菊 ~chrysanthemum~ 加筆版
『月なき夜に抱きしめて』の後日談。
本編のネタバレあり。
本編をご存知いただけていなくても楽しめるように書いています。
工場の煙で曇る空の下を、色とりどりの馬車が行き交う。
ガス灯がそろそろ点り始める時間。
ロンドンの石畳の道端で、花束を抱えてあたしはため息をついた。
名前すらわからない、初めて見る花。
ついさっきいきなりスティーヴンに渡されてしまった。
幼馴染みのケンカ友達の、何でも知ってるつもりの男の子が見せた、初めて見る顔。
いったいどういうつもりなのよ。
「やあ、アニー! やっと見つけた!」
声をかけられ、顔を上げる。
派手な服を着た巻き髭の紳士が、真っ白な馬に乗って、通りの向こうからこちらに駆けてきた。
あたしのお姉ちゃんの婚約者……に、なる予定のフレデリックさんだ。
「キミの姉上とデート中だったんだがね、キミの帰りが遅いんで捜してこいと命じられたんだ」
「お姉ちゃん、デートを切り上げる理由がほしかったんですね」
「まあ、そういうことだろうな」
サラリとした態度から、フレデリックさんにとってもちょうど良かったのが伝わる。
フレデリックさんは古い貴族の家柄で、あたしのパパはいわゆる成金。
お互いの両親は最高の相手だと思っているみたいだけれど、本人達はこんな感じ。
男とか女とか難しい。
でも大人だし、あたしよりマシよね?
あたしは自分が抱える悩みの花束についてフレデリックさんに相談した。
「異性に花を贈るのって、普通は……その……好きだとかそういう意味ですよね?
でもスティーヴンがあたしにそんなこと言うなんてありえないんです!」
「ふむ……」
馬の上から見下ろしながら、フレデリックさんが巻き髭をいじる。
「だから何か違う意味があるはずなんです!
ほら、花言葉ってあるじゃないですか?
この花の花言葉がわかったら、スティーヴンの気持ちもわかるはずなんです!
でも友達に訊いて回っても、花言葉どころか花の名前さえわからなくって……」
「ボクもこの花は初めて見たな。
こういうのは専門家に訊くのがいいだろう」
「専門家……ですか……?」
「来たまえ。面白い男が居るんだ。
ヤツは色恋には少しばかり偏っているが、花についてなら並外れて鼻が利くのだよ」
そしてフレデリックさんは、あたしを馬の後ろに引っ張り上げた。
その小ぢんまりした園芸店では、テラスでは鉢植えの花が、店先では切花が、色とりどりに咲き誇っていて……
カウンターでは気難しそうな中年男性が、若い男性の店員に、真っ赤な薔薇の花束の代金を払っているところだった。
あれくらいわかりやすい花なら話は簡単なのに。
あたしは両手に抱いた花束を見下ろした。
赤い薔薇は情熱、白い薔薇は純愛。
あたしの花束の名も知れぬ花々は、赤、白、黄色がごちゃ混ぜになってる。
お客さんがお店を出て行くのを待って、フレデリックさんが店員に声をかけた。
「やあ、青薔薇クン、元気にしているかね?」
呼ばれて振り返ったスラリとした体に野暮ったいエプロンをまとった店員は、清潔そうな髪の下の整った顔を、わざとらしく露骨にしかめた。
「ラウルですってば! いい加減に覚えてください!」
「名前を覚えたらばボクの家に来てくれるかい?」
そう言ってフレデリックさんが伸ばした手を、ラウルさんはヒラリとかわした。
「ことあるごとに人のオシリを触ろうとするのをやめてくれたら考えますよ!」
「何を今更。すでにしっぽは掴んでいるんだ。キミはボクの庭であの青い薔薇をもう一度咲かせるべきなのだよ」
あたしは後退りしようとして扉にぶつかってガタンと大きな音をさせてしまった。
「お、お姉ちゃんとの縁談がなかなか進まないのはそういう事情だったんですね……っ」
「お客さん誤解しないでください! 住み込みの庭師として勧誘されてるだけですから!」
青薔薇と呼ばれるだけある美青年の頬が一気に青ざめる。
「いや待て、縁談を断る理由として使えるならばそう思わせておくのも良いな」
「……今度の人も嫌なんですか?」
「彼女は少しばかり真面目過ぎるんだ」
「前の人は不真面目過ぎるって言ってたじゃないですか」
「男心は複雑なのさ」
「とか言って本当は相手の方が乗り気でないのでは? 前回も今回も前々回もその前も」
「ふんっ。キミみたいな子犬には大人の機微はわからんよ」
「俺、既婚者ですよ」
「あ、あの! この花! 花の名前を教えてほしいんです! それと、あの、花言葉を……」
あたしはどうにか会話に割って入って、自己紹介をして、事情を話した。
「ああ、それは菊ですね。
ずっと遠くの東の国から最近輸入されたばかりの花です。
だから花言葉はまだありません」
青薔薇……もとい、ラウルさんは、あたしみたいな子供が相手でも丁寧な言葉で答えてくれた。
「そう……ですか……」
それじゃスティーヴンも、花言葉に真意を託したわけじゃないのね。
「さすが青薔薇。即答だったな」
「そりゃあまあ、うちの店にも置いていますから」
言いながらラウルさんが、決して広くはない店内の真ん中の、特別席みたいなティー・テーブルに飾られている菊を示した。
「フレデリック様もお一ついかがです? お母様へのご機嫌取りに。フレデリック様になら特別にお高くしますよ」
「おい、そこはお安くしますじゃないのか? しっぽの件をまだ根に持っているのかい?」
「いえいえそんなとんでもない。ただフレデリック様の性格が全体的に気に入らないだけです」
「ひどいなキミは。細君もひどいヤツだがキミも負けず劣らずひどいな」
そしてフレデリックさんは手で顔を覆って大げさに落ち込んだしぐさをしてみせた。
「冗談ですよフレデリック様」
「わかっているさ、もちろんボクも冗談だとも。ボクを嫌うヤツなんかどこにも居ないとママも言っている」
あー、また話が変な方へ行こうとしてるー。
「あの! これ、本当に同じ花なんですか? あのその、何だか少し違うみたいに見えて……」
あたしはどうにか話題をこっちへ引き戻そうとした。
「同じは同じなのですが……
失礼ですがアニーさんがもらった花束は、花びらに今一つエネルギーが足りないせいで花の形が不恰好になってしまっていて、普通なら売り物にはならないと思います。
日当たりや水の量をちゃんとわかっていない人が育てたんじゃないでしょうか?」
「え……? そうなの……?」
何だろう。
寂しい。
さっきまでキレイだなって思って見ていたはずの花が、急に色あせたように思えた。
「ふむ。それにしてもこの菊とやらは、他に比べてずいぶんと値が張るようだな。ボクへの特別料金を抜きにしても」
フレデリックさんが巻き髭をいじりながら商品の方の菊の花を覗き込む。
「まだ珍しい花ですからね」
「ならばそのスティーヴンとやらは、高い花を贈ればそれだけでアニーが喜ぶとでも思ったのかな?
金が基準になっているのか……
いやいや、若僧ならば、店員に騙されて高い花を掴まされたっていう可能性もあるな」
「そんなぁ……」
あたしは情けない声を上げた。
花束を包む紙が、いつの間にかクシャクシャになってしまっていた。
「なあ、青薔薇よ。菊の花言葉がまだ定まっていないのならば、ボクらで決めてしまってもいいのではないかな?」
「いいんじゃないんですかね? 定着するかどうかはわかりませんが」
大人達が何やらふざけたことを言い出した。
こっちはそれどころじゃないっていうのに。
フレデリックさんはあたしの花束に無遠慮に手を突っ込んで、真っ赤な菊を一本だけ抜き取った。
「まずは手始めだな。“愛”!」
「あ、愛!?」
顔が真っ赤になるのを感じる。
そんなのスティーヴンからもらえない!
「ありがちですね」
ラウルさんがバッサリと斬った。
「そうかね?」
「薔薇全般の花言葉が“愛”です」
「ならば変えよう」
そう言われてほっとしたのも束の間……
「“愛の告白”!」
あたしは突っ伏しそうになった。
「それだと薔薇のつぼみの花言葉です」
「あ、赤いチューリップも同じのですよね!? ほ、他のにしましょうよ!!」
「別にいいだろう。赤はそれぐらいわかりやすい方がいい」
そしてフレデリックさんは少しムッとしながら今度は黄色い菊を引っ張り出した。
「わかりやすいのの次は、ふさわしいのをいくぞ。“軽んじられた恋”!」
あたしは今度こそ本気でひっくり返った。
軽んじてる? 恋を? 誰が?
「黄色い花の花言葉って、ろくでもないのが多いですよね。
黄色い薔薇は“嫉妬”ですし、黄色いチューリップなんて“叶わぬ願い”ですし」
ラウルさんが不満そうに眉根を寄せた。
この人は花が本当に好きなんだな。
「あの、ラウルさんっ、黄色い薔薇には友情って言う意味もあるらしいですよっ」
「そうか。ならば青薔薇よ、今すぐ包んでくれ。キミに贈ろう」
「本当に友情ですよね!? 本当に友情だけですよね!?」
「それより青薔薇よ、最後の色はキミが決めたまえ」
フレデリックさんにうながされ、ラウルさんはしぶしぶという感じで菊の花束に手を伸ばし……
花に触れる前にまず、花束全体のにおいを嗅いだ。
「あれ? スティーヴンってもしかして赤毛の学生ですか?」
「ご存知なんですか?」
「時々肥料を買いにきます」
「何でにおいを嗅いだだけで……」
「種はどうだね?」
あたしをさえぎってフレデリックさんが尋ねる。
「この店ではまだ扱っていませんが、大手の店なら置いているところもあるはずです」
「ふむ。ならばこの菊はその少年が自分で育てたのかもしれないな」
あたしはポカンとなって花束を見つめた。
色あせたように思えた花が、今度はまぶしく輝き出した。
スティーヴンは幼馴染みのケンカ友達。
あたしはスティーヴンのことを何でも知ってるつもりだったのに、スティーヴンが花を育ててるなんてちっとも知らなかった。
結構な時間が経ってから、あたしは開けっ放しだった口を閉じて花束から顔を上げた。
大人達を無視して自分の世界に入っちゃっていたけれど、気まずく思うことでもなくて……
ラウルさんは白い菊を手に取ってまじまじ見つめて考え込んで、フレデリックさんは巻き髭をいじりながらその様子を見守っていた。
店内はシンと静まり返っていて、外を通る人の足音がやけに大きく聞こえてくる。
ラウルさんはまだ考えている。
ロンドンのシンボルの時計台、ビッグベンが鳴り出しても、その音に気を取られもせずにまだまだ考えている。
テンポの速い軽やかなメロディーに続いて、重々しい音がゆっくりと六回響いて六時を告げて、それらが終わって辺りが再び静かになっても、まだまだまだまだ考えている。
「おーい、青薔薇ー! そんなに真剣になるなよー」
さすがに退屈になったのか、フレデリックさんが呼びかけても、ラウルさんは唇を真一文字に結んだまんま、澄んだ瞳を菊から離さなかった。
「青薔薇ー? 花言葉を作ろうなんて、こんなのただの下らない遊びでしかないんだぞー?」
フレデリックさん、あたしだって下らないなってわかってはいるけれど、あたしの花束なのにその言い方はひどいです。
「ラウルくーん! そろそろ腹が減ってこないかー?」
あ。名前を覚えていないわけじゃないんだ。
「可愛い子犬ちゃーん?」
「その呼び方をしていいのはクローディアだけですっ!」
やっと反応が返ってきた。
「青薔薇よ、やはりボクには婚姻というものは理解できんよ」
ラウルさんはそれには答えずに熟考に戻ってしまった。
「あ」
小さな声とともにラウルさんの口もとが緩んだ。
その視線の先、ショーウィンドウの向こうでは、亜麻色の髪をアップに結った女の人が微笑んでいた。
ラウルさんは白菊の花びらの向こうにその人の姿を透かし見て、そしてつぶやいた。
「“真実”」
そしてラウルさんは白菊をカウンターに放り出して女の人を出迎えに扉に駆け寄った。
「あいつも言うようになったもんだな」
フレデリックさんがカウンターにもたれかかって頬杖をついた。
「大人の男の人を子犬呼ばわりするのが真実なんですか?」
「聞くところによるとあれでなかなか甘えん坊だそうで……
うん? いやいや。
前にね、数人が嘘をついて大勢がいいかげんなことを言って、そのせいで彼がボロボロになった際に、彼女が助けてくれたんだよ」
「ふぅん」
二人はあたし達の視線を気にして少しはにかみながら、それでも止められないといわんばかりにキスを交わした。
「あたしとスティーヴンがあんな風になってる姿なんて想像できないわ」
引き抜いた三本の菊を花束に戻しながらつぶやく。
つぶやいた後で気づく。
想像……できなくはなかった。
「“真実”かぁ……」
高い花を騙されて買ったっていうのも、自分で育てたっていうのも、本人が居ないところで勝手にしている想像でしかない。
明日、学校でスティーヴンに逢ったら、本人に直接、訊いてみよう。
だってやっぱりそうしないと本当のことなんてわからないもの!!
あたしは花束の包み紙を指で直して、それからその花束を抱きしめた。
遠い異国から来た花の香りが、あたしをまだ知らない世界へ導こうとしている気がした。
この物語はフィクションです。
菊の花言葉はウィキペディアを参考にしました。
実際に最初に言い出したのが誰だったのかはわかりませんが、定着したということは他の人が見てもそういうイメージだったっていうことですよねっ?
シッポの件ではわざと誤解を招く書き方をしていますが、二人ともそっちの気はないですぅっ。
詳しくは『月なき夜に抱きしめて』本編をご覧くださいませ!!