お母さんが死んじゃった
「お母さん、死んじゃったって」
その日の朝、二階にあるトイレの中で聞いた、大きくも小さくも無い、一階から聞こえた夫のよく通る声が、今でも耳から離れない。
一瞬、何かの冗談かと思った。
思考が停止したのだ。
でも、すぐに家から夫が飛び出す音が聞こえたので、私も慌ててトイレから出た。
心臓が早鐘をうち、口からは「ウソ、ウソ……」と出ていた。
同じ敷地内にある、隣の家の実家は徒歩十歩程。
そこを駆けて実家に入り、玄関のすぐ横にある和室に入った。
母は父とは別に寝室を分け、いつもそこに寝ていたのだ。
まず目に飛び込んできたのは、ベッドに横たわる母の体に心臓マッサージを施している父の姿だった。
一瞬固まった。脳内で色々な処理が追いついていないのだ。
でもすぐに父が心臓マッサージを止め、母にすがりついたので、咄嗟に「やめないでよ!」と言った。
父は心臓マッサージを再開したが、押す箇所が少し違っていたので「場所が違う!代わる!」と言って父をどかせた。
私は数十年前に習ったうろ覚えの心臓マッサージを始めた。
この時、初めて母の顔を見た。
目は閉じられ、眠っているようだったが、鼻と口からは真っ黒な液体が垂れ出ていた。
吐瀉物なのか、血だったのかはわからない。
心臓マッサージをしながら、それらが出てきて、母が呼吸を取り戻すのを願った。
でも、胸を押す度に感じるのは、冷たく固くなった母の体だ。
「戻って!ダメだよ!」って、何度か叫んだのは覚えてる。
吐瀉物を口から出さねばと思いたち、口に指をかけるも、固くて開かない。
ここで私は、あ、もうダメだと思った。
よく見ると、母の体は死後硬直で固まり、腕には死斑という痣のようなものが出ていた。
母から離れた私は、廊下に呆然と立っていた父に「もう、ダメだね」と言い、吐瀉物のついた手を洗いにキッチンに向かった。
和室に戻る時にようや夫の存在に気づいた。
どうやら救急車を呼んでくれていたらしい。
でも私は夫に「もうダメだよ。死んでからだいぶ経ってる」と言った。
それから再び和室に入ると、父はまた母にすがりついて泣いていた。
父の背中が、やたら小さく見えた。
私もベッドに腰掛け、母の顔を見た。
この時の母の顔、すがる父の背中、これはずっと脳裏に刻まれる事になり、なかなか離れてはくれなかった。
言葉は出なかった。ただ、ポロポロと涙が出た。
ふと、自分が人に会うには適していない格好である事に気づき、救急車に乗るならば着替えなくてはと思った。
それと、少し離れた場所に住む妹にも電話をしなければと思っていたので、一度自分の家に戻った。
妹にはなかなか電話が通じず、結局その時には通じなかった為、諦めて着替え、貴重品等を小さいバッグに入れて持ち、また実家に戻って和室に入った。
まだすがっている父に「救急車乗るんだから、お父さんも着替えてきなよ」と言った。
父は言われたとおりに着替えにいった。
再び母のベッドに腰掛けた私は、母の体に触れた。
冷たくて固い。もう、この体の中に、母はいないのかもしれないが、それでも声をかけずにはいられなかった。
「ごめん。孫見せてやれなくて、ごめんね」
それを聞いた、旦那がたまらず嗚咽をもらして泣いた。
私は誰かにすがりついて泣く事も、感情のままに泣きわめく事もせず、ただ涙をポロポロ流すだけだった。
そのまま、母の横に座りながら、私はとりあえず伝えなくてはと思い、母の兄である、私からすると叔父に電話をかけた。
滅多にかけない叔父への電話に多少緊張したが、叔父はすぐに電話に出てくれた。
なんて言おうかと思ったが「お母さんが、死んじゃったの」とそのまま言った。
叔父も少し戸惑っていたようだが、冷静に話が出来、私は周りに伝えて欲しいと頼んだ。
叔父はわかったと言ってくれ、そちらに行こうか?とも言ってくれたが、来てもらってもする事は無いだろうと判断し、それは断った。
次に、母と私と懇意にしていた、名前上の関係は無い、元叔母に電話をした。
夜の仕事をしている叔母が、朝方に電話に出てくれるか不安だったが、叔母も電話に出てくれた。
叔母にもそのまま伝えた。戸惑い、言葉を失っていた叔母も、こちらに来てくれようとしたが、それも断った。また連絡するとだけ言い、電話を切った。
それから母の友人など何人かに電話をした。
だが肝心の妹に電話が通じず、夫にそれを伝えると、夫が妹にずっと電話をかけてくれた。
自分の仕事先のLINEグループにも連絡すると、暖かいお悔やみの声がすぐに返ってきた。
店に連絡しておきますとも返してくれ、一件一件返す事が出来ないのがもどかしかった。
少しすると、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきたので、夫は表に出て誘導した。
機材を持った救急隊員が数名入ってきて、そのうちの一人が発見時の母の様子を父に聞いていた。
母を見ていた隊員は、わりとすぐに出てきた。
「亡くなってからだいぶ経っていますね。死斑も出ています」
「病院に運んでも、病院で出来る事はあまりありません。ここで、死亡確認だけおこない、あとは警察にお任せしますが、よろしいですか?」
確かこんなような事を言っていた。
その言葉に納得し、私達は出ていった隊員たちにありがとうございましたと言い、見送った。
すぐに警察も来たので、また発見した時の母の様子、前日の様子、思い当たる死因、母の名前や生年月日、年齢、自分たちの名前や生年月日などを何人かに繰り返し話した。
何度も言わされる事に多少腹がたった。
だが、自宅で亡くなっている以上、彼らは事件性を疑わなくてはならないのだ。
我慢して聞かれた質問に答え続けた。
金銭は取られていないか、服用していた薬はどんなものかなどだ。
前日からの母の様子はこうだ。
前日の日曜日の夕方、母と私と夫で、車で行ける距離にあるお祭りに行こうとしていた。
毎年楽しみにしている、小さな祭りだ。
車に乗り、母と会話していると、母は昼頃風呂で溺れかけたと話した。
足が悪く、薬も多数飲んでいた母は、よく目眩を起こして倒れていた。
それこそ、またかよ、という程に。
そしてその日も風呂でこけ、浴槽のへりに脇腹をぶつけた母は、そのまま頭から浴槽に突っ込み、溺れかけたそうだ。
ぶつけた後に、父にもそこは確認してもらったらしい。
父も、腫れていないようだったので折れてはいないだろうと判断し、その場では特に何もせずに出掛けていったそうだ。
私は聞き慣れた内容に「全く!気をつけなよ!」とだけ言った。
脇腹が痛いままだと母が言ったので、あまり痛いようだったら、病院に連れて行くよとも言ったが、母はそれを断った。
この時、夫は嫌な予感がしたそうだ。
自身も若い時に母親を亡くしている為、何となくそんな気がしたのだろう。
「ホント、言ってくださいよ。救急でも何でも連れて行きますから」と言ってくれた。
母も、わかったよと言い、そのまま祭りへと向かった。
だが、祭り会場の駐車場が空いていなく、遠くにある駐車場しか空いていなかった。
足が悪い母は歩く自信が無いと言ったので、仕方なく祭りは諦めた。
結局夕飯時だったということもあり、某チェーンレストランで食事をする事になった。
普段夕飯はあまり食べない母だが、リゾットを注文し、それを全部食べた。
「よく食べたじゃん、えらいえらい」と、子供に言うように褒めた。それ程までに、普段母は物をほとんど食べなかったのだ。
だから、何か物を食べる母の様子を見ると、安心したし、嬉しかった。
帰り道のコンビニで、変な味のチョコを買って三人で食べ「まずい」「私はいけるよー」とか言って笑って帰った。
そして家につくと、母は車からゆっくりと降りていた。
母はいつもおばあちゃんのように動きがゆっくりで、それも見慣れた光景だった。
もちろん、必要な時には手を貸すが、今は手を貸すような事では無いと思った。
「お母さんに手を貸してやれよ」と夫に言われたが、私はこの時母がただ単に動きが遅いだけだと思っていた為「動きが遅いだけだから大丈夫だよ」と母にも聞こえるように言った。
こうした言い方は、別に嫌味で言ったわけでは無い。そもそも、私はこういう言い方になってしまうだけなのだ。他意は無く、ただの感想だ。
母も夫も、私のそんな性格を理解してくれている。改めて傷つくような感じでは無い。
だけど、それが母にかけた最後の言葉だと思うと、今でも後悔ばかりが襲う。
思えば、母は打った脇腹が痛くて動きが遅かったのだろう。
こうした事をあまり言わないのが、母の悪い癖だ。
「脇腹が痛いから手を貸せ」とか言ってくれたら、ごめんと言って手を貸したのに。
そしておやすみと言って別れ、それぞれの家へと戻った。
これが、最後に見た母の姿だった。
しばらくして、やはり心配になったのか、夫が「あまり痛いようだったら、夜中でも明日でも病院連れて行くって、お母さんにLINE打っといて」と言い出し、私はLINEでメッセージを送ろうとした。
これまでも母は、痛みを我慢していて実は骨折していた、なんて事が何度かあったので、念の為に聞こうとしたのだろう。
ちょうど打とうと思った時に、母の方からLINEが来た。
『寒気にくわえて、熱も出てきた。明日、お父さんに病院に連れてってもらう』
その内容から、やっぱり骨折していたんじゃないかと思った。
元々、別の内容でかかっている病院に行く予定だったので、その帰りに整形外科によってもらうそうだ。
『そうしてもらいな。買い物あったら買ってくるから言ってよ』と私は返信した。
『結果わかったら連絡するね』と母から返ってきたので、適当なスタンプを送ってその場は終わった。
これが、私と母の最後のやり取りだった。
その後の事は父から聞いた内容だ。
父は夜に帰宅し、母の状態を確認して整形外科に行く事を約束した。その後に母は私にあの内容のLINEを送ったのだ。
母は常用している多数の薬と、そしてこれも常用しているのだが規定の量の睡眠薬も飲み、夜の九時過ぎには寝たそうだ。
そして、夜中の十二時頃、父がトイレに立った時、二階のトイレにいた父が、一階のトイレの音に気づいた。
母も同時くらいにトイレに行っていたようだ。
睡眠薬を飲むと朝まで起きない母だったので、珍しいと思ったらしい。
そして、父はそのまま眠りについた。
朝の七時頃、父は一階に降り、和室の戸越しに母におはようと言った。
返事は無かった。まだ寝ていると思ったのだ。
朝ご飯の支度をしていて、いい加減に起きないと病院に間に合わないと思い、父は和室の戸を開けた。
父の目線からは母の姿は見えず、父はトイレにでも行ったのだと思った。
だが、後にトイレに行っても母はいない。
父はもう一度和室へ戻り、明かりをつけてよくベッドを見た。
母は、下半身をベッドに残し、上半身がベッドから落ちている状態だった。
睡眠薬を飲んでいた母は、たまにそのような格好のまま寝ていたらしく、父はまたこんな格好で寝てるよと思い、起こしてあげようと足を掴んだ。
だが、触れた足は冷たかった。
慌ててベッドに引き起こした母は、既に亡くなっていたのだ。
そこからどのような経緯とタイミングで隣の私達の家に駆け込んで来たのかはわからないが、これが前日からの母の様子の全てだ。
私達はこれらを素直に答えた。
この間に、母の体は警察によって専用のビニール袋に収容され、彼らの車に乗せられていた。
死因を特定する為に、母を一度警察署に引き渡さなくてはならないのだ。
窓から見えたその様子に、まだ暑かった今日の気温を心配した。
クーラーもつけない車に長時間乗せておくことが気になったのだ。
言っても仕方のない事だと思うことにし、警察との質疑応答を終えた。
この頃、ようやく連絡がついた妹が家についた。
妹は、私を見るなりすがってきた。
妹とは、最近喧嘩をしたばかりで、気まずかったのだが、さすがに今はそれらは頭から離れていた。
「お母さん、私があんな態度を取ってたから死んじゃったのかな」
そう言って泣いたので、私は彼女の肩をたたき「そんな事で人は死なない」とだけ返した。
母と妹も、少し揉めていたので、そんな言葉が出たのだろう。
そして、母を警察署に運ぶ時に、警察官は「顔を見ておきますか?」と言ってきた。
妹を除いた私達は首を振った。
いくら眠っているような顔だとしても、吐瀉物にまみれたあの顔を、もう一度見る気が起きなかったのだ。
妹にも、見ておけば?と言ったが、妹は今はいいと答えた。
それから警察は引き上げていった。
遅れて妹の夫も到着したが、部屋は会話少なく静かだった。
悲しむより、何をしなくてはならないかが脳内を占めていた。
一種の現実逃避かもしれないが、私は引っ越してきた時からお世話になっているお向かいの家へと一人で向かった。
チャイムを鳴らして名前を言うと、おばさんとおじさんが出てきて心配そうな顔をしていた。
救急車の音が聞こえたり、警察が出入りしてたら、さすがに近所の人だって何が起きているんだと気になる。
誰かが救急車で運ばれたのだと思った二人に、私は事情を説明した。
おじさんもおばさんも涙を流し、信じられないと言った。
この時、死因は判明していなかったので簡単に話をして、また来ますと言って家に帰った。
そこからは、何をしなくてはならないかで物事を進めていった。
まず、葬式を行う場所決めた。
そして、遺影の用意。
これは、母が具合を悪くする前に撮られた、私の結婚式での写真を使う事にした。
自然な笑顔で、良い写真だった。
なんだかんだとしているうちにお昼ご飯の時間帯になった。
食欲がわかない、なんて奴は一人もいなかったのが幸いだった。
夫の運転で弁当を買いに行き、みんなで昼ご飯を食べた。
こんなふうに集まって食べた事なんて無かったので、何だか不思議だった。
葬儀屋さんに電話をしていて、午後に打ち合わせになっていたが、その前に警察官がもう一度来て話をした。
警察で母の死因は特定出来ず、早くて明後日の朝に違う病院で司法解剖をする予定になったそうだ。
あまり母をいじくられるのは嫌だったが、はっきりわかるならと思い、それを承諾した。
この時に母のスマホを返してもらった。
母と一緒に、母のスマホも警察に持っていかれていたのだ。
スマホのロック解除番号がわからなかったのだが、幸い、妹の記憶により解除出来た。
午後になり、葬儀屋さんとの打ち合わせが始まった。
とても静かで丁寧な方で、とても好印象だった。
ここで日程や時間が決まり、また連絡の嵐だった。
母のスマホからLINEのタイムラインやフェイスブックに書き込み、電話帳などからも連絡をしまくった。
自分のスマホにもその通知が来て、なんだか虚しくなった。
すぐに反応があり、悲しみ暖かいコメントが来る一方、泣き顔のいいねを送る人に若干イラッとした。
少し落ち着いた後に、特にする事が無くなったので、何となく掃除や遺品整理を始めた。
不謹慎かもしれないが、後々忙しくなるので、今やれる事をやろうと思ったのだ。
とにかく母は持ち物が多かった。
しまえる場所があれば、入れられるだけ入れるのだ。
総出で遺品整理ははじまった。
大量の化粧品類、服、雑貨。呆れる程だった。
心の中で母に悪態をついた。
欲しいものは貰って帰ったり、後に売る物などを分けた。
そして夕飯時になり、私達は父の運転でファミレスに行って食事をした。
やっぱりみんな普通にご飯を食べた。
どんな時だって腹は減る。むしろ、食べない方が良くない。これからもっと忙しくなるのだから。
夕ご飯を食べ終え、妹夫婦は自宅へと帰っていった。
一度実家に父と三人で戻り色々と話をして、私と夫は自分の家へ帰ろうとした。
私は父に「大丈夫?」と声をかけた。
父は「うん、大丈夫」と言った。
家に一人になったら、父は泣くのだろうか。
そりゃあ泣くかもな。でも、私はそれを見る事も、父がもし弱音を吐いて泣いたとしても、それらを受け入れる勇気が無かった。
自分の事で手一杯だった。
自分の家に帰り、朝ご飯を食べてそのままだった食器を黙って洗った。
夫と少し話をしたけど、あまり覚えていない。
とにかく疲れたので、早めに寝た。
突然、夜中に目が覚めた。
眠れなくなり、母の事以外をぼんやり考えていた。
だけど突然、何かが込み上げてきた。
私はしゃくり上げ、泣き始めた。
止まらなかった。なんでいきなりここで来るのか理解出来なかった。
さすがに起きた夫が、私を抱き締めてくれた。
私の中で、何かが決壊した瞬間だった。
自分の中で、出棺の時に思い切り泣いて、それで終わりにしようと思っていたので、ちょっと自分でもびっくりした。
しばらくただ泣いた。
翌日も変わらぬ朝は来る。
この日も暑かった。
夫は会社に出掛け、父も午前中は会社に出掛けた。
私は一人で母に向けた手紙を書いていた。
お棺に入れる為のものだ。
何を書こう、どうやって書こうと迷ったが、とりあえず誰に読ませるわけでもないので感情のままに書いた。
なんでこんなに早く死んだんだよとか、具合が悪い時に言わないのは悪いクセだとか、まず出てきたのは文句だった。
手紙の大半がそんな文章だったので、これはいけないと思い、してやりたかった事や、感謝の言葉も書いた。
最後に書いた一言は「"私"でいさせてくれてありがとう」だった。
母は、私に何かを押し付けたりなどはせず、比較的自由でいさせてくれた。
私が今、こうして"私"である事は、母のおかげだ。
これは、私の中で母に感謝すべき最大の事だ。
生前に言ってやれなかったのは悔やまれるが、こんな恥ずかしい事、こんな時じゃなきゃ伝えられない。
手紙を書きながらも、涙は止まらなかった。
それから父が帰宅するまでは、ひたすらスマホで葬式のマナーを調べまくった。
遺族側として迎えるのだ。失礼があっては困る。
父が帰宅した後はまた一緒に母の物を片付けた。
積まれて縛られた母の服の束は、来週の資源ごみの日には捨てられてしまう。
その束に頭から突っ込んで匂いを嗅ぎ、泣いておいた方がいいのかなと思ったが、さすがにそれは恥ずかしい。
服の一部でも保管した方がいいかとも思ったが、匂いだっていずれは消えるし、物を取っておけば邪魔になる。
私は感情を押し殺してただ片付けに専念した。
夫も帰ってきた頃に、葬儀屋の人が母の遺影を持ってきた。
手のひらサイズの写真をキレイに引き伸ばしてあり、とても満足のいくものだった。
これならこれを見た人も、いい写真だねって言ってくれるなと思った。
葬儀屋さんが帰った後に、後から来た妹夫婦と共にまた片付けを始めた。
今度はキッチンを探った。
そして出てくる食品の山。
上白糖なんて八個くらい出てきた。
予備が無くては落ち着かない性格だった母らしく、買っても忘れるのでまた溜まっていったのだ。
片付けてる最中に「また砂糖出てきたよ!」と、少し呆れつつも、あちこちで母を感じて楽しかった。
夕飯は、妹と一緒に実家の冷蔵庫を片付ける名目でカレーを作った。
妹と一緒に料理なんてしたこと無かったので、とても不思議な気分だった。
その最中に、葬儀屋さんから電話があり、式で流したい曲はありますかと聞かれた。
誰も何も言わないので、少し悩んだ後に私は自分が好きな曲を口にした。
世界的に有名で、色々な歌手がカバーしている、『You raise me up』だ。
自分の結婚式の入場曲にも流したものだが、この曲は感謝を伝える歌詞なので、別にこういう場で流しても問題は無いと思ったのだ。
文句はあれど、母には感謝しているので、この曲はすんなり決まった。
あとはどんな曲がいいか、母が好きな曲は何だと少し悩んだ。
すぐに思い浮かんだ曲はあったが、これは聞く人が聞いたら不謹慎だとか怒られるんじゃないかと思った。
でも、口にせずにはいられなかった。
「宇宙戦艦ヤマトの曲にしよう!」
母は、アニメ、宇宙戦艦ヤマトが大好きだったのだ。
それは周知の事実だった。
「出棺の時に、あの曲流すの!」
父や妹は私の提案に笑って、いいねって言ってくれた。
私の夫はさすがにそれは止めた方がいいんじゃないかって言ったけど、私は母と生前に話していた事を思い出し、みんなに話した。
ある女性歌手の墓の完成図がテレビで放送され、それを私と母は見ていた。
その歌手の墓石は彼女の好きな物の形で、更には近くに寄ると、彼女の曲が流れるという奇抜なものだった。
それを見た私は「お母さんの墓だったら、墓石を宇宙戦艦ヤマトにして、そばに来たらメインテーマが流れるようなのにしようよ」なんて冗談混じりに言った。
母もそれに笑って賛成していた。
それ程までに母は宇宙戦艦ヤマトが好きなのだ。
さすがに墓石を宇宙戦艦ヤマトにするにはお金がかかりすぎるし、棺を宇宙戦艦ヤマトにする事も出来ない。
ならせめて、母の好きな曲で送ってやりたいと考えたのだ。
周りから批判があるかもしれないが、これは誰でも無い、母の為の葬式だ。
母が喜ぶような事をしてやりたい。
これ、出棺の時に絶対敬礼するやつだ、なんてまたみんなで笑った。
悲しむ為だけのものにしたくなかった。
私達らしい送り方をしたかったのだ。
そして、これを聞いた人達の反応が楽しみになった。
他で流す曲も宇宙戦艦ヤマトの中の曲から取り、あまり悩まずに曲は決まった。
その夜はみんなでカレーを食べ、明日に備えて早く寝た。
翌日、父の運転で離れた場所にある病院へと向かった。
そこで今日、母の司法解剖が行われるのだ。
予定ではお昼過ぎに司法解剖が終わり、それから葬儀屋さんが母を会場へと運び、夜に通夜が行われるので、ギリギリのスケジュールだった。
病院に着く前に、電車でそちらに向かっていた妹から連絡が来た。
もう既に到着していて、受付を済ませたようだ。
だが、送られてきた文章に私は思わず噴き出した。
『〇〇時から脂肪解剖をしてもらう〇〇の家族ですけどって言ったら通してくれたよ』
妹はこういうミスをよくやる。
すぐに『間違えた』と来た。
さすがにこれは間違えないかと一瞬安堵したが、次に送られてきたのは『死亡だった』だ。
どのみち違ぇ!!と大爆笑だった。
母が亡くなってから初めての爆笑で、妹の通常運転には些か救われた。
案内された病院は普通の病院で、多くの人が利用していた。
生きている人がかかっている病院の一角で、こうして司法解剖が行われているのだと思うと、複雑な気持ちだった。
病院の奥の別棟に連れていかれ、鉄の扉の小さな待合室みたいな場所で二時間くらい待った。
意外と時間がかかってしまったようだ。
執刀した女医さんが説明をしてくれたのだが、結局死因ははっきりしなかった。
睡眠薬を飲んでいた事は確かだが、多量に飲んでも中毒を起こして死ぬようなものでは無く、これが直接的な原因かはまた詳しく調べなければならないそうだ。
もう一つの可能性は、窒息死だ。
ここからはあくまで推測に過ぎない。
母は亡くなる前日に風呂場でこけ、肋骨を骨折していた。
その痛みは増すばかりで、いつも飲んでいる睡眠薬の量では痛みで眠れなかった。
夜中の十二時頃に一度起き、トイレの前後にまた追加で睡眠薬を飲んだ。
そして、死亡推定時刻である夜中の二時頃より前に、寝ぼけたのか起きたかでベッドに下半身を残して落ちた。
頭が下になった状態で眠り続け、胃の内容物が逆流し、それが鼻や口に詰まって窒息死したのでは無いか。
死因がはっきりしなかったので、とりあえず母の死因は突然死になったままだ。
そんなんでいいの?もっと詳細にしなくていいの?とも思ったが、もうこれ以上、母の体を調べられるのは私達もつらいし、何より本人もつらいだろうと思ったので、誰も何も言わなかった。
父が少し涙ぐみながら死亡届の書類を書くところは、私も見ていてつらかった。
そこで母を見る事は出来なく、先に葬儀屋さんが連れてったので、私達も後を追った。
母が死に、母の死因が窒息死ではないのかと考えていた私と夫は、解剖の結果を受け、前日の夜に母に食事を取らせた事を改めて後悔していた。
母があの時何も食べなかったら死ななかったんじゃないか。母を殺したのは私達だったのでは無いかと思ったが、怖くて口に出せなかった。
そんな事は無い。あれは偶然だった、事故だったんだと、お互い言い聞かせ、そこから目を背けた。
今でも私は母を殺してしまったので無いかという考えを捨てられないが、見ずに蓋をしている。
最後の食事が安いレストランで申し訳なかったなあ、で話を終えている。そこから先は怖くて踏み込めない。
妹達とは一旦別れ、セレモニーホールを訪れた父と私と夫は、書類等を葬儀屋さんに渡し、一度家に帰った。
小一時間程休憩し、喪服に着替えて再びセレモニーホールに向かった。
そこで綺麗になった母の遺体と対面した。
冷たい金属の機械から出てきた母は、眠っているかのようだった。
葬儀屋さんの技術すげえなと思ったが、母らしい化粧では無かったので、私は要望を伝えた。
白髪を隠し、母の好きな紫色のアイシャドウを塗ってもらい、口紅も塗ってもらうと、いつものよそ行きの母の姿そのものだった。
これならみんなに見てもらっても平気だなと安心した。
今夜泊まる部屋に荷物を置いたりしていると、親戚が集まり始めていた。
これも不謹慎かもしれないが、私は努めて笑顔で「来てくれてありがとう」と言った。
これは自論に過ぎないが、みんなは母の為に仕事を休んだり、予定を切り上げてこの場に来てくれている。
私は、それが嬉しいのだ。なら、笑顔で迎えるべきなのだ。
涙は流れたが、口元には笑みを浮かべて親戚と会話した。
綺麗になった母と対面した私の叔父が私に近づいてきた。
母の兄は二人おり、その下の兄が「俺、兄貴が泣いてるところ始めて見た」と言った。
私は「そりゃ泣くでしょ」と返した。
妹が先に亡くなるなんて想像しなかっただろうから、そりゃあショックだろう。
私なんかより長い時間母を見続けてきたのだから尚更だろう。
母の母、つまり私の祖母も来てくれた。
彼女だって同じだろう。まさか、娘に先立たれるなんて思わなかっただろう。
親戚がどんどんやってきて、声をかけたり話をしたりするが、だんだん疲れてくる。
時折椅子に座りながら、ぼんやりと大量の花が飾られた壇を眺めるが、未だに実感が湧かなかった。
これから、自分の母親の葬儀が始まるなんて。
突然過ぎて、まだ夢でも見ている感覚だった。
通夜もそろそろ始まろうという頃、気丈に振る舞っていた私だったが、小学校の頃からの親友が現れ、その顔を見た瞬間、突然それは決壊した。
歩み寄り、彼女の肩に手を回し、少しの間だけ声を押し殺して泣いた。
何故彼女の顔を見た瞬間に私のストッパーが外れたのかはわからない。
唯一なんでも話し合える親友に、甘えが出てしまったのだろうか。
涙は流しても、出棺までこういうふうに泣く事はしないでおこうと思っていたのに、台無しだった。
幼い頃から互いの家に行き来し、家族ぐるみの付き合いだったので、彼女も母を想って泣いてくれた。
そして通夜が始まった。遺族側の席に座る、父と私と妹を客観的に見て、遺された、という言葉がしっくり来て寂しく思った。
つつがなく進む流れ作業のお焼香。
私の知らない人、知ってる人。でも母や私達を想ってくれている事は一緒なんだ。
ただただ、感謝しか無かった。
通夜が終わり、遅れて食事の場にいくと、もうほとんど人は残っていなかったが、慣れない手付きでお酌をしてまわった。
だけどお腹が空いて仕方がなかったので、親戚と会話をする流れで冷めたからあげや煮物を頬張った。
それからは仲の良い親戚と酒を酌み交わし、何か色々話をしてたのだが、あまり覚えていない。
日付が変わった頃、そろそろ寝なくてはと思って部屋に戻ったが、全く寝れなかった。
そもそも環境が違うと寝れなくなるのだが、本当に一睡も出来なかった。
翌日の朝、結局眠れず頭はボーッとしていた。
支度をして式に備えたが、親戚に会ってもしばらく誰と話しているのか理解出来ないくらいだった。
こんなんでちゃんとやれるか心配だったが、葬式はつつがなく進む。
そしていよいよ、出棺の時。
お棺に書いた手紙を入れた。父や妹、私の夫も書いてくれたので、それを入れていた。
供えられた花をこれでもかと敷き詰めていく。
顔しか見えなくなっていく母。
もうこのタイミングかなと思い、私は等々自分でストッパーを外した。
棺を握り、俯き、ひと目をはばからずにしゃくり上げて涙を流した。
「ごめん、孫見せてやれなくて、ごめん」
死んだ時に言った言葉をもう一度言った。
私の中で、最大の後悔がこれだ。
まだ子宝に恵まれない私達は、孫を早く見せてやって、母を喜ばせてあげたかったのだ。
そうすれば、元気の無い母も、活力を戻してくれるんじゃないか、以前のようなヒステリーだがハキハキとした母に戻るんじゃないかと期待していたのだ。
だけど、それは叶わなかった。
奇しくも、それは母の父、祖父と同じように、最愛の娘の子供を見る事が出来ずに亡くなってしまった。
こんなところ、同じじゃなくていいのに。
私の願いは叶わなかった。
なんでこんなに早くに死ぬんだよと、文句と謝罪の言葉ばかり出てくる。
夫がたまらず抱き締めてくれた。
誰かが「お前はよくやったよ、立派だよ」と言ってくれたが、私は首を振った。
「全然そんな事無い。私は何もしてやれなかった」と返した。
母の要望に快く応えてやれなかった、煩わしいとさえ思った事もあった。
旅行も、遊園地も、新しく出来た中華料理屋にも、映画の新作にも連れてってやれなかった。
孫も見せてやれなかった。
毎週のように買い物に連れていったり、たまに美味しいものを食べたり、お祭りに行ったりはしたけれど、こんな日常の小さい出来事などでは足りない。
私は母に何一つ返してやれなかった。
まだまだ、親孝行と呼べるものをしてやれてないのだ。
私は普段の自分の生活が苦しくならない範囲で、母には出来る限りの事はした。
友達感覚で仲は良かったし、大人になってから喧嘩はした事無い。
だから、その点に関してはあまり後悔は無い。
だけど、やはり、孫は見せてやりたかったというのが、大きな後悔だ。
産まれたら墓前に見せに行くよ、と棺の中の母に言ったけれど、本当はその手に抱かせてやりたかった。
花がほとんど詰め終わり、最後の別れをと言われた。
何をしたらいいのかわからないけど、とりあえずまたね、と言ってその冷たい頬や額に触れた。
母に顔をうずめる父の背中に手を添えた。
そうする事しか出来なかった。
そしていよいよ出棺の時。
私が遺影を抱えて立ち、父のスピーチが終わると、アナウンスが聞こえる。
「生前、〇〇様が好きだった曲で見送ってください」
この場に不釣り合いな、あの高らかなファンファーレが鳴り響いた。
私と妹は、揃ってボロボロに泣いた親族達の顔を見た。
ほとんどの人達が、泣きながら笑っていた。
「ああ、好きだったもんねー」
母が宇宙戦艦ヤマトを好きな事を知っている人達が、そう言いながら笑ったのだ。
私達は大成功、とばかりに顔を合わせてニヤリと笑った。
普通だったらしんみりする曲で、泣きじゃくりながら見送る場だろうが、そんな普通の式にはしたくないのが私達だ。
母を想い、母の為の式だ。
みんなの泣いてばかりの顔なんて、母だって見たくないはずだ。
ここでこの曲が流れた事で母も喜び、笑ってくれてるんじゃないかと思った。
母はヤマトに乗ってイスカンダルに向かったんだ、暗く陰鬱な気分を波動砲がぶっ飛ばしてくれるんだと思ってくれたら幸いだ。
また、会える。そう、明るく考え、また明日を生きていって欲しい。
それが私の込めた願いだった。
人生初の霊柩車は、大変狭かった。
隣に大きいお棺があるのだから。
火葬場に付き、母の肉体とはいよいよお別れとなった。
もう母の姿を見る事は出来ない。
急に、もったいないというワードが出てきて、ペットを剥製にする人の気持ちがわかった。
「重い体とさよならするだけだよ」
また泣いている妹にそう言った。
自分に言い聞かせてるのに、妹を慰めているように聞こえるところが、私のずるいところだ。
例えこの場で私が泣き喚こうと暴れようと、燃やす事には変わりないので、黙って一連の流れを見送った。
火葬が済み、母の骨を見る。
意外としっかり残っていて安心した。
だがもう、母はいなくなってしまったと、これはもうただの骨でしかないと、ふと冷め、虚しくなった。
淡々と骨を壺に詰めていく中、祖母が母の骨をもらっていた。
私ももらうべきか迷ったが、未練がましくそれを持っている事で、死んでからでも母を心配させたくなかったのでやめておいた。
父は骨をちょっと食べていたけど、そこまではしなかった。
壺が重くて落としそうで怖かったけれど、私達は無事にまたセレモニーホールに戻ってきた。
親戚と別れ、荷物をまとめて自宅に帰る。
土砂降りの雨の中、濡れないように骨壺を守り、家の中に設置された壇に母の遺影と骨壺を置いた。
お花も置いて、私は少し一息ついた。
「ようやく帰ってこれたね、お疲れ様」そう言い、私は笑顔で手を合わせた。
以上で怒涛の四日間が終了した。
もっと他にも細かい話はあるが割愛させていただいた。
私がこれを書いた理由は、まず、忘れない為だ。
脳裏に焼き付いたままの、母の死に顔、父の泣く背中は恐らくずっと残るだろう。
だけど、細かい記憶はいずれ薄れて消える。
それが嫌だったのだ。
これを書き終える頃にはちょうど四十九日を迎えるが、もう既に記憶はいくつか無くなり、書いた内容にも若干の間違いはあるだろう。
だからまだ記憶が鮮明なうちに残したかったのだ。
もうひとつの理由は、自分の中のまだ整理出来ていない部分を整理する為だ。
想いを文章にする事により、新たな発見があった。
私は、自分が母を殺してしまったんじゃないかという考えに、ずっと囚われていたのだ。
苦しくて怖くて考えないようにしていたけど、自分の心の傷をえぐる事により、見つけてしまったのだ。
これが一月半もの間、私が苦しんでいた理由だったのかとわかった時、やはり涙が出た。
その問題に面と向かえたのだ。
だが向かえたからといって、そこから何をするわけでは無い。
一生、この考えからは逃れられない。
ずっとキズとして抱えていく。
だけど、この文章を書き終えた事によりもやもやが昇華された気がして、些か心が軽くなったのは事実だ。えぐった甲斐があった。
書き終えても、四十九日も迎えても、不思議と、まだ母が無くなったという実感が私の中に定着しないのは、常に母がそばにいるからかもしれない。
そう思うと、恥じない生き方をしていこうと、前を向いて歩ける。
ありがとう、お母さん。
また、いつか。
おわり