おやびんと赤い糸
『ピッ……ピッ……ピピピッ……ピピピッ……ピピピピピピピピピ──』
心地よい布団の温もりに包まれながら休日の惰眠を貪る俺を、無機質なアラーム音が邪魔をする。
「うぅ……。五月蠅い……」
アラームが鳴り止む気配は無い。そして俺はアラームをセットした覚えも無い。
「──愛理? おい、起きろよ。遅刻するぞ? アラーム止めてくれ。俺休みだって言ったろ? えーりー……」
「んぁ~……。あと五分~~~」
「ダメだ起きろ。あと五分したら他の目覚ましが作動してご近所様に迷惑をかけるような目覚まし時計のオーケストラが始まるんだろ? ソレだけは絶対に阻止しろ」
「ふにゅぅ……。れーくんが止めてくれればいいと思うぅ……」
ったく、こんな朝っぱらからこいつは平常運転かよ。冗談だろうが絶対に行使不能な無理難題を吹っかけてきやがる。俺だって眠いのに! 俺は昨日は夜中の1時に仕事からやっとの思いで帰ってきたと言うのに! そこから1時間お前の愚痴に付き合わされ、『そろそろ寝なくて大丈夫か? お前また明日起きれ無くなるぞ?』って注意だってしたのに!
「100キロ以上離れたお前の部屋のアラームをどうやって止めるんだよ」
俺の名は火室礼士。俺の枕元にスタンドで固定されたタブレットの画面の向こうで絶賛眠り姫を演じているのは、姫川愛理。俺達は所謂、遠距離恋愛中なのだ。
「んぅぅぅぅぅぅぅ……。寒い~。だるい~。眠い~。おやす」
「おやすむな。アラーム止めて顔洗って来いよ」
「うぅ、れーくんまで冷たいぃぃぃ。この裏切り者ぉぉぉ」
「じゃあ寝ればいい。その代わり、「何で起こしてくれなかったの!?」って苦情は一切受け付けないからな。ってか、今日は『社会科見学』の日だろ? 早めに起きて学校行かなきゃって言ってたじゃんか。しっかりしろよ、『愛理先生』」
「うぅぅぅ。わかりました起きますよぅ。ねぇれーくん。起きるからいつものぉ」
「……はいはい」
俺は彼女の気だるげな猫撫で声に促されるまま、目を閉じてタブレットのカメラへと顔を寄せる。彼女もまた、同じようにカメラに顔を寄せているのだろう。
スピーカーから一瞬だけ聞こえるちゅっというリップ音。画面越しの擬似的なおはようのキスが、彼女の言う『いつもの』であり、俺達の朝の儀式みたいな物だった。
「おはよう、れいじ♡」
「ったく、もう少しぱっと起きてくれよ眠り姫」
彼女はベッドから起き上がると、全ての時計のアラームを解除し、シャワーでも浴びに行くのか、通話アプリを起動したまま部屋を後にした。すると、いつの間に部屋に潜り込んで居たのだろう。一匹の長毛で大きな猫。メイクーンと呼ばれる品種の猫が、愛理が残した温もりを求めてベッドの上へあがり、ゴロゴロと喉を鳴らしながらカメラの前に伏せるようにうずくまる。
「──ようヒメ。お前も二度寝か?」
こちらをチラリと見たヒメだったが、クールビューティーのテンプレみたいな猫は、俺には応えようともせず、つーんと目を閉じたまま、ゴロゴロと喉を鳴らしながら毛づくろいをはじめた。
「お前の主は極度の甘えん坊のクセに、お前は全ッ然媚びないよな」
俺はなんだか冷たくあしらわれた気分になり、カメラに向かって指をくるくると動かして見る。しかしヒメは、俺をチラリと見はしたものの、呆れたようにさらにそっぽを向く。この猫、実は中身人間なんじゃないか? 割とお高く止まったプライド高めな俺の嫌いな女みたいだ。この猫とはわかり合えそうに無い。
「あ、こらヒメちゃん。ベッドの上で毛づくろいしないでよ。また毛だらけになっちゃうじゃない」
戻ってきた愛理がヒメを抱き上げ、ベッドから下す。姫は『ニャー』と不満そうに声をあげるが、愛理は『も~』と言いながら、コロコロ(粘着ローラーというらしい)を転がして、ヒメの抜け毛を掃除する。画面にチラリと映るワイシャツの胸元に、思わず一瞬眠気が飛ぶ。しかし肝心な所で愛理は俺の視線に気が付き、タブレットを倒して、俺のタブレット画面は暗転する。
「もう! 何見てるのよ礼士!」
「にっしっしっしっし。愛理先生の素敵な胸元ぉ」
「あーやだやだ。礼士はきっと小学校の頃からそんな調子だったんだろうなぁ。女子のスカートめくりとかをニタニタしながらやるタイプの子でしょ。私のクラスにも居るわよ、そういう子。あの子もほっとくと礼士みたいなスケベに育つのかしら。小学校三年生のうちからそんなんじゃ、先が思いやられるわよねぇ」
「ああ、安心しろ。俺のスケベは幼稚園児からだ。ソイツ、もしかしたらまだ間に合うかもしれんぞ?」
「ほんとにサイテー」
愛理は暗転中もテキパキと準備を整えてゆく。タブレットをスタンドに戻す頃には着替え終わり、化粧をしたりなんなりして、最後にメガネをかければ、完全にお仕事モードである。
「じゃあ、行って来るわね。礼士、あなたも今日お休みだからってこの間みたいにお昼過ぎまでゴロゴロするような、自堕落な休日は過ごさないようにね」
「はーい、愛理先生。わかってまーす」
「ほんとにわかってるの? まぁいいわ。いってきます」
愛理はそのままバッグを肩にかけ、部屋を出ようとする。
「あ、おい愛理。忘れてるぞ?」
「むぅ、時間がないんだってばもぉ」
「はぁ? ルーティーン崩すと碌な事が無いって自分で言ってたクセに。嫌なら別に俺は構わないよ」
「……嫌とは言ってないもん」
愛理はタブレットを両手で持ち、少しむくれながら恥ずかしそうに目を閉じて画面に顔を近づける。だから俺も、同じように目を瞑り、画面に顔をくっつけてやった。
「いってら、愛理。今日はそっち雨降るらしいから、傘忘れるなよ」
「ふふっ。ありがと、礼士。いってくるね。じゃあ、また夜にね? ばいばーい♡」
アプリを終了する愛理。ようやく俺の部屋に静けさが戻る。
「さぁ二度寝だ二度寝~っと」
布団の中に再び戻る俺。目を瞑りまどろみへと身を投じようとしたその矢先だった。どたどたどたどたという重々しい足音のあとに、どっすんと俺の腹部に質量のある衝撃。
俺は白眼を剥いて飛び起きた。
「ごっほっ!? ……と~ら~ま~るぅぅぅぅ! お前またやりやがったな! このデブ猫ぉ!!!」
俺の腹の上にどっかりと居座る巨大な茶虎の猫。我が屋のワガママ大将、虎丸。ワガママなのは愛理のヒメに負けず劣らず。しかし優雅とは程遠いその体格。まさにワガママボディ。だが、そんなものは虎丸の数ある個性の一つに過ぎない。
まずはその厳つ過ぎる顔だ。元々野良の子猫だったこいつは、事故か、他の動物に襲われたのか、左目を失い瀕死の状態だった所を俺の母親に拾われた。その左目には深い傷跡が斜めに痛々しく残る。そしてもともと目つきが悪いのか、常に不機嫌に見えるその表情のせいで、まるで反社会勢力のボスような厳つい顔となってしまった。
……ならば虎丸は気性の荒い猫だと思うだろ? 違うんだなぁ……。
「グルルルルルル」
「──ほんと、怒ってるようにしか見えないんだよなぁ」
虎丸の個性その2。普通の猫のゴロゴロ音が太過ぎて怒ってるように聞こえる。ただし、態度はめっちゃ甘えてくる。頬を擦り寄せ、太鼓ッ腹を仰向けに晒し、『撫でて♡』と強請って来るのだ。
俺の腹の上で寛ぐこの虎丸こそ、俺と愛理を出会わせてくれた功労者だったりする。
三年前、当時この町で大学生だった愛理と、新米コックだった俺は、虎丸のおかげで出会う事が出来たのだ。
虎丸にはお気に入りスポットがある。それは、俺の家の門の柱の上だ。ブロック塀で囲まれた我が家の、新聞受けの真上に彼は寝転がり、近くの小学校へと向かう子供達を見守るのが、彼の日課となっている。
「あ、おやびん! おはようおやびん!」
「おやびーん! はい、今日の『しのぎ』です!」
「おやびん私もおやつもってきたよー!」
見るからに凶暴そうなそのヤクザ顔故に、ついたあだ名が「おやびん」。だが人懐っこさが幸い、いや災いして、小学生がちゅーるやら魚の切れ端を持ってきては献上し、片っ端からそれを平らげる虎丸。
結果、俺の腹筋に深刻なダメージを与えるレベルのメタボ猫へと成長し、親分の貫禄を欲しいままにした。ついには塀に直接ジャンプする事ができなくなり、母に適当なレンガを積み上げさせ、虎丸専用の階段を作らせる始末。
どうも、虎丸がいつもの定位置に居ない事を心配した小学生達が、『おやびんどうしたの? 病気なの?』と泣きそうな顔で尋ねて来るからだそうだ。
小学生に大人気のおやびんこと虎丸。そんな彼のファンの一人に、愛理の姉の娘、つまり姪っ子綾苺ちゃんが、ある日愛理の手を引いて俺の家の前へとやってきたのだ。
「ほらおねーちゃん! 言ったでしょ? おやびんだよ!」
「顔こわっ!? うわぁ、確かにこれは『おやびん』だね……。ねぇ綾苺、この子噛んだり引っ掻いたりしないの? ぱっと見、仁義にゃき戦いを生き抜いたってオーラ醸し出してるけど」
「ぜーんぜん? だっこもできるよ?」
そう言って、えさに釣られて地面に降り立った虎丸を抱きかかえ、びろーんと持ち上げる綾苺ちゃん。
「うん、噛まないのはわかったけど、抱っこは出来てないね。足ついたままだし……。まるでお餅みたいにびろーんてなってるよ」
何故こんな事を知ってるかって? 早朝からの仕事を終えてクタクタになって帰ってきた所に、このやりとりに遭遇したのだ。そして俺の家の玄関先で、楽しそうに姪っ子と話し込む彼女に目を奪われてしまい、ただそこに立ち尽くしてしまったのだ。
今思えば、あれは一目惚れという事象が現実に存在するのだと確信した瞬間だった。
そして情け無く立ち尽くした俺に気が付いた虎丸は、ここで家族にしか見せない第三の個性を発揮したのだ。
「モェ~~~~」
「「萌えっ!?」」
そう、猫の声は普通ニャアとかニャンが通説だろう。だが虎丸は、幼い頃の怪我の後遺症か、その貫禄たっぷりの恰幅のせいか、はたまた生まれつきなのか、異常に声が太い。結果、ニャーがモェーに聞こえてしまうのだ。
俺にボテボテと駆け寄る虎丸。そして俺のジーンズに首を擦り付けながらさらに……。
「ェモォィ♡ ぐるるるるるるるるる♡」
「「エモい!?」」
いやまぁ、俺の家に来た友達の反応はだいたいそれだよ。虎丸の外見からは想像出来ないようなみょうちくりんな鳴き声とそのギャップに腹を抱えて爆笑するのだ。
「……ただいまー虎丸。なんだ、お前今日も超大人気じゃんか。残念ながら今日はお土産はないぞ。どーせ今日も献上品たらふく食ってるんだろ?」
俺の足元にごろんと寝転がる虎丸。俺はそのぶよんぶよんの腹をぽんぽんと叩いてやる。
「ちがうよ? おにーさん。その子はおやびんだよ?」
「こ、こら綾苺。そ、そうじゃなくて……」
子供達の間では、おやびんがまかり通ってしまって、それがあだ名だという事を知らない子の方が多い。だからそういう子に対し、俺は虎丸を抱き上げ、そのでぶっとした体で顔を隠し、虎丸の言葉を代弁してやるのだ。
「我が名は火室虎丸。そしてこやつは飼い主の火室礼士。おやびんとはあだ名である。覚えておくがいいぞ、少女よ。今日もおいしいちゅーるを持ってきてくれてありがとう。美味であったモエ」
「……モェ」
迷惑そうに鳴き声を上げる虎丸。まるで「何をするのだご主人」と抗議しているかの如く、不機嫌なその声に、二人はどっと笑い出した。
「あはははは! おやびん嫌がってるよ?」
「声ッ……! 萌えって! エモいって! くふふふふふふっ」
「だーかーら、おやびんじゃないんだって。虎丸ってんだ。どうしても呼びたければ虎丸親分と呼んでやってくれ。なー虎丸?……お前、また重くなった?」
これが俺と愛理の出会いだった。その後、たまたま愛理がイタリアンレストラン&バーのウチの店に来たり、実は同い年で、俺の親友の彼女の友達が愛理だったりと、案外世間が狭く、ソレがきっかけで連絡先を交換し、色々やり取りしてるうちに、付き合う事になった。
しかし、愛理はシングルマザーの姉の家に居候していたのだが、その姉が再婚する事となり、祖母が体調を崩しはじめた事もあって、彼女は100キロも離れた実家へと戻る事となってしまった。
そこで別れるという選択肢を泣く泣く選ぶ人達も居るだろう。だが、俺は愛理を深く愛してしまっていた。そして愛理もまた、俺に泣きながら別れないで欲しいと、絞り出すような声で願いを口にしたのだ。
それからという物、俺達は出来る限りこうしてカメラ通話を繋ぎ、アプリをつけっぱなしにして共に眠りにつく。そんな毎日を繰り返してきた。だからって寂しくないかと言ったら、ソレは嘘になる。やはりこんな寒い朝は、彼女の温もりを求めたくなってしまうのだ。
「ェモィ」
「いやお前じゃねーよ。どっこもエモくねーよ」
そんな俺達に、あるちょっとした事件が起きる。それは、今日の夕方の事だ。
『○○県××市には、現在大雨洪水注意報が出されています。中継です──』
「あら? あそこって愛理ちゃんの実家の町よね? 愛理ちゃん大丈夫かしら」
「うーん。川からも山からも離れてる場所だし、多分大丈夫だとは思うけどな……。もう仕事終わってる頃だし、ちょっと連絡して見るか」
俺はLINEを開き、アニメキャラの『大丈夫か?』というスタンプを送って見た。するとすぐに既読になり『大変だよぉ!』という泣き顔のユーザースタンプが送られてきた。……まぁスタンプを選んで送る程度の余裕はある大変さなのだろう。『頑張れー』と、アンニュイなスタンプを選んで送信してやった。ソレが癪に触ったのか『ばーか』というスタンプがずらーっと連打される。
「うん。大丈夫だかーちゃん。あいつ『余裕』だってさ」
「そう。よかったわね」
「晩飯何にする?」
「アクアパッツァを所望するわシェフ♡」
「俺かよ……」
だがこの時、愛理は本当に大変だったのだ。
「……子猫を拾った?」
「ううん。助けてたのよ。大雨で水位が上がってきちゃってたでしょ? 生徒の一人が『子猫が橋の下に居る』って学校に戻ってきちゃってさ、私しか居なかったから、土手に降りて助けてたら泥だらけになって大変だったのよぉ」
「なんて危ない事するんだ馬鹿! 川に落ちてたら死んでたかも知れないんだぞ!」
「だ、大丈夫だよ! ちゃんと命綱つけてたし、あ、言ってなかったっけ? 私学生の時は山岳部に所属してて、ロッククライミングとかボルダリングとか結構──」
「そういう問題じゃない! 二度とそんな危ない真似しないでくれ! 生徒だってそれ真似したらどうするんだよ!」
思わず大声を出してしまう。愛理はしゅんと小さくなり、泣きそうな顔で小さく呟いた。
「ごめんなさい。軽率だった……」
「……わり。大声出しちまった」
「ううん、れーくんは正しいよ。ごめんね? そうだよね。きっとれーくんが同じ事してたら、私すごくれーくんの事怒ってたと思う。でも、この子独りぼっちで、震えて、小さく丸まってて、助けなきゃって思っちゃって……」
彼女の胸元には、小さな三毛猫が彼女の手に抱かれていて、スヤスヤと寝息を立てていた。
「──わかってくれりゃいいよ。ったく、無駄に体力ばっかり有り余ってんだもんな。体育教師かっつーの」
「──えへへ、中学校の先生だったら理科の先生してたと思いま~す……」
「理系の体力じゃねぇよ。断崖絶壁上ってく理系女子って何だよ」
ちょっと気まずい雰囲気が流れてしまって、いつも通りの俺達に戻れた矢先だった。またもやいつの間にか現れたヒメが、愛理の手に収まる子猫を見つめていた。──いや、訂正しよう。ヒメは子猫を睨み付けていた。その目には、明らかに強い殺気を孕んで居たのだ。
「ウ゛ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……」
虎丸とは明らかに違うその唸り声に、俺は危機感を覚える。あれは、猫が喧嘩を仕掛けるときの鳴き声だった。
「え? どうしたのヒメ」
「愛理! ヒメを子猫に近づけるな!」
愛理は子猫を布団の中へと隠し、ヒメに向かって大声をあげる。
「ヒメ! ダメ! 出て行きなさい! めっ!」
普段ヒメに対し大声なんて上げない愛理にびっくりしたのか、ヒメはビクッと体を強張らせ、部屋の外へと逃げ出して行った。
「びびびびびびっくりしたよぅ……。ヒメがあんな怖い声出すの初めて見たぁ」
「ヒメとの相性は最悪だな。早急に里親を探さないと、子猫が危ないぞ」
その時、俺は自分の口にしてしまった失言にはっとした。案の定、愛理の表情は恐怖に近い戸惑いの表情を浮かべ、小さく震えていた。
「ごめん……」
「ううん、大丈夫だよ? なんで礼士が謝るのよ。うん、今度こそ、今度こそちゃんといい人を見つけてあげるから……」
愛理は二年前。今回のように街中で猫を拾ってしまった。そして弱りきったその猫を必死に看病し、元気になった所で里親を探した。
里親はすぐに見つかった。
問題はその後だ。半年後、猫の里親となった男性が逮捕されたのだ。容疑は『動物虐待』。容疑者宅から保護された何匹もの猫は、どの猫も衰弱し切っていて、凄惨な状態だったという。
保護された猫の中に、愛理が助けた猫は、居なかった……。
愛理は自分を責め続けた。泣きながら猫に謝り続けていた。そんな愛理を、俺はただただ、抱きしめて慰める事しか出来なかったのだ。
「──愛理、ちょっと子猫をカメラに写しとけ」
「え? ちょ、れーくん? こ、こらタブレット持って階段降りるなぁ! 画面揺れて酔うから前止めてっていったじゃんもぉ!」
俺は階段を駆け下りて、一階のリビングで煎餅をかじる母へとタブレットの画面をつきつける。
「かーちゃん、この猫ウチで面倒見よう!」
「ほへ? あら愛理ちゃんこんばんは。やだ、なにその子。かわいい♡」
「こ、こんばんは咲良さん。えっと、今日弱ってる所を見つけて保護しちゃって……。でも、ちょっとヒメとの相性が最悪みたいで、ヒメ体おっきいから、襲われたらひとたまりも無いなって……」
母はボリボリと煎餅を平らげると、お茶をずずずとすすり、一息ついた。
「私はもちろんいいわよ? 礼士もちゃんと面倒みなさいね? あとは、ウチの親分がいいって言うかよねぇ」
母の視線は、親父がいつも座る席に向けられ、そこに居座る虎丸へと辿りつく。
「虎丸っ……!」
俺はごくりと息を飲んだ。なぜならば、小学生たちは虎丸をおやびんと親しみを篭めて呼ぶが、それは虎丸の表の顔に過ぎない。虎丸の裏の顔。それは近所の野良猫共を従えるほどの実力を持つ、まさに冗談抜きの親分猫なのだ。普段穏やかな虎丸と言えど、自分の縄張りである我が家の庭に侵入し、喧嘩を売ってくる野良猫に対しては、まさにその体格をフルに活用し徹底抗戦を決め込み、幾度と無く勝利して来た。そして気が付けば、虎丸は門の特等席というボスの玉座に君臨していたのだ。それを知る大人達は虎丸を『ビッグボス』と呼ぶ!
「虎ちゃん♡ どう? この子と一緒に住める? 家の子になるかもだから、虎ちゃんのお嫁さんになるのかしらねぇ? どう? どうかなー?」
まるでお見合い写真を見せるかのように、母はタブレットを俺から奪い取り、子猫をアップで虎に見せる。子猫は虎を見てちいさく可愛らしい声で『ミー』と鳴いてみせた。
すると、暫く子猫をじっと見つめた虎は……。
「……モェ」
と、太く響くようなごっつい声で鳴いた。
「気に入ったって♡」
「ぷっくっくっくっくっ! やっぱり虎ちゃん鳴き方変っ! 絶対萌えって言ってる!」
「だ、大丈夫かなぁ。言いだしっぺ俺だけど、なんか今更不安なんだけど。ほんと頼むぞビッグボス……」
その肝心のビッグボスこと虎丸も、どうやら上機嫌なのか、画面に写る子猫を見てグルルルルルと喉を鳴らしている。
「虎丸、威嚇してるようにしか見えないって。お前子猫の前でそれ絶対やるなよ?」
こうして、子猫はウチで引き取る事となった。まぁその後が大変だ。決まったと同時に、子猫を迎えるにあたって、愛理監修の元、大掃除を実施。俺の部屋の隅々まで愛理のチェックを受ける事に。
「さて、礼士。次はベッドの下よ」
「……今日はこれくらいでいいじゃんか。もう俺疲れたんだけど」
「……どうしてそんなテンプレな所に隠すかなぁ。さぁ、萌えないゴミは処分しないと♡」
「お許しを! どうかそれだけはお許しを!」
「いいえ許しません。出しなさい、全部よ。あ、この際だからPS4の動画配信サービスもチェックよ。もちろんパソコンやスマホもフィルターかけちゃうからね」
「もう猫関係ないじゃんか! エッチなコンテンツくらい大目に見ろよ!」
「あっはっはっはっは! れーくん焦りすぎぃ♡ 大丈夫、ベッドの下以外は冗談だから許してあげる♡ だからはやくベッドの下の物を破棄しなさい♡ さもないとほんとにペアレンツロックの刑よ♡」
「お前、絶対楽しんでるだけだろ!?」
「あはは、今更気が付いたの? もちろん、面白いからに決まってるじゃーん♡」
愛理はいつもこんな調子だ。俺を困らせ玩具にして遊ぶ。就職の際の面接の練習相手をした時ですら、「趣味は?」と問われて、「礼士を振り回す事」と応え、特技はと問われれば「礼士を困らせる事」と答えて「真面目にやらないなら練習つき合わない」と突き放せば「真面目に言ってるのに。大好きなんだもん仕方ないじゃん」なんて真顔で言って困らせてくる女だ。
「ふふふ、礼士は虎ちゃんと同じで、目つきが悪いせいで怖い人に思われがちだけど、ほんと、滅多な事じゃ怒らない優しい人だよね? からかうと全力で反応してくれるし、れーくんと居るとほんとに飽きないなぁ♡」
「そりゃどーも。で、お前どうやって猫連れて来るんだよ。まさか宅急便とか言わないよな」
「一応新幹線でそっちに行く事を予定してるよ。来月の三連休に休み入れておいてね? 暫く会えなかった分、いーっぱい礼士に甘えてやるぅ」
甘えてるのはいつもの事じゃないか。どうやら綾苺ちゃんの情報によると、愛理は学校では清く正しく凛とした先生として人気なのだそうだが、俺の前ではもうマタタビを与えられた猫の如く、甘えん坊で我侭な女となってしまう。もちろん、悪い気はしない。むしろ、こんな態度を見せるのが俺だけである事に優越感を覚えてしまうのだ。
その後も、通信対戦ゲームや同じ動画を見るなどして二人だけの時間を楽しんだ後、何時ものように通話を繋ぎっぱなしにして俺達は眠りにつく。
「……れーくん、起きてる?」
やっと眠りにつけると思ったその瞬間に、愛理は俺に声をかける。返事をしてしまったら今度はいつ眠れるかわかったもんじゃないので、俺は返事をせずに寝た振りを決め込む。
「寝ちゃったかな。ほら、見てごらん。この人は、君のご主人様になる人だよ。君はこれから、この人の家に行くの。この人はね、私の一番大好きな人なの。だから君がちょっと羨ましい。向こうで虎ちゃんと仲良くするんだよ? 礼士はスケベだから、浮気しない様に見張っててね? 素敵な名前、付けて貰ってね。れーくんを、よろしくね……」
目を閉じていて、その姿を確認する事は出来ないが、きっと愛理は子猫にタブレットの画面を見せながら子猫に囁いているのだろう。子猫がコロコロと気持ちよさそうに喉を鳴らしているのが聞こえてくる。
そうか、愛理のやつ名前まだ決めてないのか。愛理がさくっと決めてくれたほうが、愛理も呼ぶ時苦労しないだろうに。変なとこ律儀だよなぁ……。
その後も暫く、愛理は子猫に何かを囁きながらその小さな頭を撫でていたようだが、やがて小さな寝息を立てはじめる。俺もやっと静かになったので、睡魔に身を任せ、まどろみへと墜ちてゆくのだった。
―数日後―
現在午後20時。休日前特有の地獄のようなディナータイムを乗りきり、なんとか残業無しで俺はタイムカードを切って店を後にした。もちろんバーを兼ねた店の営業は午前1時ごろまで続くが、俺の今日のシフトは20時までとなっている。明日は愛理が子猫を連れてこの町にやってくる。久しぶりに直接会える嬉しさで、足取りも軽くなるというものだ。
そんな時だ。俺が何の気なしにスマホをポケットから取り出した瞬間、着信音が鳴り響き、画面には『愛理』ではなく『露木』の文字。小学校時代からの幼馴染、『露木獅子』からの着信だった。
「おう、レオ。久しぶりだな。どした?」
「おうレイジぃ! 突然なんだけどさ、今夜空いてるか? 一人面子たりねーんだわ。久しぶりにどうよ?」
「麻雀かぁ。どーしよっかなぁ。空いてない訳じゃないけど、明日彼女来るんだよね。ちなみに面子は?」
「他の面子は弓塚と竜一。ホントは竜一が蓮沼誘ったんだけど、蓮沼インフルでぶっ倒れてるらしい」
「あの風邪を引いた事がないと豪語する紅介がインフルとな。やはりインフル恐るべし……」
なるほど、妙にハイスペックなギャンブル運の持ち主『一撃の紅介』が来ないとなると、俺に大分有利な面子かも知れん。愛理が来るのは午後だし、4時くらいに家に帰って一眠りすれば丁度いいかもな。
「どうする? レイジ来る?」
「ま、久しぶりだしな。デート代稼がせて貰うわ」
「はぁ? あったま来た! てめーすっからかんにしてやっから覚悟しろ!」
そんなこんなで友人の誘いに乗り、地元の雀荘へと足を伸ばす俺。そこから4時には帰るつもりが、「勝ち逃げは許さん」と『鳴きの弓塚』が言い出し、『白竜』こと竜一もそれに同調。そうそう、白竜とは、竜一の白が手元に2枚揃ったらとりあえず誰かが白を棄てると必ずポンをする妙なクセを見抜かれ、白竜と呼ばれるようになった。結果、もう一勝負となり、我らが愛すべき『チョンボレオ』が最後の最後でやらかしてハコテン。結果お開きとなる。
「くっそー! 眠気に負けたぁ!」
「だから3時の時点でそろそろお開きにするかつったじゃないか。いい加減捨て牌くらい確認してリーチかけろよチョンボレオ」
「しっかしレイジは相変わらずドラを最後まで手放さないよね。裏ドラ乗っかってドラ4とかホントムカついたよ。流石『ドラマニア』」
「お前の鳴きまくった挙句の最後の一枚、単騎アタマ待ちにはクソ笑ったよ弓っち。あんな汚い手使うくらいならチートイのほうがよっぽど綺麗だ。しかも待ちが白ってなんだよ。竜一が手放すわけないだろ?」
「ふっふっふ、ちゃんと持ってたぜ! 白っ!」
「流局するまで後生大事に持ってんだもんな、1枚だけなのに。流石にアレには呆れるぜ。なぁレイジ?」
「全くだ。俺なんて早々に捨てたよ。お前が欲しがるから」
「くっそう! あのウーピンさえ来てれば俺だって白でテンパってたのに!
「どっちにしろお互い最後の一枚が白じゃ上がれないじゃん。馬鹿なの?」
「へっへーんだ。テンパっておいてフリテン決めるチョンボレオに言われたくありませーん」
「うるせーやい」
反省会をしながら、俺達はまだ暗い夜明け前の商店街を歩く。時折吹き抜ける風が、耳を凍てつかせる。並んで家路につく風景が、ふと学生時代と重なる。そんなどこか懐かしくもあり、なぜか寂しくもなるような不思議な感覚を覚えながら、商店街を抜けた所でそれぞれの家路を辿るべく、俺達は解散した。そして朝日が俺の部屋をオレンジ色に染める頃、雨戸のシャッターを下して、俺はそのままベッドに沈むように眠りにつくのだった。
『ヴゥゥゥゥゥゥン……。ヴゥゥゥゥゥゥゥン……。ヴゥゥゥゥゥゥゥン……』
「ん……。ん゛ん~~~~???」
スマホのバイブ音で俺はうっすらと覚醒するが、体が鉛のように重たい。指一本たりとも動かしたくない。俺はまだ寝て居たいのだ。
「礼士! ちょっと礼士! 今すぐ降りてきて! 起きなさい礼士!」
なんだよかーちゃんまで。一体何事だ……。愛理が来たならさっさと上げちまえよ。起こすなら愛理を寄越してくれ。
「……虎ちゃんGO! タイガーミサイルよ!」
「モェ!」
ドテドテドテドテと階段を上る音がする。ん? 虎丸? なんで虎丸?
なんて寝ぼけ頭で疑問に思ったその一瞬が良くなかった。虎丸は俺の部屋の扉を器用に開けて侵入したのだろう。そして、俺の机へよじ登り、そのままベッドに横たわる俺の腹部へ向かって……。
「ぐっほっ!? げっほげっほ……! うぅぅぅぅ! とぉらぁまぁるぅ~~~!」
ダイブした。体重12kgという猫に有るまじきその質量が、俺の一切鍛えられていない軟弱な腹筋を粉砕した。
「な、何事だ……。今何時だぁ?」
スマホを確認すると、時刻は午後1時半。たしかにそろそろ愛理が到着する時間ではあるが……。起こされるなら愛理に優しく起こして貰いたかった。ってか、その愛理からラインに『おーい』ってスタンプが連打されてる。着信は10件? なんかあったのか? 書け直して見るか……。
「礼士! ちょっと早く降りてきなさい! 礼士! すみませんねぇ、なんだかあの子ったら、朝まで友達と遊んで居たらしくて。全く社会人にもなってだらしがなくて本当に申し訳ございません!」
「あ、いえいえお構いなく。しょうがないですよ、突然お邪魔してしまっているのはこちらですから」
なんか下がどうやらそれどころじゃないらしい。そして聞いた事のない声がする辺り、どうやら客が来ていると見た。声の主は、男だな。仕方ない、愛理はひとまず保留だ……。
俺は重い体を起こし、ベッドで寛ごうとする虎丸を脇に抱え階段を降りる。すると玄関には、困惑した表情を浮かべた母と、細身のサラリーマン風の男性。そして男性の手には、猫用のケージが……。
「礼士、あんたにお客様よ……。もう、かーさんノーメイクで恥ずかしいッたらないわ!」
「いやぁ、申し訳ない。娘にはちゃんと連絡してくれとお願いしておいたのですが……」
「そうよ礼士! 愛理ちゃんから連絡来てるんでしょ?」
「え? すんません、ちょっと状況掴めてないです。……え、娘?」
困惑して、寝癖ボーボーのスエット姿の俺に、その男性は苦笑いを浮かべながら挨拶をしてくれた。
「はじめまして、火室礼士君。ぼくは姫川透。娘の愛理が大変お世話になってます」
俺はその衝撃のあまり、脇に抱えた虎丸を落してしまうが、虎丸は見事に廊下に着地し、俺に衝撃を与えた客人を見上げた。
「ああ、君が虎丸親分だね。いやぁ、男前だなぁ。かっこいいなぁかわいいなぁ」
―5分後―
「ど、どういう事だよ愛理!? ってかお前大丈夫なのか!?」
とりあえず髪だけでも何とかしようと、俺は洗面所へ逃げ込み、頭にお湯をぶっかけつつスマホを確認した。愛理の寄越した最初のメッセージには、『生徒からインフルもらっちゃった。行けなくなった』とのこと。あとはひたすらおーいというスタンプと着信履歴だけがずらーっと残っていたのだ。そして今、やっと通話が繋がった。
「れーくんのばかっ! はぁはぁ、人がつらい体推して連絡してるのにっ! だめだったから連絡してて、パパが丁度出張でそっちに4日ほど行くからって子猫届けてくれる事になったのよ。はぁはぁ。昨日から連絡してるのに、どこで何してたのよ! はぁはぁ、女の子と一緒だったら殺す」
「れ、レオ達と麻雀してたんだよ。コートのポケットにスマホ入れっぱなしで気付かなかった」
「……人が高熱と四肢の痛みに苦しんでいる時にっ! 夜遊びとかっ! 死んじゃえばイイと思うなっ! はぁはぁ」
次会った時、ほんとに殺されそうだな俺……。
「……なるほど、状況はわかったよ。お大事にな」
「……しんどい。切る」
それだけ言って、通話は途切れた。俺はタオルでガジガジと頭を拭いて、櫛で髪形を整えて、愛理と母の待つ居間へと向かう。
「あら、やっぱりお父さんも猫派ですか!」
「ええ、そうなんですよ。愛理とその姉の愛奈もその影響で猫好きでして、一家全員猫派です」
「うちは私が猫派。旦那が犬派で、礼士は犬も猫も昔から大好きな子に育ちましたわ! そうそう、愛理ちゃんからヒメちゃんの写真を見せて貰いましたけど、なんていうか育ちの良さが溢れ出てますよね! うちの虎ちゃんなんてもう、目つきばっかり礼士そっくりで、お饅頭みたいにまんまるに育っちゃってもぅ……」
「いいじゃないですかぁ。ぼくは虎丸君好きだなぁ! 孫の綾苺が言ってましたよ、通学路に皆を見守ってくれる『おやびん』が居るって。なんでも、『露出狂が学校の辺りをウロウロしてて、上級生に悪さをしようとした所に、『おやびん』が降って来てやっつけてくれた』と聞いてますよ」
「「嘘ぉ!?」」
いや、確かに数年前ここらへんで露出狂がウロウロしてると注意喚起があった時期があった。たしかにその頃から、見た目の凶悪さから恐れられていた虎丸が、『おやびん』と呼ばれ始めたような気もする。まさか虎丸が俺達の知らない所でそんな事をしていたとはっ!
「はっはっは。さっきのタイガーミサイル強烈そうだったもんなぁ? あれは痴漢もきっと一溜まりもなかっただろうね! 礼士君のうめき声が下まで聞こえて来たし!」
「オホホホホホ。虎丸の数少ない芸の一つが、人様の役に立つことがあるなんてねぇ。礼士を起こす事意外に使った事がなかったわ」
「あんたが仕込んでたんかい!!!」
鉄砲玉ならぬ砲弾猫虎丸はというと、どうやら愛理の父が連れてきた子猫に興味津々と言った感じで、ケージに顔をくっつけて中の様子を窺っている。子猫が虎丸を怖がるのではと思ったが、子猫もまた、虎丸を気に入ったのか、ニャーと可愛らしい声を上げて、ケージの扉を前足でカリカリと引っかいて外に出たそうな素振りを見せていた。
「……この様子なら安心だね。ケージから出してあげてもいいですかね」
「ええ、もちろん」
母の承諾も得られ、ついに子猫のケージの扉は開けられた。すると子猫は元気良く中から出て来て、即座に虎丸に擦り寄って行く。虎丸は流石は親分と言った感じで、飛び掛ってきた子猫を難なくその体で受け止め、匂いを嗅いだり、鼻をくっつけたり、尻尾で遊んであげたりと、甲斐甲斐しく面倒を見てやっていた。
「そうだ礼士。この子の名前決めてあるの?」
「ああ。フェリシアにしようと思ってるんだ。昨日麻雀しながらレオ達と相談してたんだよ。こいつ三毛猫だから、なんか招き猫みたいだろ? 「幸運にちなんだ名前にしたらどう?」って弓っちが言い出して、すぐに思いついたのが、フェリーチェ。イタリア語で幸福を意味する言葉だったんだけど、竜一が「それは確か男性名詞つって男の名前じゃなかったか?」って話になって、調べたらその通りでさ。そしたらレオが「確かスパイダーマンに出てくるキャットウーマンの本名がフェリシアだったよ」と付け足し、「あとバンパイアハンターのキャラに猫型の獣人の女キャラがフェリシアだった筈」と竜一が思い出して、満場一致でフェリシアになった」
「なるほど、フェリシアか。青い綺麗な花の名前だったよね。うん、名前も似てるし、愛理も気にいるはずだ。礼士君、セーフ!」
「え、セーフって?」
「うん。愛理が『礼士が元カノっぽい名前をつけた素振りを見せたらすぐに知らせて』って言ってたから! はっはっは、すっかり娘に愛されてしまってるね!」
愛理の奴。実の父親にそんな事させてたのかよ……。
「……我侭で、甘ったれで、本当に困った子だろう? 礼士君も大変じゃないかな」
「ははは。正直に言っちゃうと、もう慣れちゃいました……。なかなかご挨拶に窺えなくて申し訳ないです。お姉さんとお孫さんには何度かお会いしてるんですが……」
「……孫も上の子も、君をすごく気に入ってたよ。君が以前、彼女らの家でクリスマスパーティを開いた時に、手作りケーキや手作りのピザ。そして愛理だけでなく綾苺と愛奈のクリスマスプレゼントまで用意してくれただろう? 3人とも頼んでも居ないのにそこまでしてくれる君を、とても気に入っているようだ。綾苺なんて特に、誕生日ケーキはれーじお兄ちゃんのケーキがいいと、毎年リクエストしてた見たいじゃないか。送られてきた写真のあのイチゴの薔薇ケーキは見事な物だったよ」
アレは大変だった。まぁ、店で『インスタ栄えするドルチェ』ということで、薔薇のブーケタルトとかいうイチゴの薔薇でタルトを埋め尽くすというメニューのために、スタッフ総出でイチゴの飾り切りを練習したものを転用したケーキではあったが、綾苺ちゃんが喜んでくれて、本当に良かった。だが大変だったのはそこじゃない。愛理が綾苺ちゃんに嫉妬して、愛理に足の甲をずっとグリグリと踵で踏みつけられ続けたのが大変だったのだ。姪っ子に妬くなよ叔母さんと言ってやりたかったが、命が惜しくて口が裂けても言えなかった。
「やですわもぉ。この子見栄ばっかり張るもんだから!」
ばっしんばっしんと俺の背中をなぜか叩き続けるかーちゃん。
「ってーな!『れーじお兄ちゃんに誕生日ケーキつくってもらいたい』だなんてリクエスト受けて燃えないコックが居たらそいつコックじゃねーよ!」
そんな俺を見て、彼は優しく微笑んだ。
「君のそう言う所を、きっと愛理は好きになったんだと思うよ。愛理の事を気遣って、君はフェリシアの里親になる事を即決してくれたよね。君になら、愛理の事も、フェリシアの事も安心して任せられる。すごく面倒な子だとは思うけど、愛理の事をよろしく頼むよ」
「……はい、義父さ」
「モギャア!?」
唐突に虎丸の悲鳴にも似た奇声に、俺達はびっくりしてしまう。見れば、フェリシアが虎丸の尻尾の先にガブリと噛み付き、虎丸は思わずその痛みに声をあげてしまったのだろう。しかし虎丸はフェリシアに襲いかかったりはせず、前足でその小さな額をぺしぺしと叩き、「離せ!」と訴えるだけだった。うちのビッグボスに声を上げさせるとは、なかなかお転婆娘だな、フェリシア。
「ははは。虎丸親分も、フェリシアをどうぞよろしくお願いします」
その後、義父さんは『長居しても悪いから』とホテルへ帰ってしまい、クスリを飲んで少し症状が落ち着いてきた愛理と通話が繋がった。
「そっか、フェリシアかぁ。もー、れーくんってば私に似た名前を猫につけて、毎晩一緒に寝るつもりね? へんたーい♡」
「……随分余裕出てきたじゃないか。熱は?」
「今38度丁度かなぁ。さっきまで39,4℃あって辛かったけど、少し楽になって来たよ。ふふふ、フェリシア、いい名前つけてもらってよかったね」
フェリシアは、画面に写る辛そうな愛理を心配してか、小さな前足でタブレットに触れる。残念ながら、その姿はカメラの位置からして、愛理には上手く写ってないようだ。
「フェリシアが、画面に写るお前のほっぺたに触れようと頑張ってるよ。フェリシアも心配してるから、早く元気になってくれよな」
「ふふふ、ありがとね、フェリシア。聞いたよ? 虎ちゃんの尻尾噛付いてびっくりさせちゃったんだって? あんまり悪戯しちゃダメよ? 虎ちゃんが怒るときっとヒメの比じゃないんだからね。あーあ。ねぇ礼士、やっぱり直接会いたいよぅ」
「コックがインフルエンザなんて掛ったら一発アウトに決まってるだろ。俺だって会いたいよ。でもさ、あと一年だけ我慢してくれよ」
「え?」
もうそろそろ、ちゃんと伝えてやるべきだろう。こんな画面越しの関係は、俺だって限界なんだ。
「もう一年今の店で修行したら、俺そっちで小さくても自分の店を持とうと思うんだ。そしたら、一緒に暮らそう。まずは同棲からって事で、店が落ち着いたら、その後も検討ってことでどーよ」
愛理は鳩が豆鉄砲を食らったかのように、目を丸くしていたが、やがてゆっくりと目を閉じて呟くように返事をくれた。
「そうね、ちゃんとフェリシアと虎ちゃんと一緒に、手土産に婚約指輪を持ってきてくれたら、考えてあげようかな……」
―それから数年後―
「礼愛ー?。そろそろパパを起こしてあげて♡」
「はーい! 行くよ、フェリシア、虎丸―」
複数の足跡が騒がしく階段を駆け上がってくる。マズイ。非常にマズイ。だが体が鉛のように重たい。いいや、動け! 動くんだ俺の体! 親父の意地を見せてやれ!!!
「パパおきろー! 必殺トリプルタイガーミサーーーイル!」
「そんな致死レベルの攻撃を毎朝喰らってられるか!」
俺は一人と二匹を掛け布団で包み込み捕まえてやる。
「くぉら礼愛。パパは優しく起こせと何度教えれば実践してくれるんだ!? 虎丸ももう爺ちゃんなんだから無茶するんじゃねーよ! フェリシアドサクサにまぎれて引っかくな!」
「きゃははは♡ パパおはよー! 朝ごはんできてるよ!」
俺達の間には、愛理そっくりの娘が一人生まれ、そして愛理のお腹には、先月新たな命が宿っていることがわかった。それが礼愛の弟になるのか、妹になるのかはまだ判らない。
「ねぇねぇ、トリプルの次はなにー?」
「クアドラ……だめ。絶対ダメだぞ。パパそれだけは絶対に許さない」
「え~? パパが腹筋鍛えれば解決だよってママ言ってたよ?」
「しません。寝てる人間は防御力ゼロだから絶対ダメ。モンハンも寝かさないと爆弾置かないだろ? ほら、着替えておいで」
「は~い」
礼愛とフェリシアが元気良く部屋を出て行くのに対し、虎丸はどこか疲れた様子で、俺の寝ていたベッドへとうずくまる。俺は以前のように虎丸を抱えたりはせずに、その以前よりも少し曲がったように思える背中を撫ぜてやる。
「……老けちまったなぁ、虎丸」
その姿からは、以前のような堂々たる威厳にも似たオーラは感じられなくなって居たが、依然虎丸は虎丸だった。礼愛が中学校に上がるまでには、虎丸は天国へと旅立ってしまうだろう。だが、礼愛や生まれてくる子供は、きっと虎丸のおかげで、命の大切さや、家族の大切さを学ぶのだと俺は思う。
虎丸は、いつもの様に玄関先の門の上に座り、フェリシアもその隣で寝そべる。二匹は仲良く、礼愛と学校へと向かう子供達を見守り続けている。
「おはようおやびん! ふぇーちゃん! 礼愛ちゃーん、一緒に学校いこー!」
「おはよー! 行って来るね、虎丸、フェリシア! 二人ともいい子にしてるのよ!」
礼愛と一緒に手を繋いで歩く女の子もまた、虎丸とフェリシアが紡いでくれた縁なのだと愛理は言う。これからもきっと、虎丸はいろんな縁を紡ぎ続けるのだろう。その強烈すぎる個性をもって、生きている限り。
「じゃ、俺も行って来るわ」
「行ってらっしゃい、パパ♡」
「にゃーん」
「モェー」
やっぱ最後の『萌え』で、気合が抜けちまうぜ……。
END