空を飛ぶ
日曜の夕方、加奈子の長い昼寝は、妹の琴子による突然の電話で妨げられた。加奈子はぼんやりした頭で電話に出た。電話口の琴子の声は興奮していた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!もしもし!」
「…なに?どうしたの?」
三十にもなって、女子高生のようにここまで盛り上がって電話をかけてくるというのはどうなのだろう。姉として、多少不安になる。だが琴子は、そんな加奈子の心中などおかまいなしにまくしたてた。
「ねえ、さっきお母さんから聞いたんだけどさ。お姉ちゃん、小さい時に箒で飛べたんだって?」
お姉ちゃん、すごいじゃん。どうやったの?
今も飛べる?
でもなんで飛べなくなったわけ?それとも、飛ばなくなったの?
ねえどうして私に黙ってたの?
答える暇もなく矢継ぎ早に質問が飛んでくる。寝ていたところを叩き起こされたばかりか、滝のような質問責めに合うとは。しかもはるか昔のことで。加奈子は途方に暮れて、窓の外に目をやった。
確かに、かつて私は飛ぶことが出来た。だがそれも、小学校に上がるあたりでぱったり終わりになってしまった。私は飛ばなくなったのだ。それで終わったはずだった。
加奈子は首をかしげた。なぜ母は、いまさらそんな話を琴子相手に持ち出したのだろう?
そして、琴子がちょうど先月から出産で里帰りをしていたことに思い当たった。
(あ…そういうことか)
おそらく、母は産まれてくる子供が、もしかしたらそういうふうになる可能性があるかもしれないと懸念したのだろう。「そういうふう」とは、空を飛ぶだけではなくその他いろいろ含めての「そういうふう」である。そしてあらかじめ、何があっても良いように、琴子に心の準備をしてもらうつもりで明かしたのだろう。
ところが琴子はそうした母の気持ちなど汲まず、どうやらかつて飛べたらしい姉への好奇心を全開に、電話で突撃してきたのだ。加奈子は頭が重くなった。
窓の向こうにどこまでも広がる灰色の空は、明日からまた一週間が始まるという気の重さをそのまま表しているようだった。ここ数日で急に涼しくなった風の中に、早くも秋の匂いがまじっていた。
飛べるといっても、鳥のように空を飛べるわけではなかった。例えれば、それは自転車に乗る感覚に近かった。
幼稚園に上がったばかりのある日、加奈子は庭にほっぽり出されていた落ち葉掃きの箒になんとなくまたがり、自転車に乗る時のように軽く地面を蹴ってみた。すると、足元が三十センチほど浮き上がり、すうっと前に滑るようにして進んだ。ジャンプが柔らかく長引いたような感じで、庭の壁の前で地面に下りた。
(今、私、飛んだ?)
もう一度、同じように試してみる。加奈子は地面から浮き上がり、ジャンプと飛行が混じり合ったような浮遊感にわくわくしながら、金木犀の垣根にやわらかくぶつかった。
飛ぶというのは、こういうことかと思った。いざ飛んでみると意外とあっけなく、なんだか拍子抜けした。加奈子はそれからしばらく、縁側を下りては落ち葉掃きの箒にまたがり、ささやかな飛行を一人で楽しんでいた。
ある日、祖母と買い物に行こうと玄関を出ると、いつもは庭に置かれてある箒がたまたま家の門に立てかけたままになっていた。ちょうどいいわ、と加奈子は考えた。おばあちゃんに、私が飛べるところを見せてあげよう。
「おばあちゃん、ねえ、見ててね!」
加奈子はそういうと走り出し、箒をつかんでまたがった。そしてとぴょんと地面を蹴り、三十センチほどの高さで家の前から次の曲がり角まで飛んでいった。
とん、と得意げに足をつき、さっそく褒めてもらおうと祖母を振り返った。すると普段から足腰が弱く杖なしでは歩けないはずの祖母が杖を放り投げ、ものすごい勢いで孫めがけて走ってきた。加奈子はここまで祖母が機敏に動けるとは思わず、口をあんぐりと開けてその場に固まった。そして取りすがってきた祖母に恐ろしいほどの力でぐいぐいと腕を引かれ、家に連れ戻された。
その後、父と母と祖母が何を話したのか、加奈子は知らない。覚えているのは、また別の日、父と母の見ている前で、庭で飛んで見せたことだけだ。そしてそれを最後に、加奈子は誰に言われるでもなく、箒で飛ぶことから遠ざかっていった。祖母の取り乱しようと、目を丸くして顔色と言葉を失った両親を見て、幼い心に罪悪感が芽生えたのだ。そして、これはなんとなくしない方がいいことのように思われたのだった。
小学校を卒業する春、加奈子は家に誰もいない日に、こっそりと庭で箒にまたがってみた。思っていた通り、飛べなくなっていた。仕方ないよな、と加奈子は心の中で自分をなぐさめた。飛ばなくなってから、もう長いこと経つ。それに、たとえ飛べたところでどこに行けるわけでもないのだ。飛べたところで、何が変わるという話でもないのだ。
しかし、はたして本当にそうだろうか?加奈子は電話の向こうでぺらぺらとしゃべり続ける琴子の話を聞き流しながら、心の中で自問した。もし、これから生まれてくる甥だか姪だかが、ある日突然飛べるようになったとして、自分は同じ言葉をかけてやれるだろうか?
でも、飛べたってしょうがないからね。飛んだって、どこにも行けないよ。
絶対に嫌だと思った。まだ小さな子供にむかって、そんな言葉をかける大人では、ありたくなかった。
加奈子はため息をついた。今回、姉がかつて飛べたという事実を琴子が知った以上、これから産まれてくる子供が将来飛ぶようにでもなった場合、真っ先に加奈子に相談してくるに違いなかった。もしかして、それが「飛ぶ」以外のことだったとしても。これから先、一体何が起こるのだろう。楽しみなようでもあり、気がかりでもあった。自分はその甥あるいは姪にかける言葉など、今のところ何一つ持っていないのだ。
琴子は相変わらず、ああだこうだと姉を質問攻めにしては一人で盛り上がっていた。たっぷり一時間も経った頃、ようやく電話を切るという段になって、ふと琴子が真面目な声になった。
「あのさ、この電話かけた時、お姉ちゃん寝てたでしょ」
「…寝てないけど?」
加奈子は憮然としながらも、妹に対して最大限の見栄を張った。