第三章 継承する者〈4ー3〉
三人を鏡の間に招き入れると、神官長は左の腕を部屋の奥へとさし伸ばし、鏡を示した。その方向へ目を向けると、静かに白い輝きを放つ銀色の鏡が石柱の台座に安置されていた。
近付いてみれば可憐な花を模した装飾で縁取られ、華奢な印象だ。とても、男が五人掛かりでも持ち上げられなかったような物には見えなかった。
「これが、セルアの鏡」
鏡の美しさに、セルフィナの半歩後ろでセラムが惚けたような声を漏らした。
「殿下はこの鏡の言い伝えはご存知ですね」
「その昔、建国前のヴァルカスの地に暮らす人の心を操り、あちこちで猜疑心による争いを起こさせた魔女から、人々を解放したセルアの鏡、ですね」
神官長の問いに、セルフィナは首を縦に振って答える。
「そうです。しかし、それが全てではありません」
「全てでは、ない?」
「ええ。神殿にのみ、語り継がれている、もうひとつの言い伝えがあるのです」
聞きたいか問うように神官長が小首を傾げるので、セルフィナは即座に頷いた。
静かに身を翻して、神官長は鏡を見遣り、もうひとつの言い伝えを語り始めた。
「実は、この鏡には、セルアの魔術によって、闇の魔女の魂が封印されているのだと伝えられています」
セルフィナは驚いて「えっ」と短く声を挙げた。今でこそ、魔術という不可視なものを、突拍子もないと一蹴する気持ちはなくなっている。とはいえ、魔術がなせる物事は彼女の予測の範疇を超えていた。
「闇の魔術を心得る者がこの鏡に触れると、鏡の中の闇の魔女が、触れた者の力を得ようと魔力を吸い取るのだそうです」
「普通の魔術師が触るとどうなるんですか?」
横から、志半ばで鞍替えしたとはいえ一応は魔術師の端くれであるセラムが、まじまじと鏡を見詰めて質問した。魔術に種別があるのは彼も解っている。だが、根幹の部分である魔力までそういった区別がなければ、誰が触っても同じ現象が起きるのではないか。そんな思いからだった。
神官長は鏡越しに彼と視線を交わし、「かつて、何人か魔術師が試したようですが、なにも起こらなかったと聞いています」と答えた。
「それじゃあ、試しに僕が持ち上げてみてもいいですか」
安堵したように表情を緩めてセラムが申し出た。神官長が「構いませんよ」と許可すると、早速、彼は可憐な装飾の縁にそっと手を触れた。
暫く微動だにしなかった彼は、「くっ……、駄目だ」と音をあげるとともに手を放した。傍目には静止していたように見えていたが、彼なりに相当力を込めていたせいで、色白の頬はほんのりと赤く上気し、肘はがくがくと震えていた。
「やはり駄目なようですね。実は、セルアには一人娘がいて、母の亡き後、彼女がこの鏡をここへ据えたといいます。その後、誰一人として鏡を動かすことが出来る者はいないということですから、もしかしたら、セルアの娘が何か細工をしたのかも知れません」
神官長の推測が事実とすれば、恐らくは、この鏡の所在が不明になることを避けるためだったのだろう。セルフィナもセラムも察しは付いたものの、このままでは運搬などできない事実に深く溜め息をつかずにはいられなかった。
「なんだって魔女はこの鏡を運ばせたいんだ」
理解に苦しみ、混乱した頭を解すようにセルフィナは首を左右に数回捻る。
闇の魔術を使う者の魔力を吸い取る鏡。魔力を吸い取るといえば、二年前にセルフィナは血の儀式を体験した。あの方法以外に、他者の力を吸収する方法がいくつか存在するようだ。そのうちのひとつをこの鏡の中の魔女は行っているらしい。フローディアから手解きを受けているとは言え、セルフィナにとっ魔術とはまだまだ謎の多いものだった。
「そうですね、一体どうしたいんでしょうか」
魔女自身の魔力をも吸い取りかねない物を欲する理由は皆目検討もつかなかった。ただ、第二王女を攫い、ヴァルカス王家を混乱させている。鬼が出ようと、蛇が出ようと、リアナは救出せねばならないのだ。
そう頭を悩ませている二人の横を、部屋に入ってからずっと黙りこくっていたオルフェがすり抜けていった。
鏡の前に立ち、彼女はなにやら暗号のような言葉を口にし始める。セルフィナには、すぐにそれが古語だと理解できた。彼女がこの二年でフローディアから学んだ知識を総動員して、脳内で現代の言葉に変換し終える時には既にオルフェは鏡に手を伸ばしていた。
「オルフェさん、無茶ですよ」
制止するセラムの声に耳を貸すこともなく、オルフェは台座からびくとも動かなかった鏡をいとも簡単に持ち上げた。
セルフィナたちは目を疑った。神官長に至っては、驚きのあまり腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。
「な、なんだ? どういうことだ?」
セルフィナが目を白黒させていると、鏡を両腕で包み込むように抱えたオルフェが振り向いた。
「みんな、鏡が話し掛けて来てたの、気付かなかったのかい」
オルフェは狐に摘まれたようにきょとんとしていた。
「鏡がか?」
「相応の代償を払うなら力を貸そう、って。本当に聞こえてなかった?」
ますます訝しそうにオルフェは眉を顰めた。
だが、セルフィナとセラムはおろか、神官長の耳にさえ、そのような言葉は届いていなかった。
「本当に、ただのひと言も声なんて聞こえなかったぞ。で、今の古語はどこで覚えたんだ?」
「古語? あれはあたしが幼いとき死んだ母親が、大事な言葉だから覚えておくようにって言い残したものさ。それを鏡が知ってたからびっくりしたよ。覚悟ができたら、続きを言えっていうんだから」
「意味は解らないで言ってたのか」
「ああ、まあ、そういうことだね。姫様は解るのかい?」
「我は鏡の継承者なり、だ」
「鏡の、継承者……」
オルフェはセルフィナから知らされた古語の意味を反芻しながら、腕の中の鏡を見下ろした。オルフェに抱かれた鏡は、相変わらず白銀の輝きを湛えていた。
「なんかよく解らないけどさ、これで、魔女のところまで持って行ける。姫様の妹も助けられるね」
まるで小さな子供の頭にするように、オルフェは鏡の上端を優しく撫でた。
「いや、ちょっと待ってくださいよ。相応の代償って、オルフェさんはどうなるんですか」
自分が持ち上げられなかったものを軽々と抱えているオルフェの顔と鏡を、セラムは交互に見た。オルフェには重そうな様子は微塵もない。
オルフェは分からないと小さめの唇を更に小さく窄めたが、「いいさ。一度は牢の中で人生を終えると覚悟した身だ。何が起きようと構うもんか」と開き直っていた。「でも、それじゃあ……」とセラムもセルフィナもそれは不本意だと眉根を寄せた。
すっかり驚いて腰をぬかしていた神官長は性を取り戻すと、まじまじとオルフェと鏡を見た。
「千二百年もの永きに渡りこの場を動かなかった品です。魔女とやらはこれを役立てねばならないような相手ということなのでしょう」
血の気が戻ってくると、神官長は落ち着いた口調で言い、「殿下、みなさん、どうぞリアナ王女殿下とともに、無事のお戻りを」と白い神官着の胸元に施された刺繍の前で、祈りを込めて両手を組んだ。




