になりません。それでは手間賃はおろか、材料費にすら届きません。私に霞を食べて生きよ、と仰るのでしょうか」

「今回だけなんです。今回だけスクライブさんに割を食わせる形となってしまいますが、次の試験では予算が確実に確保できるんです。今回だけ、なんとか呑んでいただけませんか」

「お断りいたします。私の代書は商売であって、ノーティス様の試験の道具ではございません。こちらの定めた料金をお支払いいただけない以上、手を引くことは当然としか感じられません。ノーティス様の仰る理想の計画に殉ずる別の代書屋を探した方がよろしいかと存じます」

「もう、そんな時間はありません! スクライブさんにやっていただけなければ、この試験は失敗に終わってしまいます! このような結果をスクライブさんは望んでおられるのでしょうか? いいえ、違うと思います。スクライブさんなら、わかっていただけると、わかっていただけたと確信していたのです。お願いします」


 よもや潮時を間違えたか、とスクライブは自身の判断について懐疑的になった。

「見通しが甘い、と言わざるを得ません。どういう理屈で付くはずだった予算が半減以下となるのか私にはわかりかねますが、だから半額以下で仕事を受けろ、とは官僚の横暴としか表現できません」

「しかし、この話を受けていただけなければ、計画自体が破綻してしまうんです! お願いします」

「たとえ破綻しようとも、私に責はありません。予算を確保できなかったのは、他の代書屋にせめて目星をつけておくくらいのことすら怠ったのは、どなたでしょうか。少なくとも、私ではございません」

「ここで計画に力を貸してくだされば、絶対に悪いようにはいたしません! 行政府ご用達の肩書だって手に入るんですよ?」

「必要ありません、お引き取りください」

「そんな……」

 そこから先へ、ノーティスの言葉は続かなかった。




依頼人 クラック 2


「メンドの奴、随分と頭に来たようだな! 真っ赤な顔して、お前に代書を依頼している様子が目に浮かぶ」

「聞いてはいただけないのでしょうけれども、まだ続けるおつもりですか?」

「もちろん! お前には正規の手数料を支払っている。俺も、そして奴も。まぁ、お前に思うところは少ししかないから、今にして思えば少しだけ気の毒と思わないでもない」

「本当に気の毒と労ってくださるのであれば、この不毛な諍いを早く終わらせていただきたいものです」

「もう何回か手紙をやり取りしたら、お前は解放してやるよ。手紙だけでは埒の開かん話になるだろうしな。だがメンドがお前を解放するかどうかは知らんぞ」

 スクライブは何も言わず、肩をすくめるだけでクラックの言葉に返事をした。

「それでは……今回はどのような趣旨の文章でございますか。いつまでも喧嘩腰のままでは、収まる諍いも収まらないように感じられるのですが」

「冷静に考えれば、やむを得ない不手際は俺にもあったが、奴にだって不注意があった。自分の不注意を棚に上げて俺の不手際だけを責められれば、言い返したくもなるだろう?」


「それではクラック様の不手際だけを詫びる内容にしてはいかがでしょう。その上で改めて、メンド様の不注意を指摘なさればよろしいのではないかと」

「それだとメンドは、俺が折れた、と感じるだろうな。それは避けたい、図に乗る。まず奴が自身の不注意を認めなければ話が始まらない。その上でなら、こちらの不手際について詫びもすれば保証もするさ」

「やはり意地の張り合いのように思われますが……」

「もちろん、意地の張り合いだ。折れた方が負けだ。第三者のお前から見れば、つまらんやり取りかも知れんがな」

「手数料をいただいている以上つまらない、などとは決して申し上げませんが、もう少し他にやりようがあるのでは、と感じられます」

「そう言うな。喧嘩の仲立ちに入るだけで売り上げはあがるだろうに」

「売り上げだけが、すべてではございません。時間という貴重な対価を支払っておりますので」

「体験の一つとして、もう少しの間だけで構わんから、付き合ってくれや」

 クラックは荒っぽくスクライブの肩を叩いて同意を求めはしたものの、スクライブの口はへの字に曲がったままであった。




依頼人 シュードニム


 怪しい依頼だった。同じくらいの大きさの羊皮紙二枚に、ただ「日付が変わる頃、森の入り口で待つ」とだけ記してくれれば良い、という話だ。そもそも文章の内容自体が不穏である。

 日付が変わる頃の森の入り口は昼であっても夜であっても、幼子ですら理解できるほど安全な場所ではない。自警団による歩哨も立たず、昼の真っ最中であっても何者かが木陰に潜んでいては見つけにくい。夜であれば尚更だ。

 あまり聞く話ではないが、森の中から獰猛な動物が彷徨い出てくることもある、という。そんな場所で誰が誰を待っているのかわからないような内容の手紙など、何に使われるのかわかったものではない。あるいは、何に使われるか自明のようなものである。

 依頼人のシュードニムは、真っ当さを感じさせない風貌を持っていた。人物が怪しく感じられれば、依頼の内容も怪しい。たとえ、手数料を三割増しで支払う、と申し出られてもスクライブは手を伸ばす気になれなかった。

「お客様。そのような一文だけを私の仕事とする訳には参りません。お引き取り願います」

「まぁ、そう言わずに頼まれてくれよ。羊皮紙は用意してもらいたいが、それぞれに一文ずつ、さらさらっと書いてくれりゃあ良いだけなんだ。手間は三割引きで、儲けは三割増し。悪い話じゃあないと思うんだがよ」

「どのような使い方をなさるおつもりでしょうか?」

「そりゃ、教えられねぇな。こんな美味い儲け話をあんまり広められちゃあ、こっちが儲け損なうんでね。どっちみち、あんたにゃ関わりない話だろう?」

「その手紙を代書した、という事実は十分な関わりかと存じますが」

「別に、あんたの署名付きで代書してくれ、って話じゃあないんだ。関わりなんてわかりゃしねぇよ」

「関わりが判明した途端、私が苦境に立たない、という保証が見えませんので、今回の依頼はお断りさせていただきます」

「……ちっ、わかったよ。潰れちまえ、こんな店」

 シュードニムは見本になるような捨て台詞を吐いて、店を後にした。スクライブは急いで店を閉め、出かける準備を整える。


「……という風体の男でした。文章の内容からして、何者かをおびき出してどうにかしよう、というものではないかと思えました」

 自警団の詰め所で、怪しい客が来た、と証言するスクライブの姿があった。




依頼人 ノーティス 3


「半値以下で依頼しようとしていたあなたが、何をどうやれば三分の一程度の値下げで再度、交渉できるのですか?」

「絶対の成功と効率の向上を示して、説得した結果です。満額とは言えませんから、手間賃はないかも知れませんが材料費くらいは賄えているはずです」

 そういう話ではないのだが、と再び断りを入れようとしたスクライブを制して、ノーティスが話を続ける。

「この計画は、間違いなく作業効率を引き上げます、劇的に。スクライブさんだって、そう思ったからこそ最初の頃は協力してくださっていたのでしょう? お願いです。元の価格までは出せませんでしたが、三分の二ほどであれば間違いなく出せます」

「私が、この依頼を受ける理由が、やはりありません。三分の二では材料費こそ賄えますが、それだけです。前にも言ったかも知れませんが、私に霞を食って生きよ、と仰りたいようですね」

「これも前に申し上げましたが今回だけです。次は予算もこちらの計画どおりに付きますし、増額だって夢じゃない。ただ、もうスクライブさん以外の代書屋を当たって最初から交渉し直す時間がないのです。締め切りが迫っているんです」

「次はございませんし、今回のお話からは完全に手を引かせていただきます。手数料を取りはぐれて痛い目を見る謂れは、私にはございません」

「これも前に申し上げましたが、行政府ご用達の肩書は営業上とても強い武器になると思うのですが」

「魅力を感じません。行政府の犬と揶揄される材料になりかねません。いえ、事実なります。当店は行政府よりも従来のお客様の方が客層は厚いのです。より厚い客層へ向けて訴求するならば、ご用達の肩書は邪魔になる可能性が大きいのです」

「……では、今回だけ。今回だけ、ご助力いただく訳にはいきませんか」

「こちらの定めた手数料をお支払いいただけるのであれば、今回だけは協力いたしましょう」


 数日後、ノーティスは規定の手数料と本番用の公告原稿を持ってスクライブの下を訪れた。

「……お願いします。もう時間がないんです」

「どうやったかは伺いません。ですから、どうやるのかを聞かないでいただきます。明日までには完成させますので、また明日の夕暮れ過ぎにいらしてください」

「たった一日かそこらで! どうやって!」

「その質問に答えを求めるのであれば、こちらのお金と原稿を持ってお引き取りください。今回の大盤振る舞いは二度と関わり合いにならないための奥の手でございます。つまびらかに解説するつもりはございません」

「……わかりました。よろしくお願いします。明日また、お邪魔します」


 わざわざ戸口に立ってまで、スクライブはノーティスが立ち去るまで見送った。ノーティスが間違いなく立ち去ったことを確認してから、スクライブは店を閉める。魔術士を名乗るには些か実力の足りていないスクライブであるため、この奥の手は客に頼られると厳しかった。

 清書用の羊皮紙のうち、公告原稿と同じ大きさのものを見繕う。迷うことなく詠唱を始めた。


 ──Invisible neighbours, lend me your power.

 ──Transcribe that words.


 ──Invisible neighbours, lend me your power.

 ──Rewrite the words of our territory into the words of your territory.


 ──Invisible neighbours, lend me your power.

 ──Rewrite the words of your territory into the words of our territory.


 清書用の羊皮紙に筆写された公告原稿が変化し続け、均質に整った字体で筆記された公告原稿へと変形し終えた。これで筆写された公告原稿が一枚完成する。ここからはひたすらに筆写の呪文を唱え続けるだけであったが、これがスクライブには簡単なことではなかった。

 さらに四枚ほどを筆写したところで、スクライブは息をつく。魔力を乗せるどころの話ではない。すっかり出涸らしとなっていた。魔術士としてのスクライブが扱える魔力量は極端に少ない。

 最近は代書屋としての顔が目立ってくるようになったため言われることもなくなったが、以前までのスクライブは魔術士崩れと呼ばれる種類の人間だった。どれだけ努力しても扱える魔力量が伸び悩むため、魔術士として振る舞うことが難しい。彼が魔術ではなく代書で身を立てようと決めたのも、それが原因だった。

 その証拠、とでも言わんばかりに七つの魔術を立て続けに使っただけで、魔術士としてだけでなく普通の人間としても息切れを起こしていた。天井が低いせいか、しばらく休めば比較的短時間で完調に戻るものの、それまでの間は体調不良により魔術士としてだけでなく人間としても無力化する。その状況は致命的であった。できれば他人に悟られることは避けたい。


 半日ほど休むことで魔力は戻るし、魔力切れによる体調不良も解消される。翌日は代書屋を臨時休業し、その時間を回復と再度の魔術行使に充てた。夕暮れになってノーティスが代書屋を訪れた頃もまだ、スクライブの身には若干の体調不良が残っていた。

「……こちらがお約束した、公告原稿の筆写十枚でございます。ご確認を」

「ありがとうございます……確認しました。見事です、見事すぎます!

 ところで体調がすぐれないようにお見受けしますが、ひょっとすると徹夜での作業だったのでしょうか。申し訳ありません」

「それでは、これが私からは最後の協力ということで、公告原稿の計画からは身を引かせていただきたく存じます……代書の方はご確認いただけたようですので昨日、置いていかれた手数料は頂戴いたします。ご利用ありがとうございました、ごきげんよう」

 十枚の筆写済み羊皮紙と預かっていた一枚の公告原稿をノーティスに押しつけて、スクライブは体調を万全へと戻すべく店からノーティスを追い出した。




依頼人 テーゼ 3


 暗号や復号の呪文は不要とのことだったので、スクライブがテーゼに対してできることは論文を殊更、丁寧に筆写することだけだった。論文である以上、言い回しなどを変えることは許されるはずもなく、ひたすら丁寧に綺麗に筆写することだけへスクライブは心血を注いだ。

 その筆写も残り数枚を残すところとなり、テーゼが数回に分けて持ち込んでいた論文も尽きた。もはやテーゼが来店しても、スクライブが筆写作業に費やす時間と同等の時間を、テーゼは筆写の仕上がり確認へ費やすようになっていた。

「今日の作業分は、この一枚で終わります。ですが、持ち帰ることができるものは数枚しかありません。本日は持ち帰られますか?」

「いや、残りの筆写分は最後にまとめて持ち帰る。それまで保管しておいてくれたまえ」

「かしこまりました。ではいつもどおりの手順で保管させていただきます」

「よろしく頼む」

 テーゼの様子が、いつもと少し違うと感じ取ったスクライブは水を向けた。

「どうかなさいましたか? 仕上がりに問題が?」

 観念したかのようにテーゼが口火を切る。

「いや、そうではない。手数料の支払いについてだ」

「お支払いが難しくなられましたか?」

「いやいや、そういう話ではない。見くびってくれるな」

「では、どのようなお話しでしょうか」

「君の筆写は大変に良い出来だと感じておる。こうして時折は作業を見せてもらって、実に丁寧な仕事ぶりだと感じ入る。その仕事ぶりに報いる方法が何かないかと思ってな」

「そのお言葉だけで過分にございます」

 スクライブは心の底から礼を尽くして体を折る。事実、自惚れでなければ良い仕事をしたとはスクライブ自身も思っていたことだった。ここ数年来で、もっとも丁寧に仕上げた仕事であることは疑いようもない。

「言葉だけで満足されると、こちらが申し訳ない気分となるのだよ。何らかの形で報いようとは思うが、完成までにどのような形がとれるのか考えさせてもらおうと思っている」

「ありがとうございます。それでは期待させていただきたいと存じます」


 後日、テーゼが形にした報いとは、テーゼの定めた手数料の二倍に迫ろうかという額の支払いだった。ただし論文そのものは百枚を超える大作であったため、テーゼの出費は大きな痛手となっているであろうことは想像に難くない。

「下手な何物よりかは、この方が商売人にとって良かろうと思ってな。手間賃をはずんだと思ってくれ。ありがとう。良い仕事を見せていただいた」




依頼人? メンド&クラック


「不注意を認めれば、不手際を認めるだと? そりゃ不注意は認めるさ、あぁ。人様の手紙を代書してるんだから、あんたも事情は呑み込めていると思うけど、不注意と不手際が折り重なったような話ではあるからな」

「では、そのように手紙をしたためればよろしいかと存じますが?」

「俺も同じだよ。クラックが不手際を認めれば、こっちだってうっかりやっちまったことについて頭を下げないこともない。でも、俺のは事故だったんだぞ? 本質的に責任なんてものを問われるのは俺じゃなくて先方だ。俺も奴も振り回された形なんだ。それを、俺ばっかり……」

「だろうと思うよ。こう言っちゃなんだが、先方の我が儘に振り回された結果だろうとは思うな、俺もお前も。そして、そこの代書屋も」

 店の扉が開くと同時に、そんな言葉が降りかかってきた。まだ手紙など届いていないはずのクラックが、そこに立っていた。店の外まで響くような声で喋っていたかは疑問の余地も残るが、どうやら状況を改善しようとスクライブがメンドへ話していた様子は聞こえていたようだった。

「……クラック! どの面下げて、ここに来た!」

「代書屋の客としての面下げてんだよ。ここはお前だけの店じゃないだろうに」

 できれば余所でやって欲しかったが、スクライブの眼前で直接に剣戟を交える戦闘が始まってしまった。この隙に、他のお客様の作業を進めてしまおう、とスクライブは二人を放って別の依頼へ取り掛かった。


「……やっぱり、そうだよなぁ! 俺の注意不足だって注文の品をころころころころころころころころ顔を合わせるたびに変えてきやがった、あの客がもとをただせば原因だと思えるし、あんたの不手際だって同じだろう? どうして俺たちが言い争わなけりゃならなかったんだ!」

「意固地になった俺も俺だが、客と直接に対面して沸き上がった不満をぶつけるにぶつけられず、逆を向いて俺に来ているんだろうな、とは感じてた。売り言葉に買い言葉で俺も不満に不満をぶつけちまったが、本来は別に俺たちのせいじゃない」

 それほど長い時間、二人を放っておいたつもりはなかったが、スクライブが気づけばメンドとクラックの間に和解に至ったような空気が流れていた。やや穏やかな空気だったのでスクライブとしても話を聞いてみるつもりになり、手元の作業を中断する。

「メンド様。そろそろ本日の用向きを伺いたく存じますが、そのご様子ですと用向きはなくなりましたでしょうか?」

「おぅ、そう思ってくれていいぞ、代書屋」

「今までお前にも付き合ってもらって悪かったな、代書屋」

「いえ、肝は冷えましたが手間賃を頂戴しておりましたので、仕事をさせていただいたまで、でございます。ただ、当店は酒場ではございません。和解の杯を酌み交わすのは是非、他へ移ってやっていただきたいと存じます」

「違いない。いつまでも注文を取りに来ないから、おかしいとは思ってたんだ」

「じゃ、久しぶりに呑みに出るか! 代書屋、良ければお前も来るか?」

「いえ、私はまだ別の仕事も抱えておりますので、お二人でどうぞ」

 スクライブの代書した手紙が状況に寄与したかはわからないが、こうして喧嘩は収まった。




来客 テュイション


 前回の来訪から、ちょうど一週間。苦学生のテュイションが店を訪れた。数え間違えていなければ、今回で十度目の来訪となる。

「その節は本当に、ありがとうございました。どうやら母が少し大袈裟に話をしていたようで特に重篤な病気とか、そういう話ではありませんでした」

「いえ、仕事ですから。それにしても、おばあ様に大事なかったのは何よりでしたね。立ち入ったことを伺うようで恐縮ですが、今後はどうなされるのでしょうか」

「無事、上級組への進級試験も終わって今は結果を待つだけですから、この隙に一度、外泊届を出して祖母の顔を見て来ようと思っています」

 スクライブは本当に立ち入ったことを聞いているのだが、テュイションは気にした風もなく答える。スクライブが試験のことも祖母のことも共に気にかけてくれていたことは、テュイションも知っていた。

「そうですか。おばあ様も二重に喜ばれることでしょう」

 苦学生ということもあり、また他の街ではあるものの実家がそれなりに名の知れている名家であることも考慮して、普段は認めていない支払いの分割をテュイションに対しては許していた。今日は、その分割払いの最後の日だった。


「それで、こちらが今回の分です。これで……」

「えぇ、最後の支払いですよ。それでは確認だけ、させていただきますね」

 スクライブが支払いを確認している少しの間、テュイションは粛々と待っている。儀式としては簡単な部類で、今までにテュイションの支払いが遅れたことなど一度もなかった。恐らく今回も足りないことなどないだろう、という憶測は当たっていた。すべてを終えてスクライブが静粛を打ち破る。

「はい、間違いなく。これでお支払いは、すべてとなります。私が言うのも違う気はいたしますが、ご苦労さまでした」

「こちらこそ、ありがとうございました。代書していただいたことはもちろんですが、分けてお支払いすることをお許しくださって。本当に助かりました」

「そう言っていただけると、こちらとしても代書した甲斐があったというものです。こちらこそ、ありがとうございました。もしよろしければ、またのご利用をお待ちしております」

「はい。機会があれば、またお願いしようと思います」

 そう言うとテュイションは深く一礼して店を後にした。




来客 自警団員


 その自警団員の訪問が、スクライブの仕事になることはなかった。しかし自警団員にとっては仕事の一環のようなものだった。そんな通報者への報告義務があるとは聞いたことがないので、恐らくは人の好い自警団員なのだろう、とスクライブは考えていた。

「……という訳で調べてみると、こちらに持ち込まれた依頼の際に使われようとしていた一文が、そのまま使われていました。どうやら犯人は自ら手書きしたようですよ、結局は」

「そうでしょうね。あんな一文だけの代書を受ける代書屋がいるとは、ちょっと考えづらいですから」

「それでも文字が書けるだけの学があるってのに追い剥ぎなんかやらかすとは、人間どうなるかわかったもんじゃない」

「学の有無が良い影響だけを及ぼす訳ではない、ということなのでしょうね」

 ここで自警団員が居住まいを正し、少し緊張した口調でスクライブへ本来の要件を告げる。

「ただ、しばらくの間になりますが、こちらにも自警団として団員を巡回させます。まだ全員が捕まった訳ではないので、何が起こるかわからない。今日はこの話をしに来たのです」


 自警団員は人が好かった訳ではなく、本当に仕事だった。

「それでも先ほどのお話ですと、主犯格は捕まったのですよね?」

「えぇ、その場で捕縛に協力してくれた人たちもいたので逮捕となったけど、どうやら逃げられる面子は逃げ出した後だったようで。森へ逃げた、という話もあるから、ここまで来るかわからないけど念のためだね」

「巡回路に入れていただけるなら私としては大助かりですけれども、ただ一度訪れただけの、しかも断った代書屋に何かしようと考えるとは思えませんが」

「だから念のため。人員は割きけど、まず何か起こることはないでしょう。こちらを訪れたのも風体から考えて主犯格の男のようだし、主たる犯罪の仕掛けはその男が自ら動いていたようだから、共犯者たちはこちらが少しだけでも関わっていたことなど知らない可能性すらある。それでもまぁ、知っている可能性もなくはないので、念のため」

「ということは、私としては少しでも早く巡回路から外れることを願うべきなのでしょうね」

「残りの犯人たちが捕まれば良いけど、捕まらないうちは外せない。捕まるのが先か、俺たちが根負けして巡回路から外すのが先か、というところかな」

「是非、捕まる方が先になることを願いますよ」

 「じゃ、そういうことで」と言い残して自警団員は代書屋を去っていった。

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