詩音×羽美×光一
現在、詩音はある教室――という程広くもない一室の扉の前に居た。実は、かれこれ三分はこの状態だ。直立で微動だにしない。あと十分はこのままだったら足が痛くなりそうだ。
しかし目の前のドアノブを、どうしても回す勇気が出ない。
こんな事は初めてだ。普段は気の合う友達を見付けて、気楽に同級生と話す事が出来るのが彼女である。だがこれ程、まさしく壁と呼べるようなものと対立するのは今までになかった事だった。
(でも、開けるべきなんだ)
この――文芸部室の扉を。
つい先日、詩音の想い人である教師から、ある一人の少女の境遇を聞いた。後にその場で泣き出してしまった詩音に、彼はこう言った。
「知りたくなったかな?」
「…………」
詩音は黙るしかないと言わんばかりに、沈黙を貫く。
「ごめんな。つい熱くなってしまった。俺に娘が居たら……あんなカンジなのかな」
目を細めて微笑む彼は、囁くように呟いた。
「碧川」
「は、はい」
「彼女を見たい、と思うなら文芸部室へ遊びに来なさい」
「『見たい』?」
「君は彼女をまだ何も見てない、だろう? 多くの交流を持ちたいと願うなら、少しでも知りたい相手の深い所を探ってみるのも大事だよ」
彼の言う事を完全には理解出来なかったが、その言葉はそっと、詩音の心に入り込んだ。
別に入部してくれと頼まれた訳ではない。元々部活動には無所属で、何処かの部活に入っておいた方が楽しいかもしれないとは考えていたのは確かだ。ずっと手元に置いたままだった入部届けの紙に、まさか『文芸部』と書くとは、自分でも思いもしなかったのだが。
風間羽美の第一印象は悪かった。否、周りの評判だけを聞いて、詩音の中で勝手に悪くしていた。それが解ったからには、『本当の彼女』を知りたいと思ったのだ。
周りから見た彼女は、『彼女』自体ではないのだから――。
しかしそう考え直したのは良いものの、実際に彼女とは仲良くなれないかもしれない、という不安が詩音にはあった。
恭賀の期待を裏切るのが怖かった。何も出来ずに、結局マイナスの印象しか残らないのでは、と考えると、彼女と顔を合わせる勇気が出ないのだ。
人間は意外に目敏く、気の合う友人を見付けるのが上手い。詩音は第一印象で、風間羽美とは仲良くなれないと一度断言している。その考えを改めた反面、やはり――と考えてしまうのだ。
「――って、悩んでても仕方ないか」
詩音は持ち前の切り替えの速さで立ち直る。
彼女と面と向かって話をしたい。
ただ、それだけの事ではないか。
詩音は意を決してドアノブに手を掛けた。
「……何かデジャヴ」
「あの」
背後ではなく横から声を掛けられる。その瞬間、詩音の心臓は飛び上がり、手に掛けていたノブを思わず離してしまった。以前も、この文芸部室の前で、同じ声を聞いた――。
詩音は首を横に向けて、彼女を目で捉えた。
「……文芸部に用がある人ですか?」
風間羽美。彼女の事ばかり考えていたにも拘らず、実際に言葉を交わすのは今が初めてだ。
優しい声音である。
「間違ってたら済みません。碧川……えっと」
「詩音」
羽美の背後に居る者が彼女に耳打ちする。
「そうだった。碧川詩音さん、ですか?」
「う、うん」
恭賀に呼ばれた程ではないが、名前を認識して貰うのはやはり嬉しい。詩音は少しだけ心が落ち着いた。彼女に会うまで、無意識に張り詰めていたらしい。
「えっと、何て言えば良いのかな……」
「頑張れ部長」
後ろの者が軽く声援を送る。
「よ、ようこそ文芸部へ。部長の風間羽美です。宜しくおねがッ……お願いします!」
「あははっ。漫画みたいな紹介の仕方。やっぱり羽美っち面白いー」
例えるならハムスターと犬の様な組み合わせの二人に、詩音は親しみを覚える。そう。覚えようとしていた――が、
(何だろう。風間さんよりすっごい聞き覚えのある声が……)
彼は羽美の真後ろに居る為に、もう少しという所で顔が見えない。だが、このテンションは知っている。
考え込んでいる内に、羽美の後ろから謎の人物があっさりと姿を現した。
「やあ、朝ぶり?」
「なっ!」
正体は、幼稚園の頃からの幼馴染。
「な、何で…………何でアンタが居るのよ――ッ!!」
思わぬゲストの登場で、詩音の緊張は完全に解けた。
「まったく。大袈裟なんだよなあ。何でいちいち奇声上げるんだよお前」
「驚くに決まってんでしょ! 文芸とアンタの関連性なんか誰が思い当たるって言うのよ!」
「人の事言えないだろ」
「古典で赤点ギリギリの奴に言われたくないわよ。確かにあたし、本は読まないけど成績は良いんだからね」
「碧川さん、何点だったの?」
「え……八十六点」
「凄い! 学年末考査のだよね。頭良い人、ホントに羨ましいな」
羽美から向けられる尊敬の眼差しに、詩音は照れて頬を仄かに赤らめる。
羽美、詩音、光一の三人は、文芸部室内で悠々と長椅子に腰を落ち着けていた。流れ的に詩音の隣に羽美が座った。彼女はおどおどしていても、初対面相手を理由もなく敬遠するようなタイプではないらしい。
詩音は初めて入った文芸部室は、想像していたよりずっと狭い事に驚いた。これ程、倉庫と呼ばれてもおかしくない小部屋では、存在自体誰からも聞かされなかった事が頷ける。
「改めまして、文芸部入部おめでとさん」
彼女達の向かいに座る光一が、長椅子の背凭れに肘を乗せて快活に笑う。
「お互い様、でしょ。ところでアンタはいつから入部してたの?」
「一応、入部したのは俺が先だけど、入部届け出したのはお前が先だよ」
「はあ?」
この幼馴染は何を言っている、と詩音は呆れたような声を返した。
「何、アンタも最近入ったの?」
「正確に言えば、昨日入った」
「どんだけ行動早いのよ。っていうか、何でいきなり文芸部なんかに……」
詩音はハッとした。
文芸部『なんか』と言えば、まるで自分は部を馬鹿にしているようではないか。詩音は慌てて羽美の方を見た。
――しかし、羽美はそれを聞いても落ち込むどころか、持参した水筒に入った紅茶をゴクゴクと飲んでいる。気にする様子はまったくない。それとも、単純に聞いていなかったのだろうか。
「あの……風間さん」
「!」
呼ばれるとは思わなかったのか、羽美は慌てて水筒から口を離し、ぐりんと首を詩音の方に向いた。
「何?」
「あ、いや」
意外と図太い性格らしい。基本、細かい事はあまり気にしないといった所だろうか。
「……私も訊きたいな。碧川さんの志望動機」
「え」
「そうだよ。俺に訊く前に自分の話せよ」
「あたしは……ッ」
――……答えられない。
恭賀から話して貰えば、それは『風間さんと仲良くしたくて』になる。だがそのような事を堂々と言えるだろうか。言える訳がない。恥ずかしい。照れ臭い。
詩音は膝の上で手を重ねたまま、そのまま黙り込んでしまった。
「……お前も何となくなの?」
「う、うん」
結局言葉を濁して誤魔化した。
「そっかー。俺はなあ、親友がこの部に居たから入部した訳よ」
「で、ええっ! 親友!?」
「え?」
「ん?」
光一と羽美は詩音の反応に首を傾げた。
「二人が……親友?」
「あれ? 詩音も前から知ってると思ってたんだけど。俺らの交流」
「し、知る訳ないじゃない! で、でもそこは普通、その……『親友』じゃなくて『カレカノ』って言った方がしっくり来るんじゃない?」
「んえ?」
「ふえ?」
素っ頓狂な声を出す二人。
「だ、だって……異性同士で『親友』って呼べるまでなら、周りにそこまでいった関係として誤解されるのも当然でしょ?」
「異性? 何言ってんだ。同姓だよ」
「ええ!?」
では、つまり――
「風間さんって男子生徒だったの!?」
「…………」
「…………」
今度は詩音以外の二人が黙り込む。
「そうなの!?」
詩音は、光一が言う親友が羽美を指しているものだと思ったのだ。女子を親友と称す光一は、羽美に好意を持っている。と考えたのだが、光一は親友はあくまで同姓で、男だと言う。つまり、親友を指すのが羽美で、それが男だという事は――
「風間さんは俗に言う、『ふたなり』ってヤツ!?」
「……違うんじゃないかな」
光一は“とりあえず”否定するかの様に、深い溜息をついた。羽美は、呆然としている。
「よし。お前とは付き合いが長いから、どうしてそんなイカれた結論に達したのかは大体見当がつく。よって、正論を言わせて貰う。俺の親友は野沢薫だ。知ってるだろ?」
「……え? 野沢君?」
彼も文芸部員だったのか。
そして、やっと合点がいった。詩音は盛大な勘違いをしていたらしい。
「ご、ごめんなさい。風間さん」
「あ、いや。吃驚したけど……平気……ふふ」
羽美は手で口元を隠して小さく吹き出した。
「あははっ。碧川さん、面白いね。ふふふ」
笑い上戸なのか。彼女は肩を震わせ、お腹を抑えて笑いを堪えようとする。
――泣いていたという彼女。目の前で笑う、彼女。
「笑顔……」
「え?」
詩音の呟きに、羽美は首を傾げる。
「おっ? 何だ何だ。詩音も羽美っちのスマイル攻撃にやられたか?」
光一が茶化すようにニヤける。
「えっ。わ、私のその、ブサイクな顔なんて、全然……」
「言う程、羽美っちは不細工な顔作りじゃないと思うよ。目だってパッチリしてるし」
「あ、有難う」
「照れ笑い」
二人の会話に割り込むように、詩音がまた一言、ぼそりと呟く。
「え?」
「詩音、お前さっきからどうし――」
ガバッ!
「わあっ!」
「……シオンさん?」
叫んだのは羽美。呆気にとられたのは光一。
詩音が、羽美の首に手を回して勢い良く抱き付いた。飛び付いたといった方が近いかもしれない。
「か……」
「蚊? 何処に?」
「可愛いいいいいいッ!」
「えええっ!?」
詩音は抱擁という体勢のままで、羽美に頬擦りする。
羽美は何が起こったのかまるで解っていないという風な表情をして、頬を赤く染める。あまりの突然の出来事に驚いて目を丸くした。
「光一! 羽美ちゃん、貰って良いかしらっ?」
「そういう事は、風間さんのご家庭にご相談下さい」
光一がしれっと言う。さすがは幼馴染。彼女の挙動不審には慣れているようだ。
しかし抱き付かれている当の羽美は動揺する事しか出来ない。同級生にこのような事をされたのは初めてだ。
「こ、光一君。これは一体?」
「うーん。求愛行動の一種じゃないかな」
「な、何か違う気がするけども……」
その時、ガチャリと部室の扉が開く。入って来た者はノブを手に掛けたまま立ち尽くした。
「……どういう状況?」
「むかしむかし、ある所に」
「昔話風に語り始めるな」
件の親友にボケを披露してみせた光一は、あくまで落ち着いている。
「百合?」
「友情だろう」
我が子を見守るような目で、光一は二人の少女に生温かい視線を送った。