第四章 鏡の魔女〈5〉
妹を無事に救出し、安堵から心が晴れやかになったのは束の間のことだった。王都セーバリストの城へと帰り着けば、姉と妹とであからさまに違う扱いに、セルフィナは紛々たる思いを持たずにはいられなかった。
父、ルース王は目を潤ませ、第二王女リアナの帰還を喜んだ。
そうして、セルフィナには「よくやった」とただ一言、声を掛けただけ。
しかも、伯母のフローディアがいるのもあり、謁見室での応対だった。
すっかり放置になってしまった一同を気遣い、母セシリアが「みな疲れたでしょう。今日はゆっくり体を休めなさい。義姉上さまも、どうぞお疲れを癒やされてくださいませ」と労って下がらせた。
謁見室から出ると、セラムが「同じ娘なのに」と眉尻を下げて嘆息した。
「仕方ないさ。親父にとって、俺は娘であって娘じゃない」
歩きながら、一瞬、瞼を閉じて、セルフィナはゆるゆると首を左右に振った。長い亜麻色の髪が動きに合わせて揺れる。
その様子をオルフェが切なげな瞳で見詰めた。
「姫様が逃げ出したのも、解る気がするよ」
消え入りそうな声の呟きに、セルフィナは乾いた笑いで答えただけだった。
「そういえば、セルフィナさん、魔術が使えるんですか?」
気まずい雰囲気にしてしまったばつの悪さも手伝って、セラムが取って付けたように思い出したことを口にした。
「ああ、そうだな。俺も全然知らなかった。一体いつの間に?」
頷きながらアルフレッドも聞く。
魔術を使ったといっても、結局は失敗に終わった訳で、セルフィナは恥ずかしさの余り耳まで紅潮させ、「や、フローディアからほんの少し教わって、せっかくだから実戦で試してみたかったってだけで」と手を振った。
「試し打ちするような状況じゃなかっただろう」
時間稼ぎを押し付けられただけだったと知って、アルフレッドは肩を怒らせた。
「アルフレッドの言うとおりです。第一、わたくしがあなたに教えたのは理論だけで、実戦に到底使えるような内容ではありませんよ。本もいくつか貸しましたけれど、そんな俄仕込みで使えたら誰も苦労はしません」
追い討ちを掛けるように、フローディアの呆れを含んだ叱責が飛んだ。
「はい、すみません」とセルフィナが小さくなっていると、「それから」とフローディアは続けた。
「あなたの描いたあの図案ですが、配置が右と左、逆でした」
指摘されてみて、セルフィナはいま一度、自分の描いた図案を思い出してみた。そして、「ちえ、付け焼き刃じゃ駄目か」と、その場にしゃがみ込んだ。
その様子に一同が苦笑する。
くすくすと笑いながら、「でも、学び始めほどそういった間違いを犯しやすいのですよ」と、フローディアは付け加えた。
「描き間違いによる失敗こそが、古典的な魔術が廃れた一因です。描くのに掛かる時間、間違いを修正する時間の無駄も大きい」
「確かに」
セラムが頷く。
「だから、フィーラみたいに直接魔方陣を描かなくてもいい方法ができたんだろうな」
「極端に言うと、一瞬で済んだりしますからね」
セルフィナとセラムが納得しあっていると、置いてけぼりを食った体になってしまったアルフレッドが「直接描かないってどういうことだよ」と説明を求めた。
「自分の名前を頭の中で文字にして思い浮かべてみろ」
「あ? ああ」
セルフィナの言葉に、アルフレッドは視線を少し上の宙にやった。
言われたとおりにしてみたところで、「……で?」と続きを促す。
「その要領で魔法陣を頭の中で描く」
「そんなことで?」
「ああ。その方が実際に魔方陣を描くよりも遥かに早いだろ。ただし、具現化していない魔方陣から魔術を具現化させるわけだから、頭に中にはっきり魔方陣を描けるのが大前提だし、相当に高い集中力と魔力が必要っていうわけさ」
「なるほどな。それなら俺でも理屈だけは理解できる」
そこから先は、聞いたところで混乱するのが関の山と踏んで、アルフレッドは口を挟むのをやめてしまった。
「でも、あれだけ古典的な魔術を馬鹿にしてたフィーラが、オルフェが魔力を吸収した後、血の儀式をするって口走ってたけど」
実際に血の儀式をしたことのあるセルフィナだが、よくわからなかった。古語の呪文や媒介など、最盛期の施術方法で代用できるようなものだろうか。鏡の魔女の魔力は、割るという行為でオルフェが吸収した。そちらの方が稀な事象だったのだろうか。
「セルフィナは知っていると思いますが、あれは古典魔術の中でも特殊で、いくつも手順を踏まなくてはいけないので最盛期の魔術では代用できないのです。対象者の血を使うのはまさにそうですね。おまけに、媒介を作るところから始めなくてはならない。それの成功率も約束されたものでない。いえ、その前に、もう今では媒介を作る方法を知る者など殆どいない筈」
フローディアが不安げに柳眉を寄せた。
その様子に、セルフィナも同じように不安を抱かずにはいられなかった。
血のように赤い髪のフェニア。フローディアの姉の顔を思い出していた。
魔女にまつわる事件は、もうこれで終わり。そう確信が持てずにいた。
グリーンラームへ帰る朝がやってきた。
帰り支度を整え、セルフィナの部屋に集まっている恩人たちへ、リアナが別れを告げに訪れた。
「伯母上さま、皆さまには心から感謝しております。どうぞ、お帰りの道中、お気を付けて」
すっかりと気力も回復し、元通りの薔薇色の頬に可憐な笑顔で、リアナは感謝の言葉を述べた。
「ありがとう、リアナ」
フローディアが笑顔でリアナの気遣いに答える。
室内には穏やかな空気が流れていた。
「さあ、そろそろ……」
セルフィナがその空気を敢えて掻き消すようにそう促すと、リアナは「お姉さまは、もうどこへもいらっしゃらないのでしょう」と、ひしとセルフィナの腕に抱き付いて、つぶらな瞳を潤ませた。
それをやんわりと引き離すと、「一旦グリーンラームへ戻る。きちんと仲間に別れを告げて、退団の手続きもしないといけないからな」と、自分に言い聞かせるように告げた。
そもそも、父、ルース王との約束は大臣の一件が解決するまでだった。リアナが拐われなければ、あのまま、ラリンスで退団手続きをとっていた筈だった。取るものも取り敢えずで飛び出してきてしまったから、セルフィナはまだグリーンラーム王国騎士団に在籍のままだ。
「そんな顔をするな。父上と交換条件でした約束を反故にはしない。ちゃんと戻るさ」
蜂蜜のように艶やかに輝く妹の髪を撫で、セルフィナは諭した。
こくりと一度、首を縦に振り、リアナはそれ以上我が儘を言うのを控える。
姉妹の会話が終息したのを見計らい、「さあ、帰りましょうか。グリーンラームへ」と、憂いを帯びた声で、フローディアが一同を促した。
来た道をのまま辿り、グリーンラームの王都ラリンスへ戻った。同じ道、同じ距離、同じ時間を掛けて戻ったというのに、行きに比べ、帰路に要した時間は不思議と短く感じられた。
帰り着いたラリンスの王城は、大臣逮捕の慌ただしさもとうに鎮まり、平穏を取り戻していた。
城下での若者襲撃もぴたりとなくなって、王都らしい華やかさで賑わっていた。
そして、みな、それぞれの場所へと戻っていく。
セラムは今度こそ、王城内の客間から暇請いをし、襲撃を受けて以来の自宅へ。
オルフェはフローディアの慰留通り、マリッタとともに王妃付きの侍女として留まることになった。ただし、いずれはヴァルカスへ戻り、王都セーバリストに孤児院を開くのだという夢を持って。数年はしっかりとフローディアに仕えると、澄んだ空のように青い瞳を輝かせた。
フローディアは言うまでもなく、王妃としての生活に戻る。
アルフレッドも、王国騎士団の班長の生活に。
そして、セルフィナは父との約束を守り、また、ヴァルカスへ取って返す。ヴァルカス王国第一王女としての生活に戻るために。
それはつまり、アルフレッドとの別れの時を迎える、ということでもあった。
その時は、刻一刻と、二人に迫っていくのだった。




