高楷成の母は日本人だったのか?
大和へ
せらさやか
海峡の潮の色は未だ暗かったが、雲は明るく、時折、日が差すこともあった。
倭比良は、潮風に頬を染めながら、楷成の顔を覗き込んだ。
「お疲れになりましたか?
ご心配には及びません。倭国は、高句麗に比べればずっと暖かいですし、食糧にも事欠きません。人心も穏やかなところですよ。」
……..倭由記に仕えていた下働きの女に過ぎなかったが、倭比良はもうすでに何度か、百済と倭との間を行き来したのだと言う。
高句麗を発ったのは春先だったが、百済でさらに海を東へと渡る船待ちなどをしていて、時は既に晩秋になっていた。
楷成の気持ちも少し落ち着いてきてはいたが、その代わり、幾分の脱力感もあった。これから、あれだけ長い間夢見ていた新天地に旅立とうとしているというのに。
例によって、多少の迷いも心のなかに残ってはいた。
優柔不断?・・・そうかも知れないが、王を失った浩太環妃のその後が心配でもあった。
父の妃に想いを寄せてしまった。
浩太環妃は、楷成を受け入れてくださった。
やがて、王妃になられるはずのお方だった。
浩太環妃を守り切らなかった。
絶奴部の王妃候補が王宮に入って来たのは、昨年の春のことだった。
既に、絶奴部の領地で嬰陽王との契は済ませておられた。
嬰陽王六十二歳、浩太環十六歳。
蘇貞麗が出奔してのち二十年近く、戦闘に明け暮れるのみで内裏を顧みることのなかった嬰陽王ではあったが、「世継ぎ」が一人では心配との消奴部配下の提言を入れて、やっと心を動かす余裕が出て来た。
絶奴部の浩太環は、それは美しい娘で、年のわりに大人びた受け答えに長けた、静かな賢い姫であった。
長年、内裏を任せてきた倭由記も、すっかり年を重ねたこの頃では、細かいところの不行き届きも目立つ。
浩太環なら、やがて内裏を任せることも出来ると、王は安堵された。
王は、内裏のなかにたった一人の妃として、浩太環を平壌に迎えられた。
しかし、その内裏で、浩太環の心を刺し貫いた、美しい若者が居た。
世子、楷成である。
楷成、十七歳。
倭由記ら年嵩の女たちに囲まれ内裏で過ごしてきた、楷成にとっても、浩太環は、生まれて初めて見る、若く美しい異性だった。
「お美しいですねぇ!」
楷成の心は、そう、張りのある美しい声を立てたのだった。
もはや性急な若い血を押しとどめる理性など残されてはいなかった。
春の訪れが
これほど旨く香り高いものとは
はてしなく長い冬の夜も
わたしの心を凍らせることはなく
小鳥の囀りで満ちた春が
むなしく気怠い午後と共にやってくることは
二度とありません
自分の心がこんなにまで
熱く燃えあがることがあろうとは
いまのいままで知る由もありませんでした
わたしは強く確信してしまいました
わたしの目はあなたを見るために
生まれてきた
わたしの心は
あなたを抱くために
この世に生まれた
わたしの涙は
あなたに拭っていただくために
これからこの世の時を
流れ流れて行くのです
六百十八年九月、王は逝去された。在位二十九年、嬰陽王と諡された。
楷成は大きな、そして、唯一の後ろ盾を無くした。
それでも、倭由記と倭比良らが準備してくれた渡航は、十九歳の楷成の心に、ある種の高揚をもたらしていた。
見慣れぬ土地を歩いている自分を背後から見つめ、物語を記録しているもう一人の自分の声は、すぐにも平壌城に取って返そうという心細い思いを心の底に抑え込み、楷成の足を機械的に前に進めた。
潮の匂い 何とかぐわしい
倭の表玄関、出雲の高楼は夕陽を受けて赤く輝いていた。
百野との出会い
人々は、「山」とか「丘」とか呼んでいるようだ。
だが、楷成には、穏やかで、なだらかで、靄に包まれた、暖かい草原に身を委ねているような気がしてならなかった。
いつからかは判然としない。
ずっと眠っていた。
眠っている間、随分と暑く長い午後だったような気もするが、夕暮れに向かう風は涼しく、冷たくすらある。
時は未だ五月。
眠っている間、汗をかいていたような気もするが、起きてみると、そんな痕跡もない。
夢を見ていたのだろうか・・・なにか苦しい想いが体を包んでいた。
楷成は、引き締まった頬から顎に向かって、手の甲を滑らせた。
髭も大して伸びていない。
つくづく心地良い風だと思い返した。
緑の匂いに加えて、夕餉の支度の煙の匂い
スズメの声も小さくなった。
未だ、山に帰るカラスの声が聞こえてくる時刻にはなっていない。
「お具合がよろしいようなら、夕餉をご一緒にと、お方さま(吉備姫王)がおっしゃっていらっしゃいます。」
・・・と、小女の言葉を、いつの間にか縁先に立っていた倭比良が通訳した。
「ご心配なく。私もご一緒いたします。」
何か浮き立つ心持もある。
倭比良以外の誰かと食事を共にしたりするのは、随分、久しぶりのような気がする。
吉備姫王は、茅渟王の正室である。
茅渟王は、広大な私領を持つ押坂彦人大兄皇子の皇子。蘇我氏に比肩しうる経済力を持っていた。
それに吉備姫王自身、桜井皇子の娘でもある。桜井皇子は用明天皇や推古天皇の同母弟である。
自然にも家庭にも恵まれた環境のなかで育った百野は、既に二十五歳になっていた。
華やかな大振りな顔立ちに、低いが良く通る声の持ち主だ。
ふくよかな白いうなじが灯の下に暖かく浮き上がる。
それに良く食べる。
よく笑う。
倭比良も食事を取りながらの通訳なので、すべてを伝えてくれているわけではないと容易に察せられた。
彼らの話していることは、楷成には、さっぱり理解できなかった。
「カイ」あるいは「カイセイ」は高句麗では支配者を意味するが、ここでは「カミ」と
言うらしい。あるいは王の家族のことを「コチュカ」と言うが、こちらでは「キサキ」と言う。また「金」は「蘇」だが、こちらでは「錆」と言うらしい。
時折、人の話を理解できるような瞬間もあるが、すべてが納得できるわけではない。
しかし、母を中心に三人の娘、そして一人息子、・・・みんな睦まじく、楽し気だ。
倭の豪族の屋敷は、にぎやかで明るい。
始めのうちこそ、楷成に名前や、年や、高句麗とはどんなところだ、旅は困難ではなかったか、など、年少の子供たちが質問を浴びせて来はしたが、すぐにそれぞれ食事に夢中になってしまった。
倭比良も久しぶりに、楷成の存在を忘れて、談笑の輪に加わっていた。
ヤマボウシの香る夜
その華やかな人と、目が合ったような合わなかったような・・・
楷成は、何かに酔い心地になっていた。
・・・・・・
暖かく穏やかな日々が続くものと思っていたら、すぐに毎日、雨ばかりの季節になったようだ。
楷成は、カビだらけになった。
部屋の四隅から黒い染みが、昨日より今日、今日より明日と、驚くような速さで広がってくるではないか・・・
熱いお湯をかけるのですよ、と、倭比良が言うのだが、・・・部屋の中まで水浸しになってしまうではないか・・・
頭の左側に偏頭痛があった。
ギリギリと激しく音でも立てて、刃でこそぎ取りたい。
頭痛も、黒カビも。
楷成は、ともかく、イライラした。
目の奥も、喉も、頬も、・・・痒い。
咳までは出ないのだが、呼吸も苦しいような気がする。
体に馴染みのない暖かさと
湿気
目までふやけてしまったか
横になればぐっしょりと濡れて・・・
救われようのない日々が、救われようのない楷成の心を鎮める役を果たしていた。
だんだん何も考えなくなって、どうにか息だけをしている。
今にも爆発しそうだった身体も、すっかり湿気を吸い込んで冷えてしまった。
そう、だから、ここ何日間か、風邪気味なのだ。
「病床の恋文」
明るみだした軒先に
未だ雀の声は聞こえない
静寂にほのかな温かさが加わり
闇夜から解放された庭は
ひどく小さくなった
体は冷えて震え続ける
鼻に絡みつくほつれ毛を
手の甲で掻きあげ
頬から額へと熱の在り処を探る
上半身を起こすと
湿った褥は瞬く間に冷えて
再び横たわることを拒む
百野・・・、百野・・・、
あなたはいまどこで
暖かな夢に身を横たえているのだろう?
どんな
未来の匂いを嗅いでいるのだろう?
その無邪気な夢のなかに
私も入って行くことが出来たなら
どんなにか幸せなことだろう
その夢のなかで
あなたの吐息をこの胸に
受け止めることが出来たなら
私はこの鼓動を止めることも厭うまい
百野・・・、百野・・・、
私はいま、
静かに、
あなたを愛しています
・・・・・・