第四章 鏡の魔女〈1ー1〉
鏡は一目でそれと分からぬように布でくるみ、オルフェが持ち運ぶことになった。
古語による魔術が解けたからか、鏡はすっかり見た目通りの重量になっていた。鏡にまつわる話から推察するに、まだ他にも魔術が施されているかもしれない。その真偽は三人には知るすべもないが、これで魔女の指定する場所まで運ぶことは可能だ。
神殿から出ると、既に夕暮れ間近の刻限だった。外の空気が秋の気配をはらみ始めているのが感じ取れた。じきに陽は傾き、夜の帳が降りるだろう。
「一旦城へ戻ってすぐに発つ」
有無を言わせぬ言い方でセルフィナはオルフェとセラムに告げた。
一番近い宿場町にさえ辿り着けもしないだろうが、街道沿いの小さな集落まででもいいから移動しておきたいという焦りがセルフィナにはあった。
「そうですね。日没までに、少しでも進んでおきたいところですし」
「ああ、あたしも異論ないよ」
言わずもがなの意を汲んで快諾する二人に、「二人とも、ありがとう」と、礼を述べるセルフィナは、見逃しそうなくらい僅かに表情を崩した。それも束の間、再び顔の筋肉を引き締めると、ひらりと馬上へ上がった。
一瞥程度に視線を合わせ、オルフェとセラムも急いで後に続いた。
王城へ取って返すと、セルフィナは形ばかりの出立の報告をルース王にした。「行って参ります」以外にセルフィナから父王へ言いたいことも、言うべきものもなかったし、父王の方もまた、唸るような低い声で一声返すばかりで、出立前の父と娘の面会は終わってしまった。
セルフィナの背後で、オルフェとセラムが苦虫を噛み潰したような面もちで始終を見ていたが、素っ気ない遣り取りも当のセルフィナには今更どうというものでもなかった。それよりも、今は妹のこと。それが彼女の最優先だった。
上の空のルース王との面会を終え、三人が前庭へと出てくると、旅支度を整えた馬が厩舎から引き出されてきたところだった。
その光景を、見送りに出てきたセルフィナの母、王妃セシリアが落ち着かない様子で眺めていた。
「本当に、あなたたち三人だけで行くのですか」
頬と唇に差した紅が不自然に赤く浮き出るほど蒼白した顔で、セシリアはいま一度、娘に問いただした。豪奢な飾りの付いた衣装から伸びる細い首と腕がことさら華奢さを際立たせ、今にも崩折れてしまいそうな印象だ。
そんな母の前に、セルフィナはしゃんと背筋を伸ばして立った。
「ご心配には及びませんよ、母上。必ずリアナを連れて戻ります」
「けれど、セルフィナ。もしあなたにまで何かあっては……」
そう言い掛けて、セシリアは口を噤んだ。これではまるで、既にリアナの命はないものと諦めているかのようだと気付いたからだった。
悲しげに瞳を伏せる母に、セルフィナは続きを言わせるような真似はしなかった。王家の人間として、血筋を絶やしてはならない。それを差し引いても、王女二人ともに万が一のことがあってはとの思いからなのは、セルフィナにも解っていた。
「相手は魔女です。リアナが攫われたときの話をお忘れですか。なんの心得もない兵が数して行ったとしても、返り討ちにあうだけ。無駄と分かっていて、無闇に彼らを送り込むなど、賢いやり方とは思いません。母上、彼らにも家族がいるんですよ」
娘につらつらと諭され、セシリアは衝撃を受けたように後退った。
国や君主の一大事には命をも賭す覚悟くらい兵たちにもあるだろう。それは、自身もグリーンラームでいち騎士として身を置いているセルフィナは熟知していた。だが、感傷的になりやすい母を納得させるには、そう告げるのが一番効果的だった。
案の定、セシリアはそれきり口を閉ざしてしまった。
「恐れながら、王妃陛下。殿下は必ず無事にお戻りになりますよ」
脇に控えていたセルフィナの側近が、主に馬の手綱を手渡しながらそう請け合った。
「そう、ね。セルフィナ、それから、伴の二人を信じます」
セシリアの言葉に三人は頷いて、馬の背に上がった。
再び口を閉ざした王妃の深い茶色の髪が、緩やかに風に舞う。
「では、いってまいります、母上」
母を労るような口調で告げると、セルフィナは鐙にのせた足で馬の腹を勢いよく蹴った。セルフィナの馬の蹄が地面を蹴る音を合図に、セラムとオルフェも続けて馬を走らせる。
振り返ることなく、真っ直ぐに城門をくぐり、城下を走り抜け、三人は北西へと進路を取った。
小さな農村で一泊と、二泊の野営を過ごした。
もうそろそろ砂漠が見え始めてもいいかという頃。まだ大地に緑が続くうちから、地平の向こうに塔が姿を現しはじめた。
ずっと建造物の存在しなかった景色の中で、それは近付くごとに地平から伸び出てくる。
魔女の指定したオアシスの場所と方角が一致している。恐らく、あの塔の見える付近にオアシスがある筈だ。
やがて、進路の左前方に砂漠が見えはじめた。セルフィナが頭に叩き込んでおいた地図によれば、オアシスは砂漠の最東に位置している。一行の視界に広がる景色は、砂漠の東の果てで相違なさそうだった。
既に街道から外れて久しい。
道なき道を進むセルフィナたちは、緑がまばらになっていく景色の中を馬で駆け抜けて行った。
急を要するが、途中で馬を乗り換えられる当はない。乗り潰さないよう休憩を入れつつ急いだ結果は、せいぜい半日縮めるのが限界だった。
そうして辿り着いたオアシスは、まさしく塔の足元にあった。
馬をオアシスの脇に自生する木に繋ぐ。
誰からともなく集まった三人は、申し合わせたかのように塔の麓から天辺へと視線を送った。
石造りの塔はごく単純な円筒形をしていた。人の手で切り出されたであろう灰色の石が積み上げられている。地上付近はオアシスに近い側が僅かに緑変し、まばらに蔦が這っているのがみえた。それはさながら四肢の皮膚から透けて見える血管を連想させる異様さだった。
「辺りには誰もいませんね」
いち早く地上へ意識を戻したセラムは、辺りを注意深く見渡し、報告する。その声に誘われて、セルフィナとオルフェも首を戻した。
「そうみたいだね」
オルフェもひと通り周囲を見渡してから答えた。
同じような動作はしたものの、セルフィナは口を引き結んだままだった。だが、オルフェとセラムが顔を見合わせているうちに、一人でさっさと塔に向かって歩き出した。
「姫様?」
「セルフィナさん、どこへ行くんですか」
オルフェとセラムがほぼ同時に呼び掛けた。
セルフィナは立ち止まらなかった。けれど、「塔に入ってみるに決まってるだろ」と、顔だけ二人の方に振り向いて答えた。
「えっ」と、戸惑いを帯びた声を挙げるセラムの横でオルフェが「だろうね」と肩を竦めた。そんな反応をしつつも、二人は引き止めることもなく、セルフィナのあとに続いた。




