第二章・王妹は見た!
そのころ、話題のひと、王妹殿下は…。
非常に困った状態になりつつあった。
日の差さない暗い地下、今にも崩れ落ちそうな石組み、交差し複雑に入り組んだ迷路。長いこと歩き続けたせいで足はこわばり、疲労のため意識は朦朧とし、すでに来た道もわからず歩む方角すら定かではない。
端的にいえば地下迷宮で迷子になっていた。
(出口はどこかしら…)
重い足をひきずって、それが正しい道かどうかもわからないまま惰性で歩き続ける。疲労、空腹、のどの渇き、そしてなにより自分がどこにいるのかわからない不安感、このまま同じところをぐるぐる巡り歩いていつしかはかなくなるのではないかというそこはかとない恐怖。
(そもそも出口の定義すらわたしの中で確定してないのにね。たとえ地上に出たとして、見渡す限り人家のひとつもない荒野に出てしまったら今度は地下ではなく地上をさまようことになるだけだし)
暗闇の中、手探りでざらつく石の手触りを頼りに歩き続け、時間の感覚はとうに失せ、王妹は途方にくれていた。
ことのおこりは、日課の城内隠し通路の巡回途中でえらいものを見てしまったことに端を発する。
王妹という立場は、衣食住満ちたり、王そのひとをおいてほかに頭を下げるべき人はおらず、大勢の侍女にかしづかれて何不自由なく生きている…。と思われている。実際その通りだが、実のところ過不足のない生活は変化のない生活と同義である。
王妹はことに、その特殊な生まれから王族としての職務はなく、表舞台に出ることはまったくない。それゆえ年頃を過ぎても社交界に出ることもなければ政略結婚の道具にされることもなく、果たして幸せなのか不幸せなのか割と微妙な雰囲気の中で育ってきた。
繰り返される日常、今日も、明日も、あさってもまた、ずっと昨日の繰り返し。変化といえば四季くらいのもの。そんな生活になんともいえぬ閉塞感を感じた王妹は、いつからか身代わりの侍女を仕立てて侍女のお仕着せを着て城内を忍び歩くようになっていた。
長い年月を経て、王妹はあるとき城内の隠し通路を見つけ、それから注意して城中をくまなく探りつくした結果、多くの抜け道や隠し部屋があることを知った。中には紐を引くと床が抜けて、地下の汚水溜めに直通してしまうようなあからさまな目的を持った仕掛けもあり、また各国のそして国内の密偵が通常業務のため使用するある意味彼らの仕事場とも言える小部屋もあった。また、四方に配置されている塔にひそかに出入りできる通路、城下の、いわゆる男性のとある目的に特化した施設へ直行する通路、下町の空き家に出る通路、貴族街のさまざまな屋敷に出る通路、あらゆる目的のためにさまざまな通路が作られていることも王妹は知ることとなった。
そして今日、王妹は見た。
王の執務室を覗くことができる小部屋。それはさまざまな勢力が利用するので小さな部屋がずらりと連なり、そこでは敵対国家の密偵同士が鉢合わせしても礼儀正しく譲り合ってときにはともに部屋を使用するという暗黙の了解ができている…そんな知りたくもない政治の裏面を見ることのできる部屋である。
そのうちのひとつを王妹は自分用にカスタマイズして、お気に入りの椅子とテーブルをえっちらおっちら運び込み、居心地良く王の仕事を盗み見ることができるようにしつらえていた。なぜか密偵たちも、そこは彼女の特等席であるということを素直に受け入れて、決して無断で入り込んだりはしないようになっていた。
なので今日の兄上さまはご機嫌いかが?と執務室を覗き込んだ王妹は、予想もしていなかったものを見て仰天した。
執務机の王を取り囲む黒衣の武装した男たち。
「何者であるか!」
当然誰何する王。
対するは無言の兇徒。
そこへ身分卑しからざるきらびやかないでたちの貴族が悠然と入ってくる。
「命が惜しければおとなしくわれわれに従うんだな」
芝居か!と思うくらいわかりやすい悪役の台詞。
王妹は迷った。
覗き穴の近くは壁も薄く、蹴破ればそのまま室内に入ることも可能だろう。だが丸腰の女ひとりその場に闖入したところで状況になにか変化があるとも思えない。それ以前に天井を高く採ってある執務室の、さらにけっこう上らへんに位置するこの隠し部屋から執務室に飛びこんだら、それはかなりの高確率で骨折の予感がした。なし、いまのなしで。乱入とかはしない方向で…。
ではどうする?ひそかにここを脱して近衛なり衛兵なりそこそこ剣を使える人物に助けを求めるか。
そこで王妹は首をひねった。
そもそもこんな状況を許すとは、王の警護にある衛兵はいったい何をしているのか。
それは続いて室内に入ってきた新手がわかりやすく教えてくれた。
彼らは血まみれで、そして抜き身の剣をざっしゅざっしゅとぶんまわして血のりを振り落とし、そうして貴族らしい男にこう告げた。
「とりあえず職務に忠実なヤツから順に制圧しました」
その制圧という言葉の意味は聞かずともわかった。
流された血の量が決して少なくないことは、血振りを行う兵士の返り血が雄弁に物語っている。
だがその時点で王妹は楽観していた。
なぜなら…。
「愚弄する気か?そのような軽装で余にいどむとは片腹痛いわ。そなたら、まさか王族の持つ力を知らぬわけでもあるまい…」
王は碧玉の輝石をはめ込んだ指輪が光る右手を上げて…。
これは王が魔術を使うときの初動だ。
しばし間があった。
本来ならば指輪の輝石を中心に、まばゆい光と轟音が室内に満ちるはずだった。それとともに室内の敵を皆殺しにするだろうと思われる王の魔術は…。
「あれ?」
なぜか発動しなかった。
「ええ、無論。あなた方の切り札、問答無用の魔術。知らないわけないでしょーか、きょーび王族と魔術のかかわりは下町の洟垂れ小僧っ子でも知ってますって。そして知ってたら対策するのは当たり前でしょー?」
貴族の男の手には謎めいた金属の塊があった。それが何かはわからなかったが、王妹はその謎の金属塊の造詣にこの国のものではない独自の技術が使われているように思えた。そしてなぜか直感的に、それが王の魔術の発現を阻害したのだと感じられた。
そしてその望まざる直感を裏打ちする貴族の言葉。
「これ、ね。こんな小さくても王族の持つ魔術を無効化する装置なんです。これと同じものを王宮の要所に設置しましたので王宮内ではもう魔術を使うことはできないはずですよ」
「な…なんと!」
魔術を封じられた王は反射的にその謎の装置に手を伸ばした。ありったけの魔力を注ぎ込んで装置を破壊しようとしたのかその真意はわからないまま。
「こっちは剣持ってるって忘れてないですか?」
あっさり黒衣の男たちに組み敷かれ、剣を突きつけられて言葉を失う。
「剣って…こんなに危険だったんだ」
そんな間抜けな台詞とともに気落ちした王は、なすすべもなく黒衣の男たちに引きずられていずこかへと連れ去られた。
残った貴族は新たに部屋に入ってきた手勢に手際よく命令していく。
「とりあえず王族片っ端から塔に突っ込んで、王族かどうかわからなかったらとりあえず突っ込む方向で。有力貴族はすでに懐柔済みだからあまり怖い目にあわせないで、丁重にお帰りいただいて」
男の言葉を聴き終えて、王妹は自らも彼らのターゲットのうちのひとりなのだと…逃げる以外助かるすべがないと悟った。
あとは…。
(敵対勢力に気づかれないよう、そっとこの場を離れて、なるべく誰も知らないような一番使われていないような隠し通路を通ってとりあえず城外に逃げるの前提。できれば城下からも遠く離れたところまで、彼らの手の届かないところまで逃げなければ…。逃げたところで国内にいる味方はなんか確保済みっぽいし、国内にいてはおそらくいずれ捜索網にかかることは必然だわね。万全を期すなら国外に、それも独力で…しかないか。身分を隠したまま国外に…いけたらいいな。っていうか初めての国外が亡命とか…ないわ~)
ややもすれば王妹の思考は散漫になり、どちらかといえばやや現実逃避気味なものとなる。
だが室内にはまだ何人か武装した男たちがいる。彼らは気配に敏感そうだ。
なるべく音を立てないように…。
覗き窓はさきほどどさくさにまぎれてこっそりと閉めた。小部屋から通路に出る扉も同時にあけておいた。壁の上部に設けられた通風口を利用した覗き窓は意外と死角になるので、よっぽど馬鹿なことをしでかさない限りは見つからないはずだ。
あとじさろうとして不意に自分の足が硬い床を踏みしめている感じがしないことに気がついた。まるで真綿の上を歩いているような浮遊感。
あ…。
気づけば椅子のクッションが目の高さにあった。
(これって…ひょっとして腰抜かした?)
腰を抜かした経験などない王妹は狼狽した。
(う、動けない。逃げられない?このままじゃ、いつかあの血だらけの兵士たちに見つかる!?)
言い知れぬ恐怖と非日常感。
(動け!)
いうことを聞かない体に何度も何度も脳内で命令する。
(動け!)
念じるたびにぐるりと視界がゆがみ、目の前が真っ暗になったかと思えば真っ白になり、なにやら変な音が聞こえるかと思えばそれは自分の呼吸音であったり。
(なんか息苦しい…でもさっきからうるさいくらい呼吸音が聞こえる…なぜ?もしかして、この部屋に毒ガスが…?)
まあ正確にはそれは過呼吸と呼ばれるものであるわけだが。
王妹は見事にパニックを起こして、複雑に入り組んだ隠し通路をひたすら暗いほうに、ひたすら低いほうに、逃亡本能に突き動かされてこの場から離れることだけ考えて逃げた。抜けた腰の代わりに恐怖が王妹を動かしていた。
結果、迷った。