AM10:00
今日この日がくるまで、私を知っている人間に会いたくないという理由から私はこの場所を同じ街にいながらも今まで避けていた。食事をとる場所も眠る場所もこの近くで探すことはなかった。
でも、ある意味ここもさっきのフロントと同じで聖域なのか。ここまでたどり着いたら私もジロジロ見られることはない。
あたりを見回した。
母さんはもう到着しているだろうか。ここで会いたくない人間など数えきれないくらいいるが、やはり母さんには一番会いたくない。だからこそ今一番にしなければいけないのはあの子の居場所を見つけること。
早くあの子を見つけなければ。
どうすれば・・・
何度考えてもやはり方法はひとつしかない。それは自分のこの容姿を逆手にとるのだ。関係者専用通路の入り口まで来ると、ちらっと警備員の顔を見て安堵した。
この警備員ならきっとあの子と間違える。
私はそう思い切ってサングラスを外すとその警備員に声をかけた。
「こんにちは。ここに入りたいんだけど、通してもらえる?」
警備員は驚いて私の顔を見たが、何を言えばいいのかわからないようで意味不明な言葉ばかり言い放っていた。
「お願い。時間がないの。家族なんだからいいでしょ?」
警備員は困った顔をしていたが私の顔をじっと見て思い出したように、ああと大きな声を上げた。
警備員が言い放つ言葉の中で唯一聞き取れた言葉があった。
「マリア・オルガナ」
私はその名前を聞いても笑顔を崩さなかった。今日はその名前を聞いても動揺してはいけないとそう自分に言い聞かせた。
警備員は嬉しそうに騒ぎ、顔をほころばせて私を関係者専用通路の入り口に通してくれた。
「ありがとう」
私は堂々とその入り口に入っていった。警備員の視線を背中に感じながら。でもその眼差しは疑いの眼差しではなく羨望の眼差しであることは後ろを振り向かなくてもあきらかだった。
マリア・オルガナ
私は顔から笑みを消して、再びサングラスをかけた。少し心臓の鼓動が速くなったことを私は気が付かなかったふりをした。
関係者しかいないこの細長い通路はまるでアリの巣のよう。通路から派生してたくさんの部屋があって、そこからまたたくさんの人たちがせわしなく出入りし、私の存在なんてまるで認識していないかのように走り去っていく。
私の今の恰好はここではかなり浮いているけれど誰も気に留めなかったことに本当に安堵していた。みんなそれどころじゃない。自分たちのことで今は精一杯なのだから。
少し前まで自分もそうだったから彼らの気持ちはよくわかる。私もきっと多少服装が浮いている人間がいても気に留めることはなかっただろう。
そんなことを考えていたからか・・・私は足を止めたと同時に呼吸が一瞬止まった。なぜなら通路の向こう側からかつての私が走ってこちらに向かってきていたからだ。すぐに幻想だと分かったが足は一歩も前に出ようとせず私は昔の自分に釘付けになった。
彼女の目は前だけを見据え、私に視線を移すこともなく、私の脇を走り去っていく。まっすぐに。そう、ただまっすぐ前だけを見つめて・・・どこに向かうなんて関係ない。
自分の幻想を見送ったその瞬間、気が付かないふりをしていた自分の鼓動を感じた。血を打つ感覚がわかるほどの大きな鼓動ひとつを感じただけで私は自分の中に眠っていた感情を思い出した。
鼓動の音がこの通路を行き来している人たちにも聞こえるんじゃないかってくらい大きくなる。私の足はようやく進む気になったようで一歩一歩前にカツカツと音をリズムよく鳴らしてぐんぐん進む。
カツカツカツカツと甲高く鳴る私の足音とドンドンドンドンと低い音を鳴らす私の心臓、このセッションのリズムは速まっていく。
進めば進むほど私は思い出す。ずっと押し込めていたあの感情を。
早く、早く。見つけなければ。
心臓の鼓動が激しさを増し、私はぎゅっとシャツの胸のあたりを握りしめて下を向いて立ち止まってしまった。昔の自分を思い出しそうで。というよりも昔の自分に戻りそうという言葉の方が正しいかもしれないと速まる鼓動を感じながらも冷静にそう思った。
朝、コーヒーを飲んでいた時はそんな昔のこととは無縁の世界にいたのに。今ではもうあの世界こそ私にとって無意味な世界へと戻ろうとしていた。
さっきみたいな幻想の自分とはもう会うことはないだろうと思った。さっきの幻想はきっと私がもう振り切ったと思っていた過去の自分だった。でも今ならわかる。幻想なんかじゃなくて今ここに存在している自分こそあの頃となんら変わらない自分なのだとはっきりわかったから。
ああ、こんなにもすぐに戻ってしまうのか。
ここにいるみんなの姿を見ていたらあの時の悔しさ、嫉妬、そして何よりも・・・。
その時、大きな歓声が聞こえた。
顔を上げて前を見つめると目をつむりたくなるほどのまばゆい光が通路の先から見えた。いつのまにか通路の一番端にまで来ていたのだ。そしてまた狂喜すら感じる歓声が聞こえて私の耳にビリビリと響き渡る。この熱狂に包まれた歓声にひどく懐かしさを覚えた。
そう。何よりもこの歓声。あの場所で走り終えた者だけが得ることができる栄光。
私はまた戻ってきたのだ。この世界に。
その時、ふわっと甘い香りがして誰かが私の肩をたたいた。