第四章 鏡の魔女〈4ー1〉
セルフィナの背に隠れて、リアナは酷く怯えていた。平和に、ごく純粋に養育されてきた彼女にとって、フィーラの語った内容は聞くに耐えないものだったようで、セルフィナの腕を掴んだ細い手指が、寒さに凍えるが如く小刻みに震えていた。
いたたまれないほどに震える妹を安心させようと、掴まれている腕の反対の手で指先を包み込んでやる。氷のように指先が冷たい。
そうやって、妹の手の冷たさを感じつつ、フィーラの背後から二人の遣り取りを見守っていると、辺りの空気が動き始めた。それは、部屋の両側の大窓から流れ込む空気とも、吹き抜けていく風とも違っていた。塔の中のこの室内にのみ滞留し、セルフィナたちの髪をも宙に躍らせていた。
「魔術……?」
セルフィナの口から、自然とそんな言葉が出た。
「お姉さま、あの者が魔術で風を?」
「ああ。だが、私が以前に見た魔術とは様子が違う」
ますます腕に縋りついて訊く妹に、庇う体勢を崩さぬままセルフィナは答えた。
セルフィナが魔術を初めて目の当たりにしたの二年前。フローディアの姉、フェニアが操る図案を描いて施される形式のものだった。後日、その図案には、魔方陣という名称があることを知った。
しかし、今、目の前で起きている現象に魔方陣はない。セルフィナにはその理由は分かっていた。
「最盛期にできた魔方陣を描かなくても魔術が使える方法なのか」
セルフィナは自分の学んだ記憶を確めるように呟いた。長らく続いた魔方陣を描いての魔術は、時を経るにつれ、施し方は多岐に渡るようになっていった。
フィーラが魔術で起こしている風は、そんな数ある方法のひとつをとっているようだった。
風はやがてフィーラの周りで渦巻きはじめ、オルフェに向かって放たれた。
セルフィナの背後でリアナが短く悲鳴を挙げ、ひしとしがみついた。そのせいで、咄嗟に剣に手を掛けて飛び出そうとしたセルフィナの動きは封じられる。
「リアナ、放すんだ。オルフェに加勢しなくては」
けれど、リアナは固まったように、宝石のような緑色の瞳を大きく見開いたままフィーラの背中を凝視していた。その視線の先では、既に新たな風の渦がオルフェとセラムに向かって放たれようとしていた。
「まずい……」
セルフィナはそう舌打って、ついに腕にしっかりとしがみついている妹を引き剥がした。姉の行動にリアナは一瞬にして今にも泣き出しそうな表情になる。薔薇色の頬は色を失って青白くなっていた。幼い子がいやいやをするように、何度も首を小さく左右に振るその肩に、セルフィナは両手を添えて壁際に追いやると「リアナ、ここを動くな」と、強い語調で言い聞かせた。
「お姉さま!」
妹が恐怖にうち震えた声を挙げたが、セルフィナは構わずフィーラに向かって駆け出した。
フィーラは二度目の風を投げつける。動作の途中でリアナの声を背で聞いていたようで、無策のままに突撃したセルフィナの体当たりをひらりと躱した。
「ふん。そんなことで私の手元が狂うとでも思ったか」
後ろにも目がついているのではと思う程の動きだった。嘲りの笑みをセルフィナに向け、フィーラは闇色の外套の下から短剣を抜いた。
構え方を見れば、それが素人のものではないとひと目で分かった。
高度な魔術を操りながらも剣の心得まであるなど、予想外だった。応戦するならばフィーラと同じような短剣よりも間合いのとれる細身の長剣かと素早く判断し、セルフィナは剣を抜く。にもかかわらず、遅れをとってしまった。フィーラが魔女だという先入観が全くもって災いしていた。
突進した後の、振り返りざまの低い姿勢のままに動いたセルフィナの長剣はあっさりとなぎ払われ、弧を描くように軌道をとって、鋭く光る短剣が振り下ろされる。まさか自分がこんな形で不覚をとるとは、とセルフィナは息を呑んだ。
だが、そのセルフィナの目の前を下から上に横切る物があった。フィーラの短剣は澄んだ音とともに跳ね上がる。
「アルフ!」
「お前はやることが雑だな」
アルフレッドだった。彼は剣を握り直し、嘆息とともに青い瞳でセルフィナ見下ろしていた。
「うるさいな」
片手を差し伸べて、軽々と引き上げてくれる彼にセルフィナは悪態をついた。
とはいえ、図星だった。たったいま現れたばかりだというのに、アルフレッドは的確に判断して窮状を救った。無闇に声を掛けたりせず、かろうじて危なくない距離で剣を通過させるのにも成功している。もし、名前を呼ばれでもしたら、振り向くなどしてしまい、彼の剣で負傷していただろう。
不意に彼の声を聞いて反応せずにいられるわけがない。残念ながら、このような緊張を強いられる場面においても、理解できている自分と、にもかかわらず、無意識に従えないでいる自分が混在しているのをセルフィナは自分でも知っていた。恐らくは、アルフレッドも解っている。
セルフィナはいま一度、気を引き締め直そうと首筋を引き伸ばし、凝りを解すときにするように頭を左右に傾げた。
第一、フィーラも気付いて難なく躱し、反撃していた筈だ。自分が不覚を取るに至った状況など、まさしくそれなのだから。滞っていた血の巡りが良くなったのか、思考も回復する。
「随分早く追いついたじゃないか」
「ああ。半日遅れぐらいだったし、お前の側近が周到に準備して置いてくれたからな」
「ふふん」
よくできた側近を褒められ、セルフィナは自分が褒められでもしたように得意げに鼻を鳴らした。
「で、陛下が魔女の注意を引いておくようにってさ」
オルフェの方を一瞥すると、フローディアが鏡を持って立っていた。その光景に、何かが行われるのだと知ったセルフィナは「なるほどね。陛下の命に従いますか」と茶化した口調でフィーラに意識を戻した。
短剣を跳ね上げられた後、フィーラは反動で仰け反って尻餅をついていた。そのままの低い位置からセルフィナの背後の光景を垣間見て、表情を強ばらせていた。
「あいつら、何を……」
手足に纏わりつく闇色の外套にもたつきながらも、フィーラが立ち上がる。オルフェたちの行動を阻止しようと体勢も定まらぬ間に風を動かして、渦を作ろうとする。セルフィナはその眼前に「おっと、そうはさせねぇよ。だいたい、お前、さっきがらくた呼ばわりしてたじゃないか」と、立ちはだかった。
「黙れ。がらくたにもがらくたなりの使い方がある」
利き手を振り上げ、その手に握った短剣でセルフィナを追い払うように空を凪ぐ。その切っ先がセルフィナに届くことはなかったが、セルフィナは改めて細身の剣をフィーラに向けた。
風の渦が消えていた。
セルフィナは必死に記憶をたどり、フィーラが魔法陣もなにもなく魔術を操れる、その方法を思い出そうとした。
「随分、勝手なことばかり言うじゃねぇか。ご立派な血筋かなんか知らねえけど、あっちこっち引っかき回しやがって」
罵りの言葉を吐き出しながら、セルフィナはある方法を記憶の中から引きずり出していた。確か、伯母からいくつか借りた魔術の本のどれかに記されていた。
「ふん。どれも私の計画の一部を切り取ったものでしかない」
せせら笑うフィーラから注意を逸らさずに、セルフィナは「おい、アルフ」と呼び掛けた。すぐに彼は「どうした」と駆け寄る。
「フィーラの気を散らせるんだ。そうしたら、きっと魔術を使ってられない筈だ」
素早く、アルフレッドにそう耳打ちする。
そうしている間に、また、空気が動き出す。
アルフレッドはフィーラの周りに集まり始めた風を横目で見つつ「わかった」と答えた。




