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トリミングライフ  作者: 十八谷 瑠南
7月31日
1/20

AM7:00

 朝。

 目が覚めるとまず、することがある。

 そう思えるだけで私の朝はスムーズに進む。

 だから私は毎朝目覚ましにコーヒーを飲む。


 ・・・。ピッ・・・。・・・・・ピピッ・・・ピピピッピピピッ

 うるさいアラーム音がまだ半分夢の中にいた私の耳にまで届いてきた。

 目を開いてもまだここが夢の中なのか現実なのかわからなくなる。

 少しずつ記憶がよみがえってくる・・・どうして私がここにいるのか。

 今日、何があるのか。何をするのか。

 でもまずは

「ああ、コーヒー飲まなきゃ」


 コーヒーマシーンがウイーンと大きな音を立てて動き出す。

 このマシーンの使い方を覚えることに私は結構手間取っていた。

 昔から機械音痴ではあったし、仕事だって機械を扱う仕事とは程遠かったから。

 コーヒーがカップに注がれている間、無意識にため息がでた。

 そこでふと思い出した。誰かが言った“ため息は幸せを逃がしているんじゃない。自分を落ち着かせるためにある”って言葉。

 幸せが逃げるわけじゃない。

 そう言い聞かせ今度は意識をしてもう一度ため息をついたところで、甲高い音が鳴った。

 いつの間にかコーヒーの香りが部屋中に広がっている。

 この香りは不思議だ。言葉でうまく表現できないけれど、暖かくてやわらかくてなんだか安心する。これから起こるすべてのことに対してきっと大丈夫だと思わせてくれるような。だから私は毎朝コーヒーを飲む習慣をやめられなかったのだろう。なにより今日という日はそんな思いが特に必要だった。

 カップを口に運ぶとコーヒーが苦味をもう苦いと感じなくなった舌を通り、喉へと流れていく。

 もう一度カップを口に運んだところで私は無意識に今日の予定を改めて思い返していた。

 このコーヒーを飲み干したら私は・・・。

 ああ、だめだ。

 このコーヒーの不思議な力をもってしても今日これから起こそうとしていることに対しての不安をぬぐいきることはやはり不可能のようだ。

 自分がしようとしていることを想像しただけだったのに手に汗をかき、ぎゅっと力強くカップの柄を無意識に握りしめていた。想像だけでこんな状態なのに私は一体今日、どうなってしまうのだろう。

 カップを流しに置いて洗おうかと思い水道の蛇口に手をかけたが、まとわりつく不安からかどうせ私がこの部屋を出た後に誰かが洗ってくれるだろうと投げやりな気持ちになった。

 だが、知っている。こういう時は逆に投げやりな気持ちに支配されてはいけないことを。私は蛇口をひねりカップを手でゴシゴシとこすって洗った。

 不安に飲み込まれそうなときこそ、投げやりになってはいけない。

 不安の波にそのまま飲み込まれてしまっては何もうまくいきはしないのだから。

 特に今日は。失敗するわけにはいかない。



 服を着替えようと寝室に戻ると、ぐちゃぐちゃになったベッドが目に入った。布団はカバーが外れてベッドの端で力なく垂れ、なぜか枕カバーまではずれている。シーツに至ってはベッドの中央に引き寄せられていた。

 私は昔から寝相が異常なほどに悪かった。

 それでいつも母さんに怒られていたっけ。


 “どうしてあなたたちはいつもこんなことになるの?”


 母さんの口癖。

 母さんはいつも私を“あなたたち”と呼ぶ。

 “あなたは”とか言われたことあったかな?


 “どうしてあなたたちはいつもこんなことになるの?”


 今日、母さんは来るのだろうか?

 いや。必ず来るに決まっている。

 でも、今日だけは母さんに会いたくはない。今日だけは。

 願掛けなのか何なのかわからないが私はとりあえずベッドメイキングに取り掛かっていた。このベッドだって誰かがきれいにしてくれるのに。わざわざ。だから、神様どうか今日は母さんに会わせないでください。どうか。


 ベッドメイキングし終わってからやっと寝室に服を着替えにきたことを思い出した。

 寝相の悪さのせいで今から何をすべきかわからなくなるなんて、そろそろ私はこの寝相の悪さを本格的に悩んだ方がいいのかもしれない。

 なんてまたくだらないことを考えながらクローゼットを開けてぶら下がった服をじっと眺めた。

 花柄のワンピース、黒のノースリーブ、ジーンズ、白のシャツ、薄水色のスカート、白のワイドパンツに黒のロングスカートももちろんある。     

 とにかく自分が持っている服をすべてここに持ってきたがこの服を普段着ることはほとんどなかった。だから特段気にいっている服もない。

 クローゼットの服を一着一着じっくり眺める作業を3周してからやっとあきらめがついた。ここではどの服を着たって私は絶対に目立ってしまう。

 だからもう、一番取りやすいところにかけていた白いシャツと膝まである薄水色のスカートを手に取った。


 支度ができた私を鏡で見るとそれはやはり見慣れない私だった。私はそんな私から目をそらしてバックを手に取り玄関で靴を履いて足元を見つめた。この靴を履くと自然と背筋が伸びるような気分になる。履き慣れていないこの靴はずっとほしかった靴で今自分が履いていること自体なんだか不思議な感じがする。そしてこの足元ももちろん見慣れない。

 部屋を出たところでため息をついた。もちろん幸せを逃がしたわけじゃなくて一旦自分を落ち着かせるために。それからエレベーターに乗って1階を押す。

 エレベーターを降りたところまではまだいい。そこは大きなロビーだから。

 ここでは誰にもジロジロと見られたりもしない。誰にも存在が認識されていないわけではなくてこのロビーにいることが許されているような。フロントにいる人たちは優しく微笑みかけてくれるし、ロビーのソファーに座っている人たちには親近感すら湧く。

 そうだ、まるで聖域みたいな。

 しかし、この神聖なロビーの居心地がいいくせになぜか今日の私は早歩きになっていた。

 この履き慣れていない靴のせいだろう。

 今まで遠ざけてきた靴だったがこの靴を履いているとカツカツカツとリズム良く音をたてて私はいつもより速く歩くことができる様な気がする。

 ドアマンが微笑み扉を開けて私に声を掛けたが、私は無言で微笑み返すことしかできなかった。

 扉の向こう側から強い光が私の目に飛び込んできたものだから、思わず手で遮っていた。

 指と指の間から光がきらきらと漏れている。

 今日も暑くなりそう。

 私は肩から提げていたバッグの中からサングラスを取り出した。更に目立つことにはなるのだが、いくらなんでも日差しが強すぎるので仕方がない。

 暑すぎる日差しから逃げるように駅へと向かう。まだ少ししか歩いていないというのに汗が流れ出して止まらない。額から流れ落ちる汗を腕で拭った時、目の前から歩いてきた男と目が合った。

 さすがにもう慣れてはきたが、私が誰かとすれ違うたびにその誰かは私を見つめる。いい気分ではないが今はとにかく暑くて暑くてたまらない。

 早朝でこの気温なんて・・・

「あの子、暑さに弱いのに」

 思わずひとりごとを言ったものだからまたすれ違った誰かが私をじっと見つめた。


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