第三章 魔女の足跡〈1〉
この旅でコーマス村を訪れるのは三回目となった。
もはや馴染みとなった宿に入ると、恰幅のいい女将が親しげに声を掛けてきた。だが、威勢のいい挨拶の後に、女将は急に眉根を寄せて言った。
「おたくら、若い娘さんばかりだから気をつけなよ。ここ二、三日ね、若い娘が二人行方不明なんだ」
一同は誰からともなく顔を見合わせた。言葉に出さずとも、それがフェニアの仕業だと四人ともが思っていることは表情からも明らかだった。
「この村は人の行き来が多いけど、グリーンラーム領ってこともあって腕の立つ駐在兵もいるでしょう。滅多なことはなかったんだけどねぇ」
女将はこちらの様子などお構いなしに、「怖い怖い」と話を締めくくった。
「そうですか、気を付けます」
当たり障りない返事をするに留めておいて食堂へと出掛けて行ったが、そこでも、同様の話があちらこちらから漏れ聞こえてきた。
宿の女将が言うように、コーマス村で数日のうちに二人も行方不明者が出るのはただ事ではないようだった。
行方不明の娘たちがフェニアによって連れ去られたのならば、既に森の家で目にしたような事態になっていてもおかしくはない。それが予測できているせいか、元から口数の少ないヘレンは貝のように口を閉ざし、食事も殆ど手をつけなかった。
夕食を終え宿に戻ってからも、ヘレンはぼんやりとしたままだった。窓際の寝台の上から濃紺の空を見上げる様は、むやみに励ましたり、慰めたりできるような雰囲気のものではなかった。
何年もの間、フェニアを神官長として尊敬してきたのだ。彼女の胸中に渦巻くものは、安易な言葉で拭えるものではない。同室に居ながら、セルフィナもフローディアも無理に彼女に話し掛けるよりも、そっとしておいた方がいいと、見守ることにした。
四日間、アルフレッドと交代だったとはいえ野営の見張りをした疲労と、屋根の下にいる安心感から、セルフィナは抗い難い睡魔に襲われていた。
「ヘレン、先に寝るけど、何かあったら起こせよ」
気が付いたときにはフローディアは既に寝てしまっていて、ヘレンが寝るまではと頑張っていた彼女だったが、どうにも限界だった。
「はい。おやすみなさい」
弱々しい微笑みとともに、ヘレンが振り向いた。笑顔を返し、大きなあくびを一つすると、セルフィナは枕に頭を預けて眠りに落ちていったのだった。
「セルフィナ、起きて! 大変よ」
取り乱して大きな声を出すフローディアに毛布を剥ぎ取られ、セルフィナは跳ね起きた。窓から差し込む光に目蓋を開けたばかりの目を細める。脳が朝だと判断する頃に、再びフローディアの慌てた声が耳に飛び込んだ。
「ヘレンがいないわ!」
その言葉に、昨夜ヘレンが腰掛けていた寝台を見た。毛布は入室時のまま、きちんと寝台の足元辺りで畳まれていて、使った形跡はなかった。寝台の下の床には、ヘレンの荷物がやはりそのままにされている。
「どこかその辺を散歩してんじゃないのか?」
「まさか」
「とにかく、アルフを起こしてくる」
セルフィナは青ざめた顔のフローディアを部屋に残し、アルフレッドのいる別室へ向かった。
まだ早朝の宿の廊下はしんと静まり返っていた。あまりにも静かだったので、控えめに扉をノックをした。
少し待っても反応がなかったので、二度目は少し強くノックし、「アルフ、起きろ」と声を掛けた。今度はすぐに室内から足音が聞こえてきた。ほどなく扉が開くと、それと同時に部屋の中に滑り込む。
「ヘレンがいないんだ」
部屋の扉を閉めるのも忘れて、セルフィナはそう告げた。フローディアには暢気な言葉を返しておきながら、その実、彼女も慌てていた。
「いないって、どういうことだよ」
「ベッドを使った形跡もない。荷物はそのままだ」
「落ち着け、いつ気が付いたんだ」
「ついさっき、フローディアに起こされて知った。とにかく、あっちに来てくれ」
「わかった」
アルフレッドは寝台の木枠に投げかけてあった上着を手早く羽織ると、セルフィナの後に付いていった。
女たちが宿泊した部屋では、既にフローディアが荷物をまとめていた。
「陛下、ヘレンがいないのはいつからですか」
さりげなく室内を観察しながら、アルフレッドが訊いた。
「それが、セルフィナを起こすほんの少し前に目が覚めて、気付いたばかりなのです」
「そうですか」
返事を聞くと、彼は窓辺に向かった。簡単な造りの小さな金属でできた鍵を外すと、窓を開けた。
ほんのりと肌に冷たい、夜明け間もない外気が室内に流れ込む。その窓から顔を出して、アルフレッドは辺りを見渡した。
時々、小鳥のさえずりが聞こえる以外は静かだった。
「外を捜してみよう」
窓からの景色にヘレンの姿を見つけることができなかった彼は、窓を元通りに閉めた。
「わたくしは馬宿の方を見てきます」
「陛下、お供します」
二人がさっさと部屋を出ようとするので、セルフィナは「俺は宿の人にヘレンを見なかったか聞いてくる」と急いで後に続いた。
アルフレッドとフローディアは連れだって、足早に宿の番台を通り過ぎ、外へと姿を消した。
番台では宿の亭主がまだ眠そうな顔でぽつんと番をしていたが、セルフィナが近づいていくと「おはようございます」と商売人らしい、人の良さそうな笑顔を作った。
「どうかされましたか。お連れさんも随分慌ててたみたいだけど」
まだ朝食に行くような時刻でもないのに、と亭主は首を傾げた。
「連れの、金髪の娘がここを通らなかったか?」
セルフィナが身振りでヘレンの髪の長さを表すと、亭主は首の傾きを深くした。
「さあねえ、俺がここに座ってからは見かけてないよ」
亭主の答えにセルフィナはがくりと肩を落としたが、すぐに「夜に番をしてた奴に聞いてくるから、ちょっと待ってな」と彼は番台の後ろの部屋へと消えていった。
奥の方から、亭主が大きな声で夜の番をしていた者のものと思われる名前を叫ぶのが聞こえてきた。
ようやく昨夜の勤めを終えて、仮眠を取っているだろうところを叩き起こしているようだ。申し訳なさを感じつつ、セルフィナはおとなしく待った。
何度かごそごそと聞こえた話し声が止むと、亭主は頭を掻きながら番台へと戻ってきた。
「お客さん、申し訳ない。夜半にそこの扉から出て行くのを見たそうだ」
亭主は「この数日、なにやら物騒だってのに申し訳ねぇ」と番が見過ごしたことに立腹しつつ詫びてきた。
「便所から戻って来たときに、扉を開けて出ていく後ろ姿を見ただけらしいけど、金髪で髪の長さはお客さんがさっき言った通りみたいだから、間違いなさそうだ」
「ありがとう、ちょっと表を見てくるよ」
気を付けて、という亭主の言葉を背中で受けて、セルフィナは外へ出た。
起きたときよりも太陽の位置は高くなっていたが、まだ宿の前の通りに人の姿は殆どなかった。店を開ける支度をしている人がちらほらと見受けられるだけで、ましてヘレンの姿は目に見える範囲にはなかった。
どっちへ行こうかとセルフィナが迷っていると、アルフレッドとフローディアが戻ってきた。
「どうだった?」
声が届くほどの近さになると、アルフレッドの方から問いかけてきた。
「夜半に宿を出たみたいだ。そっちは?」
成果を述べてから、二人に尋ねる。
「馬は馬宿に預けたままでした」
ということは、ヘレンは徒歩でどこかへ行ったのだ。歩きならば移動できる範囲も限られる。
神殿から殆ど出ない生活をしていたヘレンが、たった一人で外出するのに何の理由も目的もないとは到底思えなかった。現に、四日前にここを訪れた時、あれだけ辺りを珍しそうにきょろきょろと見回していたような娘だ。むやみに一人で出歩けば道に迷うかもしれないことくらい、彼女自身理解している筈なのだ。
「遠くへ行ってなければいいけど……」
昨夜、睡魔に負けて先に寝てしまったことをセルフィナは今更ながらに悔やんだ。
ここで立ち止まって唸っていても仕方がないと、三人は手分けしてもう少し捜してみることにした。再び二手に分かれて村の中をできうる限り隅々まで走り回る。到底、ヘレンが立ち入るとは思えない路地裏にも行ってみたが、朝早いこの時刻には、せいぜい野良犬が朝の散歩とばかりにうろついているのが関の山だった。
なんの収穫もないまま、旅人向けの食堂が店を開ける時刻を迎え、セルフィナは一旦宿に戻った。
部屋に入ると、フローディアとアルフレッドが出発の準備を整えた状態で帰りを待っていた。
やはり、ヘレンの姿はない。その代わりに、アルフレッドがヘレンの荷物もぶら下げていた。
「待ってたぞ。お前もすぐ支度しろ」
有無を言わせぬ語調でアルフレッドに促された。その真意をフローディアが補足した。
「酒場の近くで居眠りをしていた男が、昨夜、私とよく似た顔立ちの赤毛の女を見たそうです」
「もしかして、それって、フェニアのことか?」
「ええ、間違いないでしょう。松明の灯りでもはっきりと分かるくらい真っ赤な髪だったそうです。姉はわたくしとは違って赤毛なの」
豊かな栗色の髪のフローディアから、勝手に同じ色を想像していたセルフィナには意外だった。よく考えてみれば、兄弟姉妹だからといって必ずしも同じ髪色であるとは限らない。
その酔っ払いが見たという赤毛の女が本当にフェニアだとすれば、昨夜、窓辺にいたヘレンが偶然に見掛けて後を追った可能性は否定できない。
宿や酒場、食堂などの多いこの一帯は、営業中を知らせるために夜間も戸口に松明を掲げている。村の中で最も夜も明るい場所だ。宿の前をフェニアが通ったならば、ヘレンが気付いたとしてもなんら不思議ではない。十分にあり得る話だった。
そうとなれば、今はその可能性に賭けて予定通りウレア湖畔の祭壇を目指すのが最善だと思われた。
セルフィナは大急ぎで身支度に取りかかったのだった。