第四章 鏡の魔女〈4ー2〉
セルフィナとアルフレッドは二人でフィーラの前に立ちはだかった。フローディアたちが何をしようとしているのか知るよりも、とにかく、フィーラに邪魔をさせてはならない。
「お前たちもろとも、吹き飛ばしてくれるわ」
薄ら笑いを浮かべるフィーラの周りに無数の風の渦が発生する。それらは互いを呑み込んで大きくなっていく。
本流にうまく吸収されなかったいくつかが、流れ矢のように弾き飛ばされ、セルフィナとアルフレッドの方へと飛んできた。掠められた服や肌が、細く切れる。
頬に出来た傷口に滲む血を手の甲で拭って、セルフィナは細身の長剣を握り直した。石畳の床に切っ先を押し当て、力を込めて引く。石と金属の擦れる不快な音が風の音に紛れて響き、剣を引いた跡がそれとわかる程度に床に付いていた。
「いけそうかな」
独りごちて、セルフィナは続けて剣先で床を傷付け始めた。
その様子を横目で見ながら、アルフレッドは無数の風の渦をひたすら叩き潰していた。
「魔術の真似事か」
フィーラが嘲笑う。
それを聞いて、アルフレッドが「ったく、姫様はなんでもありだな」と渦の群れと格闘しながら悪態をついていたが、セルフィナは返事もせずに、床に線を引き続けた。
「みんな忙しそうなんで、俺が相手するぜ」
挑発するようにアルフレッドがフィーラの手中の短剣を剣先で指した。
「ふん。乗るか」
にたりと笑って、フィーラが短剣を持ったままの腕をふわりと横に払うと、いくつもの小振りの風の渦がアルフレッド目掛けて飛び掛かる。
勿論、彼はそれをなんなく、なぎ払った。
その瞬間、ほんの一瞬だが、風の渦の量が減った。アルフレッドに投げ付けたことによる減少ではなく、その場でふっと消えた渦があったのを、アルフレッドは見逃さなかった。
「腕に覚えがあるんだろ」
振り切った剣の反動を利用して、元の位置に構え直す。
「見え透いた挑発で、私が魔術を使う邪魔をしようという魂胆だろうが、そこの姫君の古典的な手法と一緒にしてくれるな」
失笑とともに、フィーラは頭上に大きな風の渦を完成させた。反動を付けるためか、両腕を後ろに引いた。
その瞬間、アルフレッドはフィーラに向かって走り出す。
フィーラが腕を前に凪ぐのと、アルフレッドが体当たりをするのとはほぼ同時だった。風の渦は真っ直ぐ正面にいるセルフィナに向かって進んだ。だが、体当たりの効果で、僅かに直撃を避ける位置を突き抜けていった。
しかし、風圧は十分にセルフィナを後方へ弾き飛ばすだけの威力があった。あっさりと石畳に体が叩き付けられる。
「ちっ、失敗かよ」
投げ出された石畳の床から顔を上げ、乱れた髪を掻き分けると、セルフィナは自分の描いた魔方陣を見た。衝撃を緩和してくれる筈だった。図案がどこか違っていたのだろうが、それがどこだかさっぱりわからなかった。
早々に立ち上がって、体勢を立て直しているアルフレッドに続くように、床に膝をついた。体当たりを受けて転倒したフィーラも、既に黒い外套を翻し、立ち上がっている。
視線の先に、取り落とした剣が転がっていた。四つん這いになって剣に手を伸ばした時だった。
突然、セルフィナたちの背後を強い風が吹き抜けた。
「あれは……、まさか!」
フィーラが狼狽した声を上げる。
その声に顔を上げると、フィーラは真っ直ぐに一点を見詰め、青い瞳を凍り付かせていた。
「なんだ?」
セルフィナとアルフレッドはフィーラの視線に釣られて、見詰める先に振り返った。
猛烈な勢いの風がオルフェを包み込んで渦巻いていた。風の出所は鏡だ。始めは大きくオルフェの周りを取り巻いていたが、目を奪われているうちに、後方の大窓へと吹き抜けていった。
「あの女……私を謀ったのか!」
フィーラの怒りに満ちた声でセルフィナは我に返り、向き直った。フィーラは風を集め始めていた。その勢いはいままでよりも更に増している。
「謀る? どういうことだ」
「とぼけるな! あの女、とんだ役者だ。まんまと魔女の魔力を奪われた」
「そんなわけないだろ」
セルフィナの言葉に、怒り心頭のフィーラは「うるさい!」と、両腕を大きく後ろに引いた。
「こうとなれば、あの女で血の儀式をしてやる。お前たち、邪魔だ!」
渦巻く空気がその動きに併せてフィーラの方へ僅かに後退する。
足の裏でしっかりと床を捉えながら、セルフィナはフィーラの言葉に片方の眉を引き揚げた。
血の儀式と言えば魔力を吸収する方法だ。血の魔女、つまりはフローディアの姉が恐ろしい儀式に作り替えたものだ。が、フィーラが小馬鹿にする古典的な魔術でもある。
「散々、古典的な魔術を馬鹿にしてたくせに」
腹立たしさに吐き捨てた。だが、立腹している場合でもなく、次の手を考えなくてはとセルフィナはすぐに思考を巡らせ始めた。
そこへ、窓から強い風が吹き込んできた。それは、フィーラの前でつむじ風のごとく滞留し、見る見るうちに人の姿を模していく。
女の姿形に纏まったそれに、「……魔女」と、誰からともなく、そんな言葉が出た。
女の姿を象った風は、フィーラの方へ顔を向けて、ひょうひょうと音を立てて佇んでいた。
思いがけない事象に、フィーラさえも呆気にとられていた。その証拠に、あれだけの勢いで集めた風は霞のように空中に拡散されて消えてしまった。
辺りに響くのは、女の形の風が立てる音だけ。
「……わたしの、まりょくが、ほしいか?」
旋風の音の合間から、はっきりとした女の声が響き、フィーラにそう尋ねた。
目の前で起きている現象に、フィーラは目を見開き、興奮気味に肩を上下させていた。魔女の形を崩すことなく、風は高速で渦巻き空を切る音を立てていたが、フィーラが答えないでいると、再び「わたしの、まりょくが、ほしいか?」と声を発した。
二度目の声に、フィーラは我に返って、数度瞬きをした。そして、「勿論だとも。そのために、私はより高度な魔術を学んできたのだから」と、魔女の形に詰め寄った。
魔女の形は更に「わたしの、ちからを、えて、なんとする?」と質問を重ねる。
「いま一度この世界に魔術を栄えさせたいのだ。魔術を、魔女を、蔑ろにする奴らを、奴らの忌み嫌う魔術で平伏させるのだ」
「よかろう」
魔女の形は答えると同時に元の風に戻った。それも束の間、一瞬にしてフィーラを包み込んだ。
セルフィナたちはみな、ただ息を呑んで成り行きを見守るしかなかった。
だが、暫くして、風の中で、ぱさりと床に何かが落ちる音がした。音のした辺りへ視線を落とすと、黒いものが広がっていた。
フィーラの外套だった。
やがて、風は、消えた。
フィーラの姿もろともに。
「どうなったんだ……」
アルフレッドが呆然と床に無造作に広がる外套を見下ろして呟いた。その外套に、フローディアが近づき、そっと端を摘み上げた。すると、外套の下から黒い煙が一筋立ち上り、空気中に溶け込むように散っていった。
狐に摘まれたような気分で、みな、思い思いに辺りを見回してみるが、外套以外のものは何も、この空間には残ってはいなかった。
沈黙が流れ、室内はしんと静まりかえっていた。
窓から望む空の青さが、不釣り合いに清々しい。
「闇の力に、呑まれてしまったのですね」
思考の落としどころとして、フローディアがそう呟いた。
「じゃあ、王妃様。あたしが鏡の魔女の力を受け入れるってのは、失敗だったんですか」
オルフェが首を傾げた。
そのオルフェをゆるりと観察して、同じようにフローディアも暫し首を傾げた。
「でも、確かに吸収できていますよ。あなたも実感できればいいのですが。セラム、あなたはわかりますか?」
不意に名指されて、一瞬、目を瞬かせたセラムだったが、やはりオルフェを観察して、「はい、陛下。確かに、陛下のおっしゃる通りです」と答えた。
「全く、俺には理解できない世界だな」
頭を掻きながら感想を述べるアルフレッドの横で、セルフィナは閃いたと言わんばかりに手を打った。
「どうした」
突然の行動にアルフレッドが目を丸くする。
「前に、俺がフローディアで血の儀式をやったとき」
「ああ、そう言えば、そんなことがあったな。入れ替わってた魔力をお前が吸収することで、って、なんだかややこしい話だったっけ」
「あれの時そうだったけど、全ての魔力を吸収しきっちまう訳じゃなかった」
そこまで聞いて、フローディアは何かを得心した様子で大きく頷いた。
「なるほど。つまり、最低限残った魔力が先程の魔女の形だった、というのですね」
「ああ。で、さしずめ、それに含まれてた闇の力に呑まれちまった。ってとこか」
「だったら、元の魔女にも最低限の魔力が残った筈だよな? それでもそこから更に残ったっていうのか?」
なんとか話に追いついていこうとアルフレッドが首を捻る。
「その辺りはなんとも言えませんけれど、大きな違いは、元の魔力の持ち主が存命中か否か、ということですね」
「オルフェさんに吸収されなかった部分の魔力は、鏡が割れて留まることができなくなった。魔女の魔力を欲しがっていたフィーラを新たな寄生先にしようとしたが、闇の力に耐えられず、諸共に消えた。そんなところですかね」
フローディアの言葉を受けて、セラムがまとめる。
「解ったような、解んねえような……。なんにせよ、終わったってことだな」
顔を顰めて呟きながら、アルフレッドは剣を鞘に収めた。
「そういうことです」
フローディアが穏やかな顔つきで、部屋の奥に微笑みかけた。
セルフィナはその方向へ身を翻す。
「帰ろう、リアナ!」
壁際に佇んでいる妹に、そう、呼び掛けた。




