詩音×恭賀
詩音は職員室で自らの担任の先生に訊いて、たった一人の文芸部員を突き止めた。突き止めた、という言い方をすればまるでようやっと犯人を追い詰めたように聞こえるが、ただ各部活の代表者が書いた部活紹介のプリントを貰っただけである。
文芸部員は一人。つまり、成り行きで部長の座に就いているという事に他ならない。詩音は貰ったプリントを、紙に穴が開くのではないかというぐらい目を凝らしてじっと見つめた。
「! あった」
文化部で部員人数が危う過ぎると言っても、一番最後の隅に載せられている訳ではないらしい。
紹介文などどうでも良い。確かめたいのは名前である。
「……『風間羽美』?」
『かざまうみ』読みで良いのだろうか、と詩音は前の席に座る幼馴染の男子の背中を軽く叩いて、漢字の読み方はそれで良いのかと尋ねた。
「良いんじゃないの。『はねみ』なんて可笑しな名前付ける親も居ないだろ」
「それもそうよね」
うん、と頷いて詩音は自分の机の中を探った。
「んじゃ、名前が解れば後は一年の名簿を見れば一発ね」
「職員室で何処のクラスの女子かも訊いて来なかったのか?」
「そりゃあアンタは平然と訊けるでしょうね。でも、わざわざ職員室行ってまで同学年の生徒探ししてる生徒って思われるのが、何となく気が引けるじゃん」
「…………」
「な、何で黙るのよ」
「体裁」
「はっ?」
「何でもない」
彼はそう言ったきり黙って、窓の風景に視線を投じる。
(何なのよ)
詩音は彼が言葉を濁したのが無性に苛立って、手にした紙を軽く握り締めた。
入学時に貰った各自が使う靴箱の番号が振られた紙には、一年の組と名前も一緒に記されている。詩音はそれを使って風間羽美が二組だと解った。
「って、隣のクラスじゃん」
一組の詩音の教室の、目と鼻の先だ。今更ながら遠回しな探し方をしてしまった気がする。二組に訊ける友人も居たではないか。
詩音はさっそく二組の教室に入ろうとする女子生徒を呼び止める。
「あの、風間さんってどの子?」
「風間……羽美ちゃん?」
「うん」
「えーっと、あの一番後ろの席に座ってる、本読んでる子だよ」
詩音は彼女が少し迷ってから指差す方向の人物に、焦点を合わせた。
(間違いない。あの子だ)
詩音が先週、文芸部室から出てきた人物の顔に一致する。あの恭賀先生と仲良くしていた――
「ねえ、あの子ってどういう子?」
「どういうって……」
詩音は何の気なしに訊いてみた訳ではない。想い人に相応しいかを見極める、といった大袈裟な意図はないが――そういった事をする資格がない事も解っているが――人間性を確かめるのが本来の目的なのだ。不審に思われてもこれだけは訊いておきたい。
可憐で友達が多い、気さくな子だろうか。積極的で、クラスの人気者だろうか。ならばあの校内でも人気がある恭賀先生と仲が良いのも頷ける。
詩音は風間羽美が、自分と格が違う女子ならば諦めがつくだろうという考えがあった。
しかし、風間羽美と同じクラスの女子は、別な意味で格が違う事を言ってみせた。
「何か暗い子、かなあ」
「え?」
「挨拶すれば返してくれるけど、自分からはあんまりしない子。休み時間は本読むぐらいしかしないし、お昼の弁当を食べるグループの中でもはしゃがない。球技会の時のドッジボールなんてまったく駄目で、クラス中に迷惑掛けてたよ。あれ程運動が苦手な子、初めて見たっていうか」
「…………」
詩音は黙って彼女の話に耳を傾ける。
「ね、ねっ。何で羽美ちゃんの事、訊くの?」
「えっ」
女子は何処かはしゃいでいるように見えた。詩音は何と説明するか迷う。
「えっと、何かどっかで聞いた名前で、見に覚えなかったから、何となく気になって……」
「あー、やたら無口な子って逆に目立つよねえ。一人で居る程、周りが悪口言いたくなっちゃうっていうのにさ」
「……そうね」
「見てると可哀想だわ。ホントにさ」
言っている彼女は、本気で同情しているようには見えなかった。しかし、その偽りの同情が不快だと詩音自身は思わなかった。
(本当、どうして自分から負け組みオーラ出すんだろう)
改めて風間羽美を見る。言われると、もう根暗な子にしか見えない。自分の中に延々と闇を作り、それでもずっと孤独で居続ける。そういった類の者とは出来れば関わりたくない。詩音の経験上、こちらから話し掛けても楽しませてくれないし、その上一緒に楽しんでくれない子だ。
(……馬鹿じゃないの)
詩音は二組の教室の前から離れる。
風間羽美に何と無駄な期待をしてしまっていたのだろう。あんなに見るからに人に好かれなさそうな女子が、教師と仲が良さそうに見えたなど、きっと錯覚だったのだ。もしくは先生が彼女に同情して、一緒に居ただけだとも言える。
(心配する事なんて、何にもなかったんだわ)
放課後はいつも通り、一年五組の教室に行ってみよう。
今度は自分から話し掛けるのだ。
夕方。HRを終えて一年五組の教室に向かう。ドアの硝子から教室の中を覗くと、そこには目当ての彼が居た。
(今日こそドアを開けるのよ)
彼は先週、二度目の交流で彼女を快く迎えてくれた。名前を覚えられていなかった事は今でも、少し胸を痛める。だが彼の事だ。二度目ともなれば、きっと名前か苗字で呼んでくれる。
(下の名前で呼ばれちゃったらどうしよう)
密かな夢に赤面し、両の手の平を頬に当てて首を振る。思考が既に暴れている。
詩音は一分程ドアの前で立ち尽くして、深呼吸をした。意を決して、ドアに手を掛ける。
(いざっ!)
心の中で叫ぶ。
自分で開けたとはいえ、耳を劈くようなドアの大きな音に驚いて、肩に力が入ってしまった。
「こ、こんにちはっ!」
「やあ、元気が良いね。碧川」
彼は期待を裏切らない。しかも――
(よ、呼び捨て!)
何と嬉しいサプライズだ。彼は前回お目に掛かった時には『碧川さん』と詩音を認識した筈だ。それなのに三度目の対面で、もう呼び捨てで彼女を呼んだ。
恭賀は教卓に寄り掛かっていた身体の体勢を直す。詩音はドアを後ろ手に閉めて、教室の中に入った。
「はいっ! 何でしょうかっ!」
「はは。俺相手にそこまで畏まって話すのは君ぐらいだなあ」
「光栄です!」
「そうか? 光栄と言って貰うのは光栄だな」
「こ、光栄と言って貰うのは光栄と言って貰うのは……」
「あーあー、ストップ。エンドレスになる」
「! 済みません!」
「面白いね、碧川は」
詩音の心臓が大きくドキンと鳴った。嬉しい。その言葉が嬉しい。ドジが笑いの種とはいえ、自分が居る事で誰かが笑うのは気持ち良い。それが好きな人なら尚更だ。
「あたし、恭賀先生とこうやって話してみたかったんです。だから今、あの、その」
「ん?」
詩音は幸せですと言葉を続けようとしたが、出来なかった。甘い言葉を乱用出来る程、詩音は純粋無垢ではない。
「せ、先生はいつも教室に一人で残る事、多いですよね。冬だから……職員室に居た方が、ストーブ効いてるし、暖かいと思うんですが」
「そうだなあ。だから懐炉をポケットに突っ込んでるんだ。それに、ここに居る事で一人の時間が出来る」
「……一人で居る時って楽しいですか?」
「碧川だって、自分の部屋で一人っきりの時間を過ごすだろう?」
詩音は彼に名前を呼ばれる度にドキドキしていた。
「はい。でも、一人とは感じないです。自分の部屋に入れば友達とメールとか電話とかするから」
詩音は少しでも、自分には友達が多いという事をアピールしたかった。男性の、異性の好みのタイプというものは『明るい子』だ。異性に好感度を持ってもらう為の重要な長所である。
「そうか。一人の時間は、人には必要だと俺は思う」
「す、素敵ですね。その考え方」
「うん、文学少女の受け売りかな」
その時、詩音はある者の顔を頭の中で思い浮かべ、幸せの感覚がふっと消えた。
「――それ、もしかして文芸部の風間さんの事ですか?」
「おお、よく解ったなあ。そうそう。小説は書かないけど本は一応読んでるから、文学的な言葉とか偶に口ずさむんだ」
「そう、ですか」
厭だ。厭だ。厭だ。
彼女の話に行かないで欲しい。
(そうじゃない。風間さんの名前を出したのはあたしで……)
詩音は如何してか、呼吸がままならなくなる。苦しい。胸が痛い。
「ここで小一時間も寛いでるのは、風間が来るの待ってるからかもしれないなー。あ、文芸部室はこの教室のすぐ隣でね。職員室から文芸部室より、ここから様子を見に行った方が早いんだ。まあ部室開けない月曜と木曜も、今日も部室開くんじゃないかと無意味な期待してたりするんだなこれが」
「…………」
「今日は木曜だから開かないな。基本は、活動日だけは守るんだよな、うちの部長は」
「……文芸部の顧問」
「あーうん。あんまり知られてないんだよなあ。周りには見るからに運動部の顧問だとか言われるけど、俺、そんな頻繁にジャージ着てるかなあ。まあ今日はジャージなんだけど。あはは」
「――楽しい、ですか?」
「ん?」
詩音は自分の顔が翳っているのが解ったが、思考より口が先に動いた。
「つまらないじゃないですか。風間さんって。何か、一人で読書してる事多いらしいし。うちのクラスにはそんな頻繁に本読んでる人、居ませんよ。普通休み時間とかは、友達とお喋りするのが学校で充実するってもんじゃないですか。異質っていうか、何考えてるか解んない子ですよ」
理性も止めろと訴えていない。彼に教えなければ。実際、周りが、風間羽美を何と言っているか。
「皆に合わせられないっていう子は、一緒に居たって楽しくないんです。先生も話してみて解りましたよね? 先生はこんなに話してて楽しいけど、風間さんはまるで正反対。無理に自分と合わないって思う子と付き合う必要はないと思います。あたし……」
ごくんと唾を飲み込んで、自分の意見を伝える。伝えたい。伝えなければ。
「先生に、ストレスを溜めて欲しくないんです」
「……そうか」
彼は意外にあっさり了解して、微笑んだ。詩音は再び気分が高揚した。彼の役に立てただろうか。気付かせてあげられただろうか。無理をする必要はないと。文芸部の女子の相手に力を入れる必要はないと。
沢山の人付き合いをしてきて良かった。お陰で風間羽美の人間性を正しく伝える事が出来た。
気分も爽快だ。爽快な筈だ。
「羽美ちゃんと同じクラスではないよね?」
彼は微笑みを崩さず、詩音に顔を近付ける。咄嗟の事で、詩音はさらに顔を赤くした。
「え、あ、はい。そうです!」
「そうか……なのに、如何してなのかな」
彼の口元は笑ったままだが、目だけが色を失った気がした。
「え?」
「お昼によく一緒になる?」
「そ、そんな。交流はありません。第一、一緒にお弁当を食べるような友達の事、ここまで邪険に出来ませんよ」
「それでは、君の羽美ちゃんに対する評価は取り消して欲しいな」
「せ、先生!?」
何と言う事だ。彼は既に彼女に情を移してしまっている。これでは彼はこれから、彼女の事で悩む日々を送るようになるのではないか。風間羽美を学校に馴染ませるのに尽力を尽くすなど、やっても無意味だ。
「駄目です。先生。無理しないで下さい。本当は、風間さんと一緒に居る事で、ストレスを感じてるんでしょう?」
「どうしてそう決め付けるんだい?」
「あたしは、風間さんみたいな子とも付き合ってきた経験があるからです。あたしが実際にストレスを感じたからです。先生に、そうなってしまって欲しくない。そういう意味では風間さんは問題児の様なものでしょう?」
「彼女が問題児なら、君も同じように俺は見るよ」
「! あたしは風間さんとは違います!」
屈辱ともいえる。
何より一目で解ったのだ。彼女は自分とは決して相性が合う事はないタイプだと。彼女と自分は同等と思いたくてもなれないものだ。
「ああいう子とは、あたし、もう付き合いたくないって思ったんです。先生だって、普段から笑顔を向けられた方が良いでしょう? お喋りな子の方が一緒に居て楽しいでしょう? 面白い話題持って来てくれる子とか、相槌を笑顔で打ってくれる子とか、すぐに馴染める子とかの方が……ッ」
「何に期待しているんだ?」
ここまで言っても解らないのか、と詩音は唇を噛み締めた。自分は多少風間羽美を悪く言っているが、本来は彼女はどうでも良い。彼が彼女の事をこんなにも庇う事が悔しくなってきているのだ。
「期待って何ですか!?」
「君にとって友人とは、君の希望を何でも叶えてくれる存在か?」
「何ですかそれ。そんな事、思ってないです」
「本当に? 俺にはそう聞こえる」
「そんなの、先生がそう解釈した勝手な判断です! あたしは――」
「確かに。君の言う通りかもしれない。俺だって、最初は風間をそんな目で見ていたよ」
「そんな目って……」
「君の事を悪者に例えるように言ってしまうが……蔑む目だ」
詩音はもう何が何なのか解らなくなってしまったのか、はっきりと彼が言う言葉の意味を理解出来なかった。
「人は誰だって楽しい方が良いよな。でもそれは君だけの意見じゃないんだ。大半の人々の代弁になり得る。風間も君と、同じ意見を言うと思うよ」
「そうですか? 本当にそうなら、何であんなにいつも自分から楽しむ事が出来ない子に見えるんですか? あたしにはあんな理解不能な子、好きになれません」
恭賀は詩音の前で腰を低くし、両膝に手を置き中腰になって彼女の顔を覗き込んだ。
「外目だけでは駄目な事ぐらい、高校生ともなれば君にも理解出来るだろう? 大事なのは内面だ」
「話してみて解ったって言ったじゃないですか。内面だって……つまらなかったです」
「……そうだな。じゃあ俺から言う事はもうないかもしれない」
「やっと、解ってくれましたか? 無理に話したくない子と付き合えって言われる身にもなって下さい」
「うん、それは謝る。だけど、これだけは言わせてくれ」
「はい……」
「彼女の悪口を決して言わないで欲しい」
彼は中腰のまま、頭を低くする。
彼が泣いているように見えたのは、きっと見間違えだ。
「別なクラスですから、元から殆ど風間さんの話なんてしないと思います」
「少しでも駄目だ。彼女の害になるような言葉を、絶対に選んで言ってはいけない」
「もしかして、風間さんの悪口を聞いたら、あたしが止めろとでも言うんですか?」
「出来ればそうして欲しい」
「無茶ぶりです。あたしはそこまで強い、正義の味方じゃありません」
「じゃあ言い方を変えよう。風間の話題を一切、君の友人の中で出さないで欲しい」
「それで何か変わるんですか? 陰口を良しとは言いません。だけど、少しぐらい話題に出てしまうのはもう仕方ないと思います。第一、いつも周りの話なんか聞かないで、自分の世界に浸ってる子の耳には、陰口なんて届かないです」
「……届いてるよ。風間は、自分に対する評価がどういったものなのか、嫌という程思い知らされてる」
「そうですか」
だからそれが何だと言うのか。ここまで長く彼女の事ばかり話していれば、そろそろ彼女の存在ごと忘れてしまいたくなる。――まるで、自分が彼女を虐めているみたいに感じられて嫌だ。それでは完全に詩音は悪者扱いではないか。
「だったら、風間さん自身が、そんな自分を直す努力をすべきです」
「そうだな。君に、無理に彼女のような性格を受け止めろとは言わない」
彼が顔を上げる。夕日は疾うに沈んでいて、窓の外は徐々に暗い青色に染まって行くのが窓越しで見てとれた。
「だから、彼女の事を放って置いて欲しいと言っているんだ」
「そういう事なら頼まれるまでもないです」
「陰口の行為は放って置くのとでは違うよ。彼女の悪口しか言えないのなら、話題にも出すなと言っているんだ」
「あたしに言わないで下さい! 言っているのはあたしじゃない。二組の子だと思いますけど」
「風間の話題が出るのが解ったら、止めなくて良いから転換して欲しい」
「どうしてあたしがそんな事をしなくちゃいけないんですか!? 風間さんがやるべき事をあたしに押し付けないで下さい!」
「彼女には、無理だ」
「……先生だって、結局彼女を下に見てるじゃないですか」
「傷付き過ぎた。それが解るから、彼女は踏み出す一歩を見失ってる所なんだ」
「意味が解らないです」
「――泣いてたんだよ」
途中から彼の言葉を鬱陶しくなってきていて、詩音は怒りを拳に留めていたが、その力が急に弱まったのが解った。
泣いていた。それが誰かは、聞くまでもない。
「風間さんが? ……何処で?」
「この隣の部屋だよ」
風間羽美は校内でたった一人の文芸部員だ。彼女が教師に見られるような所は他でもない学校で、彼女が一人になれそうな場所は――文芸部室だけだろう。
「俺が彼女に対する認識が誤っていたと解ったのは、部室で、たった一人になれる場所で、彼女が泣いているのを見たからだ」
「……え」
詩音はついに何も言えなくなった。人の涙には偽りも何もない。ドラマ撮影をする俳優や女優でもなければ、泣くという行為がどういう事を意味するかは、誰もがよく知っている。
泣く程嬉しい。寂しい――悲しい。
「その時、俺は何をしたと思う?」
詩音は沈黙で話の先を促した。
「何も、出来なかった」
彼は拳をぎゅっと握り締める。ここまで真剣な彼の顔を見たのは初めてだ。
「俺は今まで彼女をどんな風に思っていたか思い知ったんだ。人付き合いが苦手で、面白い事を何一つ言ってくれない。つまらない子だ、と。なるべく話さない方が彼女の為だと勝手に思って、何処かで彼女を敬遠していた」
同じだ。本当に同じだ。伝えるまでもなかった。彼は詩音と同じ事を考えていた――そしてそれが間違いだったと、そんな考えをして後悔したと訴えている。
「しかし、後になって悟ったよ。自分が一生徒にどんな事をしてしまったか。風間に、こんな簡単な事を教えられるとは思わなかった」
「それって」
「関わろうとしなかったんだ。深く彼女を知ろうとしなかったんだよ。良い所を見付ける努力を俺自身がしてなかった。それなのに俺は彼女の悪い所ばかり見て、彼女が心に仕舞い込む事しか出来ない闇を、後になって知った。情けなくて、今でも自分を殺したくなるぐらいだよ。どうして彼女を――泣かせるまで、苦しませてしまったんだろうと」
「…………」
「碧川はさっき、風間が周りに悪く言われるのは仕方ないと言ったね。けど、そんな事はないんだと今なら言える。今、俺が君に言うべきなんだよ。俺の言葉が偽善だとは決して思わないで欲しい」
偽善と思われたくないのは、恭賀の言葉の先には彼女が居るからだろう。風間羽美が抱え込んだ悲しみが、決して嘘ではないと、それは真実なんだと彼は一人でも多く認めて欲しいのだ。
恭賀は羽美を恋愛感情で好いているのではない。彼女を知ってしまったから、彼女に対するこれからの接し方を変えようと思った。それだけだった。
「結局学校で泣きたくなるのは、学校に問題があったんだろう? ただ一人で居るだけで泣く筈ないんだ。ちゃんとした別の原因があったんだよ。そして原因を作ったのは彼女だが、泣いてしまうまで原因を邪悪なものにしてしまったのは、俺を含め『周り』なんだ」
「周りって……」
「こんなに怖く聞こえるんだ。陰口、っていうのはね」
他人の心境を聞くだけで、こんなに恐怖で押し潰されそうなのに――
(じゃあ、風間さんは?)
当の彼女はどれだけ苦しんだのだろう。自分の知らない所で。たった一人で、恐怖と闘って来て。
(何で?)
どうして周りに相談出来ないのだろう。どうして、してくれないのだろう。どうして一人で苦しむのだ。
日常生活の中で生まれる闇。それが今やっと解った気がした。
どんなに自分が正しいと思っても、今でも彼女が恨めしく思っても、恭賀を偽善者とだけは呼べない。呼ぶ事は出来ない。彼はありのままの事実を詩音に伝えたに過ぎないのだ。
現実に怯えるより先に逃げていたのは、詩音の方である。
そして、自分の事でもないのにこんなに涙が出るのは、初めてだった――。