1.
雄大なグリーンラーム山脈は、まだその頂に雪を残していた。
その雪のような一頭の芦毛の馬が、春の草原の中に続く街道を軽快に駆け抜けていく。その背では、まだ少女の面影を残す男装の娘が、亜麻色の髪を靡かせていた。
やがて、街道の先に街が見え始めた。
近づくほどに、居並ぶ建物の中にそびえる青い屋根の尖塔が淡く雲の浮かぶ空にのびていく。
その尖塔を有するのは、彼女が目指すこの街、グリーンラーム王国の王都ラリンスの王城だった。
迷うことなく王城の通用門までやってくると、娘は鞍に括った荷袋から筒状に巻かれた一通の書状を取り出して門を預かる衛兵に手渡した。衛兵は書状を広げて中身を改めると、それを元通りに巻き、娘に手渡すと入城を許可した。
馬を預け、城内に足を踏み入れる。
ある部屋を目指して、窓から穏やかな春の日差しの注ぐ回廊を進んだ。
そして、目的の部屋の前へやってくると、部屋を護る兵に部屋の主が在室か尋ねた。
生憎、不在と告げられたが、娘はまるで我が家であるかのように、主のいない部屋の扉を開けた。
明らかに高価だが、品の良い調度品で彩られた部屋に入ると、長距離の移動で疲労を覚える体を長椅子に投げ出した。
暫くして、一度は閉じられた扉が荒々しく開き、えんじ色のドレスを纏った女性が姿を現した。
「なにごとですか」
部屋の中へと入って来るなり、彼女は赤い天鵞絨張りの長椅子に無造作に腰掛けている娘を怒鳴り付けた。
「なにごともなにも、親父が顔もよく知らない貴族の男と結婚しろっていうから家出してきた」
娘が事もなげに返事をすると、女性は深く溜め息をついてから、
「なんてこと。セルフィナ、王女が家出なんて聞いたことがありませんよ」
と呆れた様子で眉根を寄せた。
「じゃあ、俺が家出王女第一号だね」
セルフィナは悪びれることなくそう言い放った。そして、長椅子の上に投げ出していた細身の体を軽やかな動きで正し、「暫くフローディアのところで匿って」と続ける。
「他言無用ということですか」
えんじ色のドレスの女性、フローディアは先程よりもひときわ大きく溜め息をついた。
いかにもと言わんばかりに頷いて答えるセルフィナに、フローディアは小さく頭を振って拒んだ。
「二、三日したら、国へ帰るのですよ。いいですね」
小さな子を諭すように、譲歩案を提示する。
しかし、セルフィナはたったいま正したばかりの姿勢を大きく震わせて、
「冗談じゃない! 帰ったら結婚させられる」
と悲鳴のような声を挙げた。
「それよりも俺、伯父上の騎士団の入団試験受けるよ」
そんなセルフィナの言葉にフローディアは驚きのあまり、青い瞳を大きく見開いた。
伯母のそんな表情に気付きはしたが、セルフィナは構わず続けた。
「騎士団に入れば寄宿舎生活だから帰らなくて済む。勿論、俺がヴァルカスの王女だってことは隠す」
立ったままだったフローディアは一筋縄ではいかないことを悟ったのか、ようやくセルフィナの向かいの長椅子に腰を下ろした。
「あなたの気持ちも解らなくはないですよ。でも、だからといって何故、入団試験を受けるという発想になるのです」
ゆっくりと穏やかな口調だが、心底呆れているのは明らかだった。
「世界中のどこを探しても、出奔した挙げ句、身分を偽って隣国の騎士団に入団しようなどという王女はいませんよ。いくら政略結婚がいやでも、もっと他の方法があるでしょうに」
懇々と言い聞かせ始めたが、すぐに何か閃いたように胸の前で手を静かに組んだ。
「どう言っても聞かないでしょうし、こうしましょう。入団試験を受けて、不合格だったらすぐにヴァルカスへ帰ると約束なさい」
このプレシア大陸一、厳しいと言われるグリーンラーム王国騎士団への入団試験に合格できる筈ないという算段での提案だったのだろう。
しかし、セルフィナは喜々として条件を受け入れた。
すんなりと了承を得られ、フローディアが安堵したのもつかの間。あっさりとセルフィナは入団試験に合格し、騎士団の寄宿舎へ移るため、王宮内の客間を後にしたのだった。