第二章 始まりの眠る森〈1〉
昼前にリューレ神殿を発ったセルフィナたちは、その日の夕餉時にはコーマス村まで戻っていた。
一日ぶりにコーマス村で感じる平野部の温暖な空気が肌に心地いい。既に陽も地平の向こうに隠れたというのに、暖かく思えた。
都合よく、行きに利用した宿に部屋を取ることができた。四人はその足で、近くの食堂へ夕食を取りに出掛けることにした。
道中、ヘレンは村の景色を物珍しそうに眺めていた。
「リューズナとは随分雰囲気が違うだろ」
セルフィナはそう声を掛けた。
「この世には私の知らないものが、まだまだたくさんあるのだと恥ずかしくなります」
彼女は本当に恥ずかしそうに肩を竦めた。見るからに純粋そうなその仕草は、同性のセルフィナさえも可愛らしいと感じるものだった。
「神官って、あんまり外へ出歩く印象ないもんな」
「そうですね。私は十二歳で神官を志してリューレ神殿に上がりました。今年で六年になりますが、外へ出るのはたまの遣いくらいです」
「それじゃあ、リューズナからも、ラーシオン王国からも出たことないんだな」
聞き返すと、ヘレンは「ええ」と頷いた。彼女のように、自ら望んである種の閉鎖された世界に入る者もいるのだとセルフィナは感心していた。
行きにも利用した食堂に入った。
「コーマスでは四ヵ国どの国の料理も食べられますよ」
席に着くと、フローディアがますます落ち着かない様子のヘレンにそう声を掛けた。
「まあ、そうなのですか。それは大変ありがたいです」
生真面目を絵に描いたようなヘレンにとって、目新しいものに挑戦するのはなかなかに勇気のいることなのだ。それをおして国から出たのは、彼女には大冒険だった。そういった緊張もあってか心底ほっとした様子を見せた。
行きと同様に、フローディアとアルフレッドはグリーンラームの料理を、セルフィナはヴァルカスの料理を注文した。ヘレンは勿論、ラーシオンの料理だ。
各々の料理が揃い、食事を始める。
セルフィナが鶏肉を使うことが多いヴァルカスの料理の中でも一番好きなほのかに酸味のあるトマトで煮込んだ一皿に舌鼓を打っていると、隣の席で商人風の男二人が気になる会話を始めた。
口を動かしながら、聞き耳を立てた。
「私が生地を納めている仕立屋から聞いた話なんだが、ヴァルカスの王女、替え玉らしい」
「替え玉?」
「王妃と第二王女は仕立ての打ち合わせに姿を見せるのに、第一王女はとんと姿を見せなくなったそうだ」
「第一王女って、前からあんまり人前に出ないじゃないか」
「でもよ、親の代から王室に出入りしてるような仕立屋だぜ」
「じゃあ、王女の小さい頃から顔を知ってるわけだ」
「そう。だから、王女が着た姿まで計算して仕立ててる。だが、遠巻きにも違和感があって気が付いたみたいだ」
「そいつは凄い目利きだな」
「代々王室御用達ともなると違うな」
「となると、国王が懸賞金まで掛けて、密かに何かを家臣に探させているって噂は、王女のことだな」
「まず、間違いないな」
そこまで聞いて、セルフィナは自分の耳に蓋をした。
いつかどこかから、こんな話を聞くかもしれないと覚悟はしていた。が、あまりにも不意で、言い表しようのない不安に彼女の頭の中はまるで空っぽになったかのようだった。
最初に替え玉だと言った男の取引先の仕立屋にセルフィナは心当りがあった。
母が贔屓にしていて、普段の衣装から行事用の衣装までの一切を任せているところだ。一度袖を通した物は、侍女たちに払い下げると決められているので、仕立屋はかなりの頻度で出入りしてる。
普段から男物の服を着て動き回っていたので、彼女がおとなしく仕立屋のいる場で採寸されていたのは、年齢が二桁になる頃までだっただろうか。
それ以降は予め乳母にちくちくと咎められながら採寸した数値に基づいて、母が適当に見繕ったものを数着あつらえることが殆どだった。それでも、行事用の衣装はそういう訳にもいかず、母と妹とともに仮縫いの席に出たので、セルフィナも仕立屋の顔は知っていた。
替え玉の娘もすぐに察しがついた。フローディアとマリッタほど似てはいないが、よく見知った者でなければ気付かないくらいに似た娘を、セルフィナ自ら選んで採用した。
父に居場所が知れるのも本当にそう遠くない未来なのかもしれない。そんな不安にセルフィナは隣を一瞥した。温野菜を噛っていたアルフレッドが視線に気付いて振り向いた。
「なんだよ。今日は取らねえから心配すんなって」
行きの横取りを根に持っていると勘違いしたようだった。セルフィナは「そ、よかった」と話を合わせて、器の中の料理に意識を戻した。
しかし、どうも食欲が失せてしまった彼女は水を飲もうと顔をあげた。手を伸ばした先で、アルフレッドの向かいに座るフローディアと目が合った。
彼女も隣の席の話を聞いていたらしく、物言いたげにゆっくり二回瞬きをした。
見付かったら、その時はその時と言いたげな仕草だった。セルフィナは頭では理解していることを示すため、伯母に微笑みを返した。
翌朝、コーマス村を出発すると、王都街道を外れて、地方の町へと続く道に入った。先へ進むほどに人家や建物はまばらになり、のどかな青い草原の広がる景色に変わっていく。
ときおり、草むらから鳥たちが空に群れを成して飛び立ち、野うさぎなどの小動物が軽快に駆け回る姿が見られた。
「ここから先は宿場町もありませんから、今日、明日と野宿になりますよ」
唯一、目的地を知るフローディアを先頭に進んでいると、突然、当然のことのように彼女言った。
騎士団の野営訓練で慣れているセルフィナは「はいよ」と、軽く受け答えた。アルフレッドも同様に、ただし、丁寧に了承の返事を返していたが、ただ一人、ヘレンだけが「野宿、ですか」と難色を示した。
「心配ないよ、ヘレン。夜間は俺とアルフが交代で見張りをするから」
愛馬を操って彼女の隣を伴走し、不安そうな彼女を宥めようとセルフィナは笑顔を向けた。
「はい。自ら望んでお供しておきながら、申し訳ありません」
力なく微笑みを返し、ヘレンはそう詫びた。不安を露にしたことを恥ずかしく思ったようだった。
ヘレンはラーシオン王国の貴族の生まれだった。階級は真ん中より下だったが、それでも暮らしの向きは庶民とはかなり差がある。
まして、常に品のいい立ち居振舞いの彼女は、こんなことでもなければ一生、野宿など無縁のものだっただろう。不安を感じるのも無理からぬことだった。
日暮れ間近には野宿に適した場所を探した。馬を繋いでおける木に手綱を結わえ、火をおこす。各々で携行食の夕飯を済ませ、馬の背に積んであった毛布に身を包んだ。
最初の見張りのアルフレッドを残し、セルフィナたち三人は眠りの淵に落ちていった。
どのくらい眠っただろうか。
焚き火にくべられた枯れ枝が弾ける音に、セルフィナは瞼を開けた。
夢うつつで、視線を辺りに彷徨わせる。朧気な視界の中で、赤々と燃える火に照らされたアルフレッドの横顔を見付けた。
十代最後の年齢になり、この頃の彼は急に大人びた顔付きになった。
たった二つしか違わないのに、セルフィナはなんとなく、置いてきぼりを食らっているように感じていた。
炎に照らされオレンジみを帯びた彼の鳶色の前髪が、時々そよぐ風にふわりと揺れた。それを邪魔そうに撫で付けるしぐさに、セルフィナは胸が苦しくなった。頬が熱くなり、心臓が力強く脈を刻む。
これが、ときめくという感覚なのだ。初めはよくわからなくてもやもやしていたが、今でははっきりとその正体を彼女は理解していた。
セルフィナは、性別とは、人間を二種類に分ける面倒なものとしか思っていなかった。
幼い頃から、父に「お前は女だが、長子として生まれた以上やらねばならぬ」と強いられてきたことが彼女には山ほどあった。ことあるごとにそう前置かれるのが苦痛で、男に生まれていればと歯がゆく思ったのは数え切れない。
だが、こうしてアルフレッドの姿に胸を高鳴らせている己の中で、そういった軋轢が脈打つ度に少しずつ氷解していく実感があった。
ぼんやりとアルフレッドの姿を眺めた。
彼は自分の手を見詰めていた。
騎士団の男たちは毎日武器を手にするからか、無骨な手をしている者が多いのだが、彼の手はすらりとして綺麗だ。
その手の中に、きらりと光る物が見えた。片方の手には金属を磨くための布が握られていた。
両親を捜す手掛かりの金属板を磨いているようだ。
たまに磨かないと黒ずんでしまうのだという。銀で出来ているのだろう。
ふと思い立って、セルフィナは彼を驚かさないように、そっと起き上がった。
毛布から脱け出すと、夜の空気はことのほか冷たくて思わず身を震わせた。
すぐに焚き火の側へ行き、アルフレッドの隣に腰を下ろした。
「もう少し寝てていいぞ」
他の二人の眠りを妨げないように、彼は小声で言った。
セルフィナは返事をする代わりに、彼の肩に頭を預けた。
「なんだよ、珍しいな」
「悪いかよ」
アルフレッドは「いいや」と控えめに、笑うような声を立てた。
頭はそのままに、視線だけを彼に向けた。そして、金属板を持つ手に、セルフィナは自分の手を重ねた。
「最初の日さ、フローディアがアルフの両親を捜すの、手伝ってくれるって言っただろ」
そう、切り出した。
「あぁ、断ったけどな」
「あれさ、やっぱり頼んでみたらどうかと思うんだ」
セルフィナの言葉に驚いた様子で、彼は目を見開いた。
「いや、でも、いまさら……」
彼が渋るのは当然だった。
フローディアは君主の妃。そんな相手に一度断っておきながらそれを覆すなど、無礼と感じるのも当然だった。
騎士たちは皆、国王への忠誠心が厚い。勿論、彼もそうだ。だから、王妃に対しても国王同等の敬意を払う。
だが、セルフィナはそれでも押し通したい、ある期待を持っていた。
「アルフ、これ、銀製だろ」
アルフレッドは「放っとくと黒ずんでくるしな」ときょとんとしていた。
「銀製品に生まれてすぐの子の名前を彫って持たせられるくらいの家柄、ってことだよな」
言葉は発しなかったが、言われて初めて、彼はそのことに気付いたようだった。
「捜しちゃいけないなら、わざわざそんな手掛かり残さないと思うんだ」
「でも、向こうが会いたいかどうかは別だろ」
「名乗り出られないだけかもよ」
アルフレッドは腑に落ちないといった表情だった。
もしも、彼が本当になにがしかの身分のある家の子なら、名乗り出られない理由は山ほど考えられる。
使用人に手をつけて出来た子をめぐり、奥方と揉めて里子に出した話など、貴族の間にはままあることだった。
万が一、直系の子孫が途絶えれば、そういった子に白羽の矢が立ち、呼び戻されることもある。
彼の銀板もそういう可能性を示すものだと、セルフィナは考えていた。
「名乗り出られないようなもんを捜してどうすんだよ」
彼は呆れたと言わんばかりに溜め息を吐いた。
その肩にセルフィナは甘えるように頭を擦り付けた。
「俺の親もさ、俺のこと捜してると思うんだ。見つかったら、勿論連れ戻される」
アルフレッドは黙ってしまった。
彼には貴族の娘と嘘をついているが、それでも、今のところ全く出自の分からない彼との身分差は明白だった。
長い沈黙の後、アルフレッドは肩をずらし、セルフィナの頭を抱えるようにして髪を撫でた。
「そうだな。陛下に、お願いしてみようかな」
ぽつり、ぽつりと彼は一語ずつ、自分の気持ちを確かめるように言った。
コーマス村での噂話が頭にこびりついていたセルフィナは、いつか、父に居場所を突き止められてしまうかもしれないという焦りに似た気持ちも手伝って、自分の気持ちを押し付けすぎてしまったのではと不安になっていた。
しかし、すぐにアルフレッドは「親がどうであれ、俺は騎士団で上を目指すよ」と微笑んだ。
入団満三年を過ぎてから受けられる年に二回の昇格試験に備え、彼が陰ながら努力しているのは彼女も知っていた。
彼は彼なりに自分の足で立っているのだ。そう思うと、セルフィナは出奔という強行手段までとっておきながら、父の、国の、そして身分という呪縛から抜け出せない自分を情けなく思った。
きっと、これも次期君主として施された教育の賜物なのだろう。
そんなことなど、これっぽっちも知らないアルフレッドの温かい指が顎に優しく触れた。
「昇格試験、合格しろよ」
焚き火に明るく照らされた彼の瞳を見上げてそう言うと、セルフィナは軽く瞼を閉じた。




