原文
気がつくと、広い旅館のフロアに立っていた。
穏やかな和風な広間、床は板張りでツルツルしていた。自分は浴衣を着ていて、そうか休暇か何かできたのだっけかと思い、そこで深く考えるのをやめた。
目の前には一面ガラス張りの廊下が左右に伸びていて、目の前には少し急な綺麗な川が流れていた。ふと、左を見るとしばらく続いている。
何をするともなく自然と足が進む。
右手の川を見ながら、外は少し寒そうに見えた。暖房がよく聴いているからだろうか、中はとても心地良い快適さだった。
左に一室が現れる。どうやらここの歴史などを展示しているスペースらしい。いくつかの写真やケースに入ったものの前に、それぞれ説明書きがされていた。
ふと、女の人が部屋の真ん中にあるケースの前に立っていることに僕は気がついた。
同じ浴衣を着た人は、微笑み言った。
「こんにちは」
僕は軽く会釈し、返す。
「こんにちは」
その人は、微笑んだまま、ケースに向きつつ言った。
「ここの展示面白いですよ。」
「そうですか?」
「ええ、だって、これは全部歴史なのですから」
「……」僕は、横に立った時、横顔を見てなにかがひっかかった。この人とはどこかであったような気がした。だけど、思い出せない。大切な人なのか、ただどこかですれ違っただけなのか、どうしても思い出せなかった。
「あの、もう少し奥まで行きません?」
そう微笑むその人との時間は、川の流れるさらさらとしたおとや、自然の葉のこすれる音や、鳥の鳴き声に満ちた時間だった。
さらに奥へ進んだ。一緒にゆっくり歩きながら会話する。
「こう言う自然のところって良いですよね」
「そうですね、僕なんかはいっそのこと、ここで暮らしたいくらいですよ。」
「前にも、こう言う山の中で暮らしたことがあるんですか?」
「いえいえ、そんなことは……!」と言ってから、返事が止まる。
……あれ、本当に僕は、暮らしたことがなかったのだろうか。
「……ないはずです。山の中で暮らしたことは……」
「……? そうなんですか?」
「はい」
彼女は、言った。
「私、実はここで暮らしているんです。」
「……」
「もしよろしければ、もう少し奥まで行って見ますか?」
僕は微笑む彼女に、はい、と返していた。
「こう言う、街から離れた場所って、色々と大変なんですよ。まだうちはいい方だと思います。中には、水道も電気も通っていないような山の中もあるもので。」
「そうなんですか」
「はい。そのぶん、うちは恵まれています。温泉があったり、水は綺麗な川が流れていて、電気は通っていませんが、地熱の発電で暖房と電気がまかなえるのですから。」
「ほー」正直、話半分にしか聴いていなかった。ずっとガラス張りの景色は美しく、感動的だったから。だからなのか、ここで働きたいと自然と思っていた。
「ん? どうしたんだ?」
「あ、お父さん、うちで働きたいって人が来たから連れて来たの。」
「またか? どれ、……」
入り口に立つ僕と、部屋の奥で作業していた男と目が合う。
「……ふん、まあ、……。」
と言って、女の子を一瞥。女の子は、僕の方を振り向き、ぺこりと頭を下げると、では、と言って部屋から出て言った。
「おい、お前。」
「はい!」
「ここでの仕事は楽ではないぞ。」
「……」
「山の中だから、全て自分たちでやらないといけない。薪集めから、小屋や建物の修理、泊りにきてくれた人たちの食事の準備から跡かたずけ……。いま、ここでのんびりと過ごせるために、どれだけの汗をかくか知っているのか?」
「……いいえ」
「……」
「だけど、やって見ます。」
そのとき、どれだけこの先が辛くなるのかなど、想像もできなかった。
いいか、パンの焼きかたは……
おい、燃料が心配だから、外に行って薪を割って積んでこい。
おい、くたばっている暇なんてないぞ、これから食事の準備があるんだ。早くしないと日が暮れちまうぞ。
「……」
「お疲れ様。」
「……」
「……ねえ、どうだった?」
「……疲れた。」
「あはは……」
と、困ったように彼女は笑って言った。
「……ありがとう。今日は助かったよ」
僕は顔を上げ、彼女を見た。彼女は、暗くなったガラスの向こうの空を見上げながら、照れ臭そうにほんのりと頬を染めていた。
こう言うのには、慣れていないようだった。
「ほら、早く。
「はいっ!」
「こっちに足りないから持ってきて!」
「はい、今すぐ!」
「……」
「お疲れ様」
……お疲れ」
「少し離れてきたようだね」
「まあね。でも、まだまだだよ」
「あははー……」と、困ったように彼女は笑った。
お互いに口を開けなかったのか、無言が続いたとき、彼女は言った。
「ねえ、今の君がこうやって一生懸命にやっていることを、ちょっと前の君は想像できたのかな。」
僕は少し考えて言った。
「いや、全然想像できなかったかな。」
「そうだよね。人生ってやって見なければ分からないことが多いし、知らないことはいくら想像しても分からないことなんだよね。」
「……?」
「いいな。私も、そうやって、外の世界を想像するだけじゃなくて、実感して見たいよ。」
「……」
彼女は、時折、寂しそうに笑っては僕の横に腰掛け、ひっそりとした夜空を見上げていた。
僕が、ここでの仕事に慣れ始めた頃、知っている人が遊びにきて暮れた。
「やっほー、頑張ってる?」
「あっ、、来てくれたの?」
「うん、近くをよっただけなんだけどね。」
「いいよ、いいよ、せっかく来たんだからゆっくりくつろいでいってね!」
「サンキュー。うん、そうするよ」
知っている人が来てくれるだけで、こんなにも嬉しいものなのかと、僕は幸せのようなものを実感しながら、いつも通り仕事をして、時々くる知り合いの人たちと会話をしてあの頃を懐かしんでいた。
みんな、懐かしいものを持ってここに来た。ガラケーに、アルバムやら、思い出しただけで逃げ出したくなるようなプレゼントやら……。
「でさーあの時はー」
「そっか……。あの時は僕の方が悪かったよ、本当にごめんね。」
「あっはっは、もう……今更そんなの気にしてないよ」
「……そっか。……そうだよね……。」
「……」
「あれ、どうしたの?」彼女が胸を押さえ、いつも腰掛けていた席の横にうずくまっていた。
「……大丈夫。大丈夫だから……。」
「でも、具合が悪いなら、病院とかに」そう言う僕に、頭を横に振りながら彼女は言った。
「……大丈夫。大丈夫。大丈夫だから」彼女はそう繰り返すだけだった。
おっし、今日は終わりだ。
かたずけ、かたずけー!
おい、と、呼び止められ僕は振り向き返事をする。
「はいっ!」厳しい顔でじっと見られたかと思うと、にっと笑ってこう言った。
「……お前、ずいぶん早くなったな!」
周りの人たちも、笑いながら言ってくる。
「だな! 正直最初はどうなるものかと思ったよ。」
「いやー、最初の頃は、本当に親方に殺……じゃなくて、目を疑いましたよ。」
「だって、終わらないんだもんな、まともに一つも。」
「……いやー、あの……本当にすみませんでした。」
笑いが起きる中、彼女にお父さんと言われていた男が言った。
「まあ、良いってことよ。今まで面倒を見たぶん、これからは、せいぜい楽をさせてくれな」
また、周りから笑いが起きるなか、僕は、あははと困った笑いをしていた。
宿泊客が食事を終えた後かたずけをしている彼女を見つけ、近づいた。
「僕も手伝うよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は少し疲れたような笑いをしていた。
テキパキとかたずけ、いつもの席で話そうとした時に、数人の宿泊客の人が浴衣で座っていた。
「あの、すいません、もう館内を出歩く時間は、……。」
「……!」彼女がとっさに歩み寄ろうとしていた僕の前に出て、両手を広げていた。
パスッパスッという空気が抜けたような音がした。
崩れた落ちた彼女。その先に立っている宿泊客の一人が、映画でしか見たことの無いものを持っていた。
「お前、こんなところで撃つんじゃねえよ。ちっ、少し早いが、作戦実行だ。」
カチャカチャと複数人から同じような音が聞こえた。
「おい、お前大人しくしてろよ?」
その場で動けなくなった僕はへなへなと座り込んでしまう。
そして、生暖かな物に触れ、それが血であることに気がついた。
崩れた彼女の指がかすかに動き、僕はただただ頭が真っ白になったまま、彼女を見つめていた。
「……」
大丈夫だから、と言ったように聞こえた。
僕は全く動けなかった。
撃った奴が、かすかに動く彼女を見て前に立った。
「……」
ゆっくりと、彼女は言葉をつぶやいていた。
そんな彼女に奴は再び銃を向けた。
「や、やめろ……!」一瞬こちらを見た男は、彼女へと視線を戻した。
「……」そして、ニヤリと笑う。
大丈夫だから、だってここは君の夢の中だから、そう彼女は最後につぶやいていた。
目が覚めた。動悸が激しく、喉がカラカラになっていた。
ほんの数時間で目が覚めてしまったようで、目が回った。
落ち着くまで、少し座り、トイレに行ってから、もう一度布団に入った。動悸は静まり、汗も引いていた。
遠くから、鳥の声が聞こえてくる。
涼しい風が、頬を撫でていた。
ふと気がつくと、広い旅館のフロアに立っていた。
穏やかな和風な広間、床は板張りでツルツルしていた。自分は浴衣を着ていて、どこかで見た覚えがある景色に、そうか休暇か何かできたのだっけかと思い、そこで深く考えるのをやめた。
目の前には一面ガラス張りの廊下が左右に伸びていて、目の前にはなぜか懐かしい少し急な綺麗な川が流れていた。ふと、左を見るとしばらく続いている。
何をするともなく自然と足が進む。
右手の川を見ながら、外は少し寒そうに見えた。暖房がよくきいているからだろうか、中はとてもここち良い快適さだった。
左に一室が現れる。どうやらここの歴史などを展示しているスペースらしい。いくつかの写真やケースに入ったものの前に、それぞれ説明書きがされていた。
ふと、女の人が部屋の真ん中にあるケースの前に立っていることに僕は気がついた。
同じ浴衣を着た人は、微笑み言った。
「こんにちは」
僕は軽く会釈し、返す。
「こんにちは」
その人は、微笑んだまま、ケースに向きつつ言った。
「ここの展示面白いですよ。」
「そうですか?」
「ええ、だって、これは全部歴史なのですから」
「……」僕は、横に立った時、横顔を見てなにかがひっかかった。この人とはどこかであったような気がした。だけど、思い出せない。大切な人なのか、ただどこかですれ違っただけなのか、どうしても思い出せなかった。
「あの、もう少し奥まで行きません?」
そう微笑むその人の声に、歩くときの衣擦れの音、遠くから聞こえてくる鳥の鳴き声に彼女の声が重なった。
「こう言う自然のところって良いですよね」
「そうですね、僕なんかはいっそのこと、ここで暮らしたいくらいですよ。」
「前にも、こう言う山の中で暮らしたことがあるんですか?」
「いえいえ、そんな……」と言ってから、返事が止まる。
「……ないはずです。山の中で暮らしたことは……」
「……? そうなんですか?」
「はい……」
彼女は、言った。
「私、実はここで暮らしているんです。」
「……」そして、その後の言葉も僕は知っていた。
(純文学寄りです。)