光一×詩音
寝ぼけなまこを擦りながら校門の前で、光一は一度足を止めた。まるで校内で集まっていたかの様な強風が彼を襲ったからだ。今日は背中にカイロを貼って来て良かったな、と思った。
昇降口で革靴から上履きに履き替え、四階まで足を運ぶ。一年五組の親友の教室ならば三階なのに。彼はこんな細かい事でも「理不尽だ」と嘆いてみせた。
ようやっと四階の一年一組の教室に辿り着くと、室内はしんと静まり返っていた。何も比較的無口な者が集まっている訳ではない。ただ単に教室の中に誰も居ないのだ。
「今日も一番乗りっと」
彼はリュックを机の上に下ろし、席に着いた。前から三番目の窓際で、一人で居る時は大抵窓の格子に肘をつけて頬杖をつく。クールビューティーを目指しているのではなく、この格好が楽なのだ。
――このような絵になる姿勢を無意識にやるのだから、タチが悪い。特に女子連中相手には目の毒だ。勿論彼女も女子の一人だが、最早幼馴染の彼に今更特別な感情を抱く方がどうかしていた。
「光!」
「あ、おはよう。詩音」
呼ばれた彼はのほほんとした表情で片手を上げる。詩音はズカズカと真っ直ぐ彼の所まで早足で歩き、彼の机をバンッと叩いた。
「一生のお願い」
「朝から何」
予想通りの反応である。彼――石沢光一はそれが真剣な話し合いだと解っていても、いつもさほどやる気を感じさせない声を出す。詩音はがくりと肩を落とした。
しかし、これはそんな滅多な事では騒ぎ立てない彼だからこそ頼める事だ。良く言えば彼はいつだって冷静なのだ。
詩音は勇気を振り絞り、光一の机の上で拳をぎゅっと握って、声を出した。
「恭賀先生について……調べて欲しいの」
朝っぱらから男子に詰め寄り、突然不自然な発言をする女子というのは、どう考えても不審がられる。学校中で変人と噂もたてられかねない。
しかし幼馴染の彼は予想と反する応答を返した。
「詩音って新聞部だっけ」
「違――――うッ!!」
侮っていた。奴を甘く見ていた。光一に人望があるのは、天然で鈍感のせいだという事をすっかり忘れていた。よく解らないが、周りには彼のその特性がツボらしい。
「弱みを握って何かやるとか?」
「んな事、先生にする訳ないでしょ!」
「必死だなあ。まず理由を言ってくれよ。それなりの理由を掲示してくんないと、男性教師のストーカーとか正直やる気しないぞ」
「その言い回し、どうにかなんないの……?」
しかも彼は根っからの正直者である。詩音は話がおかしな方向に向かないよう、軌道修正するべくコホンと咳払いをした。
「べ、別に動向を探るとか、大事じゃなくて良いわよ。ただ知りたい事があって」
「それって、本人から訊き出して良い事?」
「いや、多分、応えられないと思うわ」
詩音は言い辛そうに横目を向いた。
「そんな複雑な事なのか?」
「せ、先生が……今仲良くしてる女子は……誰、かな……と」
「あー、それは応えられないわな」
光一は納得してうんうんと頷く。
「な、何よ! アンタ、何か知ってるの?」
「そうじゃなくてさ、恭賀先生は色んな生徒と仲良いし、束縛とかするタイプでもないだろ」
「――アンタ、あたしが恭賀先生の事、好き……だって事知ってるよね」
「そうだっけ?」
「そ、そうよッ! だけど……この前、先生が女子と小部屋から仲良く出てくる場面を見ちゃって」
その部屋の中で不埒な行為をやっていたと疑ってはいない。恭賀が小部屋に入って、五分もしない内に出てきた所を詩音は目撃している。彼女が辛いのは、想い人が他の女子と仲良く話していた事だ。
「あたしは、話し掛けるのだって勇気が要るのに」
しかし想い人の一番は自分ではない。自分よりも仲が良い女子生徒が居る。その事が、嫉妬だと解っていても、悔しかった。
「……それで?」
光一が軽く息をついて先を促す。
「それで、その女子が何組の子なのか、調べて欲しくて」
「解ったら、どうするの?」
「え?」
「怒鳴るとか、叱るとか、脅すとかして先生に近付くなって言うのか」
「しないわよ! そんなんじゃないっ。ただ知りたいだけよ……先生が好意を持つ子っていうのを」
「ふーん」
つまらなそうに聞こえる声でも、それはこれ以上深く詮索しないとの彼なりの意思表示だ。
「そうだな。突き止められたら、先生の好みも解るかもしれないしな」
「う、うん」
茶化されているのは解っているが、一理あると詩音は素直に頷く。
「いいよ、別に。五組から調べるのがいいのか?」
詩音の想い人である彼の受け持つクラスは、一年五組だ。
「ううん。文芸部の一年から調べた方が早いわ」
「文芸部?」
光一は首を傾げる。詩音は見た手掛かりを彼に伝えた。
「恭賀先生と件の女子が、文芸部室から出てきた所を見たのよ。だからその女子は文芸部である可能性が高いわ」
わざわざ『件』という単語を用いる幼馴染に苦笑しながら、光一はすっと立ち上がった。
「名簿見せて貰うよ。職員室行ってさ」
「お願いね!」
「確か文芸部の顧問は恭賀先生だったよな」
「え……」
詩音は五秒程、固まった。手掛かりを掲示する立ち位置についている筈が、手掛かりを受け取る側である彼から、意外な情報を聞く羽目になる。
「部員は一人って言ってたし、五分後には正体掴めるよ。んじゃ行って来ま」
「ちょっ・と・待・ち・な・さ・い」
詩音は光一の肩に掴み掛かった。教室から出ようと歩き出した彼は肩越しに振り返る。
「何だよ」
「何だよじゃないっ! つまりその文芸部員の子は、毎日二人っきりで先生とあんな狭い部室で……二人っきりって事?」
動揺し過ぎて『二人っきり』を二回言ってしまった。
「毎日じゃないよ。文芸部の活動日は火、水、金の三日だ」
「それでも三日も先生と二人っきりになれるじゃないッ! ……許せないわ」
「やましい事してるって決まった訳じゃないだろ。部員と顧問。ただ談笑してるだけだと思うけど」
「談笑でも何でも! て、ていうかやましい事って何よ。その文芸部の子は部室で先生とあんな事やこんな事を…………嫌あああ考えたくない――!!」
(余計な事を言ったかな)
光一は片手で口を覆う。失言で、幼馴染の彼女を錯乱させてしまった。だが罪悪感はない。寧ろ吹き出しそうにさえなる。
幼馴染は好きな人の事になると、酷い妄想を経て暴走する癖がある。いつもの事だ。これは暫く傍観していた方がさぞかし楽しいだろう、と光一は椅子に座り直し、猫背になって机上で腕を組んだ。職員室に行くのは休み時間でいいだろう。
詩音は腕をわなわなと震わせた。
「嘘よ! 先生はそんな事する人じゃないわ。ああでもあたしは先生の事、よく考えたら何にも知らない。もしかしたら……うが――ッ!」
奇声を上げる詩音は頭を抱え始め、教室に入って来た男子生徒の存在には気付いていない。
ここまで先生の事を想像上で足蹴にしても、まだ好きな気持ちは変わらないのだから、一途な恋心は恐るべしである。光一はつい感心してしまった。
「決めたわ。自分で、この目で確かめて来る」
「あ、結局自分で行くの? 恭賀先生の所」
「そ、そんな事恥ずかしくて出来ないわよ。こっそり他の先生から教えて貰うわ」
「いくじなしー。恥ずかしいって事はないだろ? 先生に会うだけで何が恥なんだよ」
「ととととにかく、緊張するのよっ!」
声は高くて大きいが、多少へっぴり腰だ。陰ながら友人の偵察を見守るとしよう。
「うん、まあ頑張れ」
光一がもう自分にとって他人言だと顔に出した瞬間、詩音は足で彼の机の脚を蹴ってから、ずかずかと大股で歩いて行った。
光一は教室のドアの方を見送ってから、黒板の横で立ち尽くす級友を見る。さっきから内心はらはらしている気弱な男子に、「騒いでゴメン」と言い置いてから窓の外に視線を転じた。
「……頑張れー」
青い空に向かっての声援は、文芸部の女子宛てだ。