秋の海を眺めて
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街外れにある海へと来ていた。恋人の理奈と一緒に、である。その週の週末、ボクたちは時間があったので、共に秋の海を見に来ていたのだ。波の音を聞きながら寛ぐ。ボク運転の車で来ていて、夜は車中泊すればいい。土曜日の昼過ぎに来て、日曜日の夕方までいるつもりだった。さすがに普段はずっと仕事ばかりで参ってしまっている。ボクも会社でパソコンの画面に見入りながら、キーを叩き続けていた。単純作業でも目や腰などに負担が掛かる。思っている以上に。
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「友宏」
「何?」
「最近お仕事どう?大丈夫?」
「ああ、まあな。……きついのはきついけど」
「そう。あたしもそうなのよ。帰宅してストッキング脱いだら、足がパンパンになってるし」
「君も仕事のし過ぎなんじゃない?帰宅したらゆっくり休めよ」
「うん、いつもそうしてる。だけど、なかなか簡単にいかなくてね」
理奈も弱音を吐く。まあ、分からないわけじゃない。彼女だって生身の人間だからだ。ボクも気を遣っていた。朝晩二回のメールは欠かさないのだし、休日はこうやって一緒に過ごしている。しかも遠出がいいらしい。車の運転はほとんどがボクだった。理奈も一応普通自動車の運転免許は持っていたのだが、滅多に運転することはないらしく、ペーパードライバーだ。
「缶コーヒー買ってきてあげるよ。ブラックがいい?それとも微糖?」
「うーん……じゃあ微糖」
「分かった」
頷き、ゆっくりと歩き出す。この近辺にも自販機があるのだ。ボクもそれは知っていた。財布の中はお札がほとんど入ってなくて、コインばかりだ。貧乏している証拠である。でも別によかった。貧乏するというのは実に貴重な体験だからだ。今の会社に入って給料もあまり取れずに下積みばかりしている。でも、それがボクのようなしがない一会社員の実態だ。気にすることじゃない。そんなことは承知の上だったのだから……。
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五百円玉を一個、自販機のコイン挿入口に入れ、飲み物を選ぶ。ブラックと微糖の缶コーヒーを一本ずつ買った。辺り一帯がかなり冷え込んでいたから、アイスじゃなくてホットの方にする。そして冷えないうちに海へと舞い戻った。コーヒーはいつも会社で飲んでいる。フロア隅にコーヒーメーカーがセットしてあるからだ。飲み放題なので眠気が差せば遠慮なしに飲んでいた。
「理奈」
「ああ、ありがとう。いただくわ」
彼女にホットの微糖の缶コーヒーを差し出すと、受け取ってプルトップを捻り開ける。そして飲み始めた。秋とあってか空気が乾燥している。ボクも同じだった。辺りの空気が乾いているので、喉を潤すコーヒーは絶好だ。ゆっくりと秋の海を眺め続ける。波は絶えず押し寄せてきて、海岸の砂をさらっていく。その繰り返しだった。ザーという音が絶えず聞こえている。波でも小波というやつだ。
互いにビーチで佇んでいた。時が過ぎるのも忘れて、だ。ここはまるで時間が止まったように静かだった。波音しか聞こえてこない。ボクも深呼吸を繰り返し、肺に酸素を入れ続ける。普段の会社のことはすっかり頭から追い出してしまって寛ぎ続けた。何もないようにして二人で寄り添い合う。
「友宏」
「何?」
「今夜車中泊だけど、大丈夫よね?」
「ああ。一応毛布持ってきてるし」
「冷えそうかな?」
「うん。でも大丈夫だよ。気温は幾分下がってるけど」
さすがにそう言うしかない。理奈はいつも夜遅くまで起きているようで、夜のメールの送信日時も日付が一つ変わり、午前零時を回っていることがしばしばだ。ボクもさすがにその時間帯は眠っている。会社からタブレット式のノートパソコンや、専用のフラッシュメモリなどを入れたカバンを持ち、帰宅するのは午後九時過ぎだったが、残業時夕食には出前などが取ってある。丼物が多く、食べて仕事し終えたら、すぐに帰宅していた。入浴すれば自然と眠気が差し、午後十一時には眠っている。
「君はいつも遅くまで何してるの?」
「あたし?あたしは会社で出来なかった分の仕事してるわ。多少きつくてもね」
「そう?そんなに仕事あるの?」
「ええ。だって任される仕事、山ほどあるし」
コーヒーの匂いが口から漏れ出ていた。ボクも同じである。互いのコーヒー臭を嗅いでも何ら嫌気が差さないぐらい親密なのだった。ずっと海を見つめ続ける。波は彼方からやってきて、絶えず押し寄せてくるのだ。ゆっくりと砂浜に佇み続けながら、眼前に広がっている海を見ていた。何も特別なことをするわけじゃない。単に寄り添っているだけだった。体の熱を感じ取りながら……。
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「星が見えるよ。月も綺麗だし」
その夜、ボクたちは車の中から起きたまま、窓越しに空を見続けた。たくさんの星が宙に浮かんでいて綺麗だ。二人でずっと眺め続ける。別に考えることは何もない。互いに空を見ていた。流星などが見えたときは願いを込める。「これからも理奈と一緒にいられますように」と。ゆっくりと夜の時間を過ごす。
どちらからともなく腕同士を絡め合わせ、絡み始めた。秋の夜は一際長い。ボクもその日は珍しく遅くまで起きていた。唇同士を重ね合わせてキスを繰り返し、優しく愛撫し合って、ゆっくりと愛し合う。時が流れ、過ぎ去っていく。彼女の体でも一番柔らかい部分に触れると、何も言えないぐらい愛おしくなる。そしてずっと絡み続けた。密に。
やがて達してしまった後、お互い笑顔を見せ合う。別にこういったことに対し、抵抗はないのだ。それに理奈といると、普段会社にいるときのような戦闘的な気持ちにはならない。ボクも自覚できているのだった。いつもはずっとマシーンに向かっている。社の上層部の人間たちが必要とする資料や企画書などを打ち続けていて、残業まですればヘトヘトになるのだ。だけど彼女といると、荒んだ気持ちが補修される。和んだ気持ちになり、倦怠が取れた。
互いに体の火照りを感じ取る。やはり熱を帯びているのだった。その熱も辺りの冷え込みですぐに消えていったのである。徐々に夜が更けていくのが分かった。ゆっくりとシートを倒して、眠りに就く。ボクも理奈も波音を聞きながら寝入った。確かに辺り一帯には静かな波音しか聞こえていない。とても静かな場所だった。それと同時にとても贅沢な感じもする。海の音を聞きながら、眠れるということが、だ。
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一夜明け、ゆっくりと起き出す。ボクも大きく一つ伸びをし、半袖シャツの上に一枚長袖を羽織って扉を開けた。そして自販機まで行き、コーヒーを二缶買う。ブラックでも大丈夫だろうと思い、二缶買ってから車へと戻った。ボク自身、朝はすぐに起きられる方である。以前から掛かり付けの病院では幾分血圧が高めだと言われていた。缶のプルトップを捻り開けて口を付け、飲み始める。
理奈の眠っている毛布の下に温かいコーヒーの缶を入れ、ゆっくりと海を眺め続けた。さすがにゆっくり出来る時間は最高だ。何も申し分ない。まだ彼女は眠っている。車の中はほんのりと海の匂いがしているのだった。これはボクも感じているのだし、理奈も嗅ぎ取っていると思う。互いの髪に付いて残っているシャンプーやコンディショーナーの香りと混じり、辺りに漂っていた。
「……友宏」
「おう、起きた?」
「まだ眠たいわ。体も重たいし」
「この缶コーヒー飲めば目が覚めて気分が変わるよ。温かいし」
「ありがとう」
理奈はコーヒーの缶を持ち、プルトップを捻り開けて呷った。そして同時に言う。「苦いわね」と。
「ブラックのコーヒー、ダメなの?」
「ええ。あたし、コーヒーって糖分が入ってないと飲めないのよ。苦いの苦手だし」
「じゃあ普段からビールなんかも?」
「うん、全然ダメ。飲み会に誘われても、飲み物はウーロン茶かカクテルにしてるし」
「今日は日曜でまだ休みだから、ゆっくりしような」
「そうね。お互い普段からずっと仕事ばかりだし」
彼女も笑っている。ボクも釣られる格好で思わず笑ってしまう。揃ってコーヒーを全部飲んでしまった後、缶を捨てに車外へと歩き出す。理奈が車の中からずっと裸眼で海を見続けている。普段コンタクトレンズを使っているようで、メガネは滅多に使用してないようだ。海を見つめる様子がボクの目にも入ってきた。
海の波の音が耳へと入ってくる。秋の海は心地よかった。晴天なので、雲が一つもなく晴れ渡っている。長袖シャツの袖を捲くり、半袖状態にして海を眺め続けた。ゆっくりと佇んでいる。そのとき不意に車の扉が開き、理奈が出てきてボクに近付き、頬にそっとキスをする。朝の挨拶のつもりなのだろう。ボクも応じるようにして彼女を抱き寄せた。互いに惹かれ合う人間同士で、あまり考えずに素直になれている。常に意識し合ってるから、大丈夫なのだった。抵抗はない。お互いいろんなことがあったとしても、これからも手を携え合って生きていける。そう思っていた。
「いい天気ね」
「ああ。秋が深まってる感じだな。夏も終わっちゃったし」
「過ごしやすくなりそうね」
「うん」
言い交わし、外で過ごす。波は絶えることなく打ち寄せた。ボクも理奈と寄り添い、話をし続ける。じっと海を見つめながら……。秋の海を眺めていると、これから冬という季節に入っていくことが感じられる。常に愛し合える仲でいたいと思っていた。愛情が途切れることはない。目の前の波が絶えず打ち寄せては返すように……。
(了)