シロネブリと二人暮らしの最後
季節が巡り、観察を始めて一年ほどが過ぎた頃。シロネブリに異変が起こった。
昨日までは何一つ変わりなく過ごしていたというのに、朝になっても鳥籠から出ようとしない。隠れ家である横倒しのコップの中でじっとしたままだ。
時折小さく動いていることから眠っているわけではなさそうだった。籠の中に怪我の元となりそうなものなど入れていないし、シロネブリは肩ほどの高さの棚の上から落下しても軽く弾んでそのまま移動を続ける程度には頑丈だ。血の匂いや跡も見当たらない。となれば病気の類か。
心配になるがシロネブリがかかる病など分かるはずもない。いつでも食べられるようにと籠の中に骨を置いた後は、余計なストレスを与えないようにそっとしておくことにした。野生の生物の多くは自身が弱っているときに他の生物が近づくことを嫌うものだ。出来ることがないのなら余計な手出しはしないほうがましだろう。
結局その日は一日中、シロネブリが動く姿は見られなかった。
二日、三日と日付は過ぎていき、齧られた跡のない骨を新しいものに換えるのももう七度目だ。
相変わらずシロネブリはコップの中から出て来そうにない。遠目にこっそりと覗いてみれば絶食を開始した日と同じく僅かではあるものの動きが見られるため、生きているのは間違いないはずなのだが。
長期間食事を摂らずにいても体が弱ったりしないのだろうか。観察のために捕まえてきてから骨を与えずにいた日がないため、シロネブリがどの程度の間空腹に耐えられるのか不明だ。
やきもきする気持ちを抑える中で不意にふと、もしかすると寿命なのかもしれない、と思った。考えてみれば、このシロネブリがいったい今までにどれほどの間生きてきたのかも分からないし、シロネブリという種の寿命も知らないのだ。外見での判別がつかない以上、案外私よりも年上である可能性だって否定はできない。
十日目の朝、シロネブリが籠の底でひっくり返っていた。
普段うっかり転がり落ちて逆さまになったときにはすぼまって隠れていた歯が丸見えで、体を揺らして元の体勢に戻ろうとすることもなく、曲面しかない背を下にした不安定な状態のままピクリとも動かない。
動物というよりは昆虫のような死に姿だ、とずれた感想が頭の隅を掠める。こんな所でまで意外性を発揮することがシロネブリらしさを表している気がして、少しだけ苦笑が漏れた。
いつまでもこのままにしておくわけにもいかない。庭の隅にでも墓を作ろう。
埋める前に布でくるんでおこうと手を伸ばした瞬間、ビクン! とシロネブリが震えた。
突然の出来事に飛び出そうになる心臓を押さえる。混乱する私を尻目に、シロネブリは少し膨らみ、また元に戻るという行動を繰り返しだした。何が起こっているのかまったく分からない。
回数を重ねるごとに膨張と収縮の度合いが高まっていき、深呼吸を通り越して息切れでも起こしたような異様な様相に目を奪われていると、視界にちらと灰色が混ざりこんだ。シロネブリの口腔から何かが覗いて見えている。
シロネブリが縮むたびに少しずつ、上向きになった口から滑らかな灰色の何かが出てくる。その何かはシロネブリと同様に丸みを帯びた形をしているようで、最初は大きさ違いの二つの球をくっつけたような状態だったのが徐々に差が減っていき、シロネブリと殆ど変わらないサイズになったところでぽろりとはがれて転がり落ちた。同時にシロネブリの動きが停止する。
先ほどまでの様子が嘘だったかのように静かに、普段の半分ほどの高さにしぼんだ白毛玉と、同じくしぼんだ灰禿玉が鳥籠の中で無造作に並んでいた。これはいったいどういうことなのか。
改めてよくよく見てみれば、シロネブリの口から出てきた灰色の物体にはそこはかとなく見覚えがある。随分前に事故で水がかかった際にシロネブリの毛が溶けてなくなってしまった状態、あれとそっくりだ。ということはこれはシロネブリの皮なのだろうか。しかし、己の皮を吐き出すなど何事か見当もつかない。
吐き出された皮らしきものを観察しようとおそるおそる覗き込めば、小さな複眼が二つ並んでいるのが見えた。目がある。どうやらただ皮を吐き出しただけではないらしい、と思ったところで、灰色の方が震えだした。
今度は何が起ころうというのか。身構える私の前で灰禿玉は震えと共に膨らんでいく。これも以前に似たような光景を見たことがあるような、と思い当たったところで、禿玉は禿げた時のシロネブリと変わらない姿にまで膨らみ、禿げた時のシロネブリと同じように鈍足で移動を始め、鳥籠の隙間から難なく抜け出ると机の上を進んでいった。そっくりと言うか、その姿は禿げてしまった当時のシロネブリまんまそのものだ。
進行する灰色と残された半分しぼんだ毛玉を交互に見る。もしや、これは脱皮か。脱皮したというのか。
あまりにも想定外すぎるシロネブリの生態に軽くおののく。そういえば騎竜の類は鱗の生え変わりの時期になると食欲に変化があると聞いたことがあるが、ここ最近のシロネブリの異変もそれと似た現象だったのかもしれない。
心臓に悪い出来事ではあったが、これできっとシロネブリの様子も元通りになっていくことだろう。ようやく安心できると胸をなでおろす私の前を、白い毛玉がゆっくりと横切っていった。
いつもどおりの光景に、さて食欲は戻っただろうかと骨をとってこようとし――――勢いよく振り返る。
机の上には移動する灰色のシロネブリと、その後をついていく白いシロネブリがいた。
どうやら脱皮ではなかったようだ。
一度思考を切り替えるべく行動を開始する。
とにかく一旦落ち着くことが必要だ。水差しからコップへ水を移し一気にあおり、もう一度注いだ分を半分ほどに減らしたところでようやく人心地ついた気がした。
水の気配を敏感に察知して離れていく二匹のシロネブリたちに視線をやりながら椅子に座り、コップを机の上に置いて大きく息を吐く。
今になってこうして考えてみれば、ひっくり返っていた時点でシロネブリは饅頭型を維持しておりしぼみきってはいなかったのだから、死んでいないことに気がついて然るべきだったのだ。一歩間違えれば危うく生き埋めにしかねなかったという事実に背筋が冷える。
シロネブリが私が捕獲する前から子を宿していたのか、それとも単体で生殖が可能な種なのかは不明だが、この十日間の一件はシロネブリの出産が原因だったらしい、と今更ながらにようやく事態を飲み込むことができた。
刺激を求めてシロネブリの観察を始めたわけだが、私の寿命を縮めそうなほどの驚きはできれば控えて欲しいと思うのは身勝手が過ぎるだろうか。そんなことを考えながら、私は残りの水を飲み干した。
観察結果「シロネブリは子を口から吐き出して産む」