第三章 魔女の足跡〈2ー2〉
音の正体から逃れようと身を翻すも、よろめいて転倒した娘たちの前に巨大なものが落下する。腹の底に響く大きな音とともに、石畳の床が砕けて辺りに飛び散った。そこにめり込むように突き刺さったその物体は、大人二人でも抱えきれない程の大きさだ。
吹き抜けから差し込む陽射しを受けて、物体のぬめりを帯びた表面が光った。
狙いを外したと知った物体はゆっくりと動き出すと、その正体を露わにした。
「ああ、神様!」
祭壇の下に転げ落ちたヘレンが、絶望的な声を出す。
石畳から起きあがったのは、巨大な水蛇だった。
「なんだよ、あれ」
アルフレッドが舌打ちをした。
水蛇は大きな頭を垂れて、眼下の三人の娘たちを見下ろしていた。長い胴体は祭壇の奥へ続いていて、その全貌を知ることはできない。細長い舌をちらつかせるさまは、どの娘を捕食しようかと値踏みしているかのようだった。
空気が凍り付く。言葉を失っていると、水蛇の鎌首はゆっくりと角度を戻していった。
「まずいぞ」
怪物が再び動こうとしているのを察知したアルフレッドが駆け出す姿勢を取った。それを合図とばかりに「ヘレン、走れ!」と、セルフィナは力一杯叫んだ。
一斉に、銘々の走るべき方向へ全力で駆け出す。
まとまっていると狙われやすい。セルフィナはアルフレッドと自然に距離を開いて娘たちをそれぞれ二手に誘導した。
旅装とはいえ、機動性に欠ける衣装のヘレンは何度も衣服に足を取られそうになりながら、なんとかセルフィナの元へとたどり着いた。
腕を伸ばし、ヘレンの華奢な体を引き寄せると、たったいま走ってきた方へ引き返した。
元の位置まできたところで、セルフィナは「まったく、下手したら死んでたぞ」と、なるべく優しい声音でヘレンを咎めた。
「勝手な行動をして、申し訳ありませんでした」
伏し目がちに彼女は詫びた。それを見て、セルフィナはこれ以上は責めないと示すために、少しだけ口角を持ち上げて頷いた。
ひとまずの安堵に息を吐くヘレンを抱えたまま、セルフィナは顔を上げた。アルフレッドの姿を探して視線を動かすと、彼の方もうまく娘たちを確保できていた。
水蛇はと言えば、村娘たちの方に狙いを定めたようだったが、新たな石畳の残骸がまたも狙いを外したことを物語っていた。
お互いに確保成功を視線で報告しあうと、フローディアに視線を移した。
姉妹は祭壇の前でもみ合っていた。水蛇への注意も怠ることなく二人の様子を観察する。フローディアの短刀はフェニアの腕輪をとらえていた。
金属同士が擦れる不快な音が聞こえてくる。
なんとか腕輪を逃れさせようとフェニアが身じろいだ。その手首に刃が触れて、細く赤い筋が腕を伝った。それは、フェニアが腕を動かす度に白い肌の上で面積を広げていった。
二人が膠着しているこの隙を利用しない手はない。水蛇も二つ目の床の残骸よりもこちらへやってくる気配はなかった。
娘たちをもっと安全な場所、つまりは神殿の外へ逃がすならいまだ。
「ヘレン、あの二人を外へ」
セルフィナはそう彼女の背中を優しく押した。
「は、はい」
ヘレンは弾かれたように答えた。
一緒にアルフレッドの元へ行き、二人の娘たちにも外へ出るよう促すと、娘たちは恐怖による震えなのか判別もつかないほど小刻みに、恐怖で蒼白した顔を縦に振った。
セルフィナが背を向けると、三人の娘たちは入り口に向かって走り出した。
水蛇が逃がすまいと動き出す。巨大な体をくねらせて、ヘレンたちが去っていく方向へと進もうと、上体を高くした。
「ったく!」
短く悪態をついて、セルフィナは腰に帯びていた細身の剣を鞘から抜いた。人間が相手ならいざ知らず、見たこともない巨大な蛇と対峙など全くの想定外だ。
「おい、フローディア! こんなの、任務内容になかったぞ!」
フローディアの背中に向かって怒鳴った。
「護衛には、違いない、でしょう」
一進一退のさなかの彼女に返事など期待した訳ではなかったが、途切れ途切れにそんな言葉が返ってきた。
これも護衛の一環というならば、この怪物がフローディアの邪魔にならないよう始末する必要がある。しかし、あまりにも現実味のない眼前の生物に、セルフィナはどうしたものかと大急ぎで思考を巡らせた。
剣を抜いて立ちはだかってはみたものの、どう戦ったらいいのかまるで要領を得ない。対して、水蛇はぐっと頭を垂れた。人間以外の生物の思考とはいかがなるものか知る由もないが、明らかに、怪物はセルフィナを見ていた。新たな獲物と認識したようだ。
目を逸らしてはいけない。そう思って、セルフィナは鱗の間で爛々(らんらん)と光る小さな目をじっと見据えた。得体が知れなくとも相手は動物だ。少しでも隙を見せたら襲いかかってくることだろう。
数歩離れた位置で、アルフレッドも剣を抜いて水蛇を見上げていた。
「どうすんだよ」
独り言のような調子だった。いくら腕に覚えがあっても勝手が違いすぎる。それはアルフレッドにとっても同じことだ。
「わかんねえけど、フローディアの邪魔にならなきゃいいんだろ」
言い終わらないうちに、水蛇の頭がゆらりと後方に揺れた。
いつでも動き出せるよう足の裏に力を込めたが、次の瞬間、それが無意味だとセルフィナは思い知った。
勢いよく砕け散る石畳の欠片もろとも吹き飛ばされ、床の上に打ち付けられた。鈍い痛みがセルフィナの左半身に広がったが、無意識に受け身をとっていたのか、それ以上の違和感はなかった。
すぐさま上体を起こし、軽く頭を振って、降りかぶった破片を髪から落とす。幸い、がれきはたいした大きさではなかったが、あちこちに小さな擦過傷が出来ていた。
「痛いじゃねぇか」
あれだけ勢いよく飛ばされたにもかかわらず、剣は手から離れていなかった。それどころか、力を込めるときのより所になり、うまく受け身を取れたのだ。今度はそれを頼りに、半身がじわじわと痛む体を支えて立ち上がった。
振り返ると、水蛇はたったいまの攻撃を仕掛けてくる直前の位置まで戻っていた。
どうも水蛇の攻撃はいささか雑だ。あの体格にしてみれば大した距離でもないはずなのに、既に三度も狙いを外している。
大きいが故に、小さな人間をとらえにくいのか。はたまた、意図的に直撃しないように狙っているのか。後者だとすれば、水蛇の自発的なものとは到底思えなかった。それならば、答えは簡単だ。
この巨大な水蛇も、村娘たち同様にフェニアに操られている。
血の儀式をするために攫ってきた娘たちに致命傷を与えたのでは意味がない。つまりは、娘たちが逃げないように動きを封じるのが、この怪物の本来の役割ではないだろうか。
必死に思考を巡らせた末、水蛇がある位置から進んでこない理由をそう結論付けたセルフィナは、アルフレッドの方に体を向けた。
「アルフ!」
彼の名を呼び、たったいま水蛇が作った床の穴よりも外側を移動した。三つ目の穴よりも進んでくることはないと踏んだのだ。
身構えたまま、「どうした?」とアルフレッドが応じる。
「ちょっと、思い付いたから行ってくる」
それだけ告げると、今度は水蛇の方へ体を向ける。
フローディアの話を全て信じるならば、魔術が本当に存在すると信じるならば、この水蛇も魔術によって操られている。ちょうど、村娘たちが催眠術のようなもので操られていたように。
それを確かめるために駆け出した。
「おい、無茶するな!」
アルフレッドが静止しようと呼び掛けたが、セルフィナは足を止めなかった。
水蛇の頭は無視し、長く続く体に沿って石畳を走り抜ける。吹き抜けから東屋に入り、祭壇の脇をも通り過ぎて、更に奥へと突き進んだ。
艶やかな鱗が後退し始めたのを横目で確認しつつ、ひたすら、東屋から続く薄暗い通路を怪物の体を辿って進んで行った。
僅かに息が上がり始めた頃、視界が開けた。
辿り付いたのは、松明の明かりに照らされた広い部屋だった。
騎士団の訓練場くらいの面積はありそうだった。石壁に取り付けられた松明は等間隔に並んでおり、ある程度の照度が保たれていた。その明かりを受ける床の半分が、巨大な生け簀になっていると気付くのにさして時間はかからなかった。
生け簀からは水蛇の巨体が伸びていた。
この生け簀になにか細工がないか、セルフィナは急いで辺りを見回した。森のフローディアの生家で見た光景を思い出す。あれと同様に、なにか魔術を施した形跡がある筈だ。
室内をぐるりと観察するうちに、生け簀の両端に据えられた二本の石柱に、それぞれ同じ図形が描かれているのを見つけた。
「ここが化け物の棲み処か」
左側のそれに近づこうとしたとき、追いついてきたアルフレッドの声がした。
「見てみろよアルフ。あの化け物は魔術で操られてるんだ」
隣まできた彼に石柱を指し示す。
その間も、水蛇の体は生け簀の中へ後退を続けていた。巨大さゆえに回転して戻ってくることは出来ないだろうが、それでも頭が戻ってくるまでに大して時間はかからないと思われた。
「あれを破壊すれば、ただの蛇に戻るってのか」
多少の焦りを含んだ語気とともにアルフレッドは石柱の図形を見やった。
セルフィナは小走りに石柱に近づいた。近くまでくると、図形は頭よりも少し高い位置にあった。赤茶けた色で描かれている。面積も大きめだ。長い物を手にして腕を伸ばせば届きそうだった。
「図形を破壊する」
再び追いかけてきたアルフレッドに端的に告げた。
「頭は頼んだ」
「そうくると思った」
ある程度予想していたのか、彼はほんの少し両肩を上げて呆れたと言いたげな仕草はしたものの、しっかりと剣を握り直していた。
左腕の袖を捲り上げながら、セルフィナは石柱の図形に視線を戻した。細身の剣は小脇に挟み、もう一本、接近戦用に下げている短剣を鞘から抜いた。そして、それで腕を自ら切りつけた。
「馬鹿、何やってんだよ」
驚きを含んだアルフレッドの声が飛んできた。
「うるさいな。俺じゃなくて蛇を見てろって」
一喝とともに手早く短剣を戻すと細身の剣に持ち直し、その先の方に自分の血をすくい取った。
「さすがに、全部消すのは無理そうだな」
一人ごちて、剣を石柱に当てる。
二度、三度と傷口から血をとっては、石柱に描かれた図形に塗りつけていった。
「来たぞ」
水蛇の頭が戻ってきたことを知らせる声に、セルフィナは念を込めて、最後にもう一度、既に止まりかけている血液を拭い取り、図形に重ねた。
作業を終えると振り返って、アルフレッド、水蛇の順に姿を確認した。
部屋の入り口から少しのところで、水蛇は動きを止めていた。
これが無意味ならば戦うしかない。セルフィナがそう覚悟を決めていると、水蛇は突然、頭を部屋の天井付近まで勢いよく持ち上げた。
アルフレッドがセルフィナを庇うように、半歩足を引く。と、同時に、巨大な頭は、胴体とともに大きな音をたてて生け簀の中に飛び込んでいった。
反動で水しぶきがあがり、二人の上に盛大に降り注いだ。
暫くして、静寂だけが残った。
生け簀の水を浴び、濡れて顔に張り付いた髪をどけ、二人は揺れる水面の様子をうかがった。
「術、解けたかな」
自分の血が付いた剣を手にしたまま、セルフィナは呟いた。
「お前はやることが無茶苦茶だな」
同じように水面を見つめたまま、アルフレッドは呟きに答えるのではなく、感想を述べた。
やがて、生け簀は何事もなかったように静かに松明の明かりを映し出した。
再び出てくる様子は見られなかった。術が解けて、水蛇も我に返ったのだと解釈することにした。
アルフレッドは手にしていた剣を鞘に戻すと、上着の腰のサッシュを解いてセルフィナに近づいた。
「ほら、腕出せ」
そう言われた、セルフィナが黙って左腕を差し出すと、彼は傷口にサッシュを巻き付け始めた。
「で、一体なんで自分の血を塗ろうなんて考えついたんだよ」
丁寧に応急処置を施しながら、アルフレッドは嘆息した。
「血の魔女は若い娘で血の儀式をしたけど、魔術を使うのに自らの血も使ったって、本で読んだのを思い出した」
「それで、あの化け物もそうやって操られてるって思ったのか」
アルフレッドの手によって巻き上げられていくサッシュに僅かに血が滲むのを眺め、セルフィナは「ああ」と答えた。
「目には目をってとこか」
「そう。それに最初にフェニアが俺を見て、魔力があるって言ったろ? だから、もしかしたら、俺の血でもいけるかもって思ったんだ」
「そういうことか」
納得しながら、巻き付け終えたサッシュの端を縛り、アルフレッドは結び目を軽く叩いた。
「あっ! 痛ぇだろ」
「自分でやったんだろ。全く、俺だけが訳わかってなくて、いいとこみんなお前に持ってかれるな」
愚痴めいた言葉を放ちつつも、本心からそんな気持ちではないのか、彼は口許に微かに笑みを浮かべていた。
「それはそうと、君主を放ってくるとはいい度胸だな」
傷口を叩かれた仕返しのごとくに言ったが、怪物が片付いたところで、セルフィナはフローディアがどうなったか気になっていた。王妃の護衛として同行しているのだから、どちらかが側にいなくてはいけないところなのに、二人して主から離れてしまったのだ。
「陛下の命令だよ。お前が何かやらかすってお見通しだった」
手当を終えた手がセルフィナの頭をくしゃぐった。それがフローディアの言うとおりだったと告げているようで、癪に障った彼女は小さく舌打ちした。
「戻ろうぜ。陛下が心配だ」
セルフィナの舌打ちなど聞こえなかったかのごとく、アルフレッドは手を下ろすと、そう言って踵を返した。