第一章 魔術師〈1〉
星の綺麗な真夏の夜だった。
湿度が少ないせいか、肌にまとわりつくような感覚こそないが、それでも暑さを嘆くには十分だった。
グリーンラーム王国の王都ラリンスの街外れに住む、若き天文学者のセラムは、天体観測のために自宅の二階にあるバルコニーにいた。
古い木造のうえ、生活の便も決して良くないため、破格の安値で借りられた家だったが、街の中心地から外れていることもあり、天体観測には最適だった。
幼い頃より魔術師を志し、その方面では名の通った人物に師事を得たセラムだったが、魔術が衰退の一途を辿って久しい昨今、それで生計を立てるのは不可能に等しかった。代わる生業として数年前から天文学に携わるようになっていたが、学者と名乗れるほどまでになったのは、まだほんのつい最近のことだった。
一定の時間ごとに、目印となる星から観測対象の星を探し、記録を付ける。
とても地道な作業だが、苦痛ではなかった。
むしろ、今まで深く気に留めることなく、ただ漫然と見上げていたものが、その実、空の彼方で規則正しく動いていたことを知り、日々、胸を躍らせていた。
記録を付けようと、手元に視線を落とした時だった。
視線の先に広がる雑木林の入り口に、人影が見えた。
人影は、二、三度辺り見回すような素振りをみせると、吸い込まれるように木々の間に姿を消した。
かれこれ数時間、静かに闇の中にいて目が慣れていたことも手伝って、人影は背格好から年輩の男だと判別できた。
日付も変わろうかという時刻だ。こんな街外れに何をしにきたのか。そんな、ちょっとした好奇心が彼をその場から立ち上がらせた。
後を付けてみようと彼は階下へ急いだ。雑木林へ向かうと、つい今しがた、男が姿を消した辺りに静かに身を投じた。
物音を発てぬよう留意し、雑木林の奥へとゆっくり進んでいく。
暫く分け入ったところで、薄ぼんやりとカンテラの灯りが見えた。
身を屈め、近くの低木の陰に隠れると、風が木々の枝を揺らす音に紛れて、じわりじわりとできる限り近付いた。
低木の枝の間から、息を潜めて男の様子を伺っていると、明らかに、自然の風とは違うもので辺りの枝が揺れ始めた。
次の瞬間、セラムは己の目を疑った。
それまで、男しか居なかった場所に、金色の長い髪を靡かせた女が現れたのだ。
女の登場の仕方に全く動じることなく、「フィーラ様」と現れた女に呼びかけると、男は跪いた。
「ふん。一体いつになったら動くつもりだ」
女が鋭く声を発すると、男は一旦声を詰まらせてから、言い訳を始めた。
「生後間もなくから行方の分からない王子を探し出し、そちらを先に始末しようと……」
「まだ拘っているのか、愚か者が。もう二十年以上前のことだろう。生きていたとて、王子として育たなかった者に何ができる」
男の言葉を遮り、女は一喝した。
返す言葉もないとばかりに、男は短く「はい」と答える。
「早々にグリーンラーム国王を抹殺し、お前が実権を握るのだ。そして、この国の軍事力を用いて、他国も手中に収めろ」
女は冷たく微笑み、幼子にそうするように言い聞かせた。
「次の満月までに、実行に移せ。よいな、バルディ」
最後に女が呼び掛けた男の名を聞いて、セラムは愕然とした。
男の名、バルディ。それは、グリーンラーム王国の大臣の名だったのだ。
走り出したい気持ちを堪え、セラムは二人が姿を消すまで、その場でじっと遣り過ごすことにした。
女は現れた時と同様に、風とともに忽然と姿を消し、それを見届けた大臣は元来た道を戻っていった。
誰もいなくなったのを確認し、セラムはようやく雑木林から逃れて自宅に戻ると、厳重に戸締まりをした。
ほんのささいな好奇心から、とんでもないことを聞いてしまったと激しい後悔に襲われた。だが、すぐに、このことを知らせる人物を頭に思い描いていた。
いずれにしても、夜明けまで待たなくてはならない。
夜が明けたら、とにかく、すぐに幼馴染みを訪ねようと決めた。
同じ日に同じ孤児院に預けられ、ともに育った男だ。彼は孤児院を出る年に騎士団に入団した。彼ならば、邪険にすることなく話を聞いてくれる筈だ。そう思い、セラムははやる気持ちを押さえつけるように、ベッドに潜り込んだのだった。