薫
チャイムが鳴る。午後の授業終了の鐘だ。担任が帰りのHRを早々に終わらせている事は解っているので、野沢薫は黄緑色のリュックに教科書をまとめて詰め込んだ。彼がリュックのチャックを締め切った時に担任がやって来る。
「今日もお疲れさん! 以上解散」
教卓の上に両手をバンッと載せたと思ったら、生徒が担任に視線を向けた瞬間には既にHRも終わったも同然だった。こんなに素早い終始が他にあるだろうか。しかも始まったのかさえ定かではない。さすがに不審者情報や、職員会議で決まった連絡事項などがある時は真面目にHRも行うが、それらがない時の担任の教師は異常な程速い下校前挨拶であった。
そして早く帰る事に喜びを感じる生徒が大半なので、教室の中は「今日もいつも通り」と呟いて笑う者も居た。
「さすがマモルちゃん」
「先生さよならー」
有難き担任の配慮に軽く感謝の言葉を添え、一年五組の生徒達は教室から三十分も掛からず全員出て行く。
その担任が早めにHRを終わらせる代わりに、教室から生徒はさっさと離れて俺の昼寝場所を作らせろ、という発令があるせいだ。
言い換えなければならないようだ。教師は生徒への配慮で事を俊敏に済ませるという行為では断じてない。
ちなみに薫の席は出入り口から一番近いが、教室から離れるのでは大体彼が最後だ。教室から逸早く出た後に、廊下の窓際の壁に寄り掛かって携帯をいじる習慣がついているからである。
担任は教室で一人取り残され、というか敢えて一人になる時間を作って、今日も夕陽を浴びながら優雅に過ごすのだろう。薫は夕刻の教室の何が有意義なのか理解出来ないので、心の中で担任を『変人』と呼んでいる。
ガララッ
と考えていたら、当の本人が急に廊下に出て来たのだった。
「……先生」
「何だ、まだ帰らないのか」
誰彼構わず話し掛けたらそのまま立ち去ろうとしないのが、この教師の特徴だ。教師は今回に限り、教室での一人の時間を早々に終わらせたようだ。薫は嘆息をもらした。
「このクラスが帰宅時間早過ぎるんですよ。皆、上の階に上って友達待つ時間がどれ程あると思います?」
「そうかそうか。よし、大いに褒め称えてくれて構わないぞ。拍手喝采でも結構」
「それはつまり、俺が貴方を褒めろと」
「遠回しに言ってみたんだがなあ」
何処がだ。見事に直球、ストレートな自画自賛である。
薫はノリが良くないと友人の中で専らの評判だ。しかも、彼自身はそれを気にしていないのでクールと呼ばれるのは板についている。
一人は嫌いではない。寧ろ好きな方だ。友人など必要ないとまでは思わないが、常にグループ行動をするというのが薫の性分には合わないのだ。
そんな気持ちが伝わって行くから、周りは颯爽と離れて行き、薫は自然と孤独の世界に浸る事が出来る。
但し、伝わっても彼から離れていかない例外は居る。それが今目の前に居る担任と、他のクラスに居る友人である。
「野沢は誰か待ってるのか?」
教師は黒ジャージのポケットに手を突っ込んで、十五センチ程の身長差で薫を見下ろした。
「ええ。まあ」
「そうか。だがここで待ってても仕方ないんじゃないか? 誰も通りかからないだろ」
今の発言だけは薫も同意だ。友人から一緒に帰ろうと誘われる時、言うまでもなく彼はいつも待たされる方だ。それはともかく、今彼が居るのは教室煉ではあるが一年の教室はこの五組だけだ。あとは二年の教室で埋まっている。一学年は五組までしかないからだ。ちなみに一年一組から四組までの教室は四階なのだ。
だから五組が同級生の友人を待つ場所は、大抵は校門前か昇降口か四階の廊下になる。
薫はいつも昇降口で待ち伏せする派だ。そんな彼が、何故三階に留まったままなのかというと――
「ここで待て、とメールが来たもんだから」
「ここ?」
「はい」
教師は徐に頭を掻いた。
何故こんな所で待つ必要があるのか、一番訊きたいのは薫だ。友人は三階で何をしようというのだ。二年の先輩に用でもあるというのか。
「野沢君」
教師はまだ彼の前から離れる様子もなく、呼んだにも関わらず目線は廊下の突き当りを向いていた。
「呼んだなら余所見をしないで下さい」
「ああ、済まん。この教室にもう半年以上も通ったのに、自分の教室の隣に何の部屋があるのか知らないのか、と思ってね」
「隣って……」
薫は普段見向きもしない、一年五組の教室のすぐ右の教室を見遣った。左からは多目的室を挟んで二年の教室へと向かうが、右は一部屋だけ設置されているだけの――
「あの部屋、倉庫でしょう」
「ええ? 倉庫だと思ってたのか」
「だって、ノブ付きのドアの前にダンボールが積み重なってるじゃないですか。こっちから見ると薄暗いし、気味が悪くて近付こうと思わなかった」
「それは聞き捨てならないな。あそこは倉庫ではなく、れっきとした部室だ」
「あれが?」
薫が三階から離れる時、あそこから人が出てくる所も入る所も嘗て見た事がない。
「では、さぞ幽霊部員が多いんでしょうね」
「ははっ。違うよ。部員が今一人なんだ。だから文芸部員らしき子が思い至らないのも頷ける」
「文芸部……」
「あと、あのダンボールは俺のだ」
だから何故威張る、と思ったが薫は面倒になってツッコミを放棄した。
「私物を置かれて、その文芸部の人、迷惑してるんじゃ……」
「大丈夫だよ。俺は文芸部の顧問だし、彼女は大らかだから」
「せめて優しいって言ったらどうですか?」
というかこの担任が文芸部顧問など初耳だ。上から下までヨレヨレな黒ジャージは、運動部顧問を思わせる。
「そういえば、アンタ国語教師だったな」
「うん、そうだよ」
仮にも教師をアンタ呼ばわりしたので、てっきり頭でもコツかれる事を予想していたが、この人は何故か頭を撫でた。薫はすぐさま彼の手を振り払う。
「あの文芸部室が何だって言うんです」
「でも二年に用がなかったら、あそこしか目的場所ないだろう」
「誰があんな陰気臭い場所……ッ」
ベシッ!
貶しに近い言動でも無反応だった教師が、明らかに暗い部室を悪く言った途端に薫の頭を叩いた。
「な……」
「じゃあな、野沢。部活じゃないなら早めに帰れよー」
いつもの、暢気な口調だ。薫はだんだんと軽い怒りがわいてきた。
「~~ッ! 大体、顧問なら部室に居ろよ」
「君と同じだよ」
「は?」
「彼女も一人で居るのが好きなんだ。だから彼女の休憩室には頻繁に俺は出入りしない事にしている。だが最近は、部員が恋しいらしい」
教師はそう言った途端に踵を返し、大きな背中を薫に向けて階下に下りて行った。
「…………」
どうやらあの教師はその『彼女』が居る文芸部室を大事にしているらしい。
(いや、まさかな)
教師が生徒に気があるなど、ある筈がない。そんな少女漫画や美少女ゲームのような話が周囲に転がっている訳がない。薫は妄想的考えを頭から追い出した。次にやたら響く足音が聞こえたのは五秒後の事だった。
「待たせたなっ。かおるん!」
三階で待ち合わせ、と馬鹿げたメールを送ってきた本人がようやくやって来た。よくも悪びれずに笑顔で来れるものだ。
「ああ待った。そしてその今考えた呼び名止めろ。迷惑だ」
「そんな、この呼び名を邪険にすんなよ。小学生の頃に使ってた通信教材の解説キャラの名前だぜ」
「知るか。ところで何でこんなトコに呼び出したんだ」
「昇降口に居るより寒くねーし、薫の教室から一番近いから良いじゃん」
「何でこんなトコで待ち合わせなんだって訊いている」
「ああ。これ食べようと思って」
友人が白いビニール袋を掲げる。ガサッと音が鳴る袋の中には、ファーストフード店のものか、それとも最近校内でハヤりのドーナツか。どちらにせよ、菓子の匂いがしない。
「何だ、それ」
「これがここで待ち合わせした理由。と、待たせたお詫び」
「一緒くたにするな。何でわざわざここで……」
薫は口を開け放し、暫し呆然とする。友人が持ち手を広げて見せた袋の中には、お刺身がパックの中で輝いていた。
「そんな呆気にとらわれなくても、醤油はちゃんとあるから心配ご無用」
問題はそこではない。何処に学校に魚を持ってくる奴が居るのだ。
「生臭さが残るっていうから教室で食べるの許してくんなかったんだよなー。でも昼休みに恭賀先生から穴場を教えて貰ってさ。だからここで」
友人は文芸部室の方を指差した。
「……ここ、文化部の部室だぞ」
「らしいね。けど恭賀先生が月曜と木曜は誰も使ってないっていうから許可する、ってさ」
自分の知らない所で淡々と進められていた計画。何より文芸部顧問が、部員でない生徒に好き勝手部室を使わせるなど言語道断である。ちっとも顧問らしくない。
「鍵もそこで先生から借りてきたから、入ろうぜ」
友人は何の躊躇いもなく鍵を開けて、部屋の中にするりと滑り込む。
「何なんだ、あの教師」
もう半年以上HRと国語の授業と面談で付き合ってきた担任の考えが、未だに掴めなかった。
文芸部室は予想通りと言うべきか、教室の半分より小さいのではないかというぐらい狭い。友達と戯れるのには確かに絶好の場所だが。
西側には引き戸の棚が一つ。扉付きの棚が一つ置かれている。後者の棚の扉は、木の格子に透明なガラス張りなので、薫は中を覗きこむ事が出来た。文学作品ばかり並べられているのかと思えばそうでもない。薄汚れているが少女漫画やら青年漫画がある。
(漫画同好会の間違いじゃないのか)
棚から視線を外す。部室の真ん中に鎮座するブラウンの木製テーブルの上には、薄い冊子が積み上げられていた。何の気もなしに薫はそれを手にして中をペラペラ捲ってみると、歴代部員が書いたのだろう、小説や詩が部詩にして載せられていた。
文芸部という名前には、一応嘘はないようだ。
「何してんだ? 食べようぜ」
友人はテーブルの上に袋を置き、既に長椅子に座って寛いでいる。
「ここは余計に生臭くしちゃいけないんじゃないか?」
「ホントはなあ、刺身の匂いなんて残らねーよ。残ったら次の日、消臭剤持って乗り込むし」
友人は醤油を薬味醤油皿に浸して、竹の箸をパチンと綺麗に割ってから食べ始めた。
「ところで、何で刺身をチョイスした?」
「それはきほーひみふだ」
モグモグと刺身を食べる友人がリスに見えた。
「企業秘密にする必要が何処にある」
薫は友人に溜息を送ってから、今度は文芸部ノートと油性ペンで書かれたキャンパスノートを見付ける。
(最後に書かれた日付が二〇十二年一月……最近か)
ノートを開いて目についた日付を見ていると、薫の上履きにひらりと小さい紙が舞い降りた。
(これ、ノートに挟まってたんだな)
彼は紙を拾い上げる。それは二つ折にされていた。
何となく気になって中を開く。女子ばかり集まる場所の物など、本当は盗み見などしてはいけないとも思うが、彼の場合、見たものを誰にも話さなければOKと勝手な自分ルールがあった。
そこに書かれていたのは、ややネガティブ思考の文章だった。
父に「お前が居るせいで」、と言われた。その時思った、私は親ですら必要とされない人間だと。こんな小さな事で落ち込んで、泣きそうになる自分さえ嫌だった。もう何度死んでしまいたいと思った事だろうか。しかしそんな勇気もある筈がなく――その後も続きを書いたらしいが、消しゴムで勢い良く消した跡がある。随分歪な文字だ。
(余程暗い奴が書いたんだな)
それで奇妙な文は終わりかと思えば、紙の端の方にまだ消されずに残った短い文字が連なる。薫はうんざりしながらも、つい目が行ってしまった。
『――人生に絶望なんて、とっくに感じていたのに――』
「…………」
薫は一瞬、その紙を破るか、馬鹿らしいと言いながらゴミ箱に捨てるかしようと思ったが、出来なかった。
仮令どんなに残酷なものでも、そこに存在した時がある限り、なくなるものはない。破ろうが捨てようが焼却炉で燃やそうが、それで何か変わるだろうか。この紙を目の前から消し去っても、少なからず残骸は残る。これを書いた本人は心の中で押し込んできたものを、ようやっと紙に書いて掃き出せたのに。それを無下にする資格は彼にはない。
薫はハッとして、首を横に振った。
(何を考えてるんだ、俺は)
だがここで何をせずに終わらせるのも後味が悪い。それに残骸を残すくらいなら――
「! 重ねればいいのか」
薫は刺身を堪能する友人に聞こえないように、小さくぼそりと独り言を呟いてから、テーブルの上に置かれたペン立てからシャーペンを拝借する。
「勉強すんの?」
友人が薫の手を覗き込む。
「すぐ出て行くからやんねーよ。その刺身残しておけよ」
だが言うのが少し遅かった。刺身はもう残り五盛り程しか残っていない。
刺身が全部なくならない内に、薫は紙にペンを走らせる。彼は短い文の横にまた短い文を書き添える。書き終わると紙を二つに折り直してノートに挟んだ。
「何?」
「……お前次にマックでポテト頼んだ時、全部俺に寄越せよ」
「ええ~」
友人は力ない声を発して、テーブルの上に顎を乗せる。薫は友人の向かいの長椅子に腰掛けて、残り少ない刺身を食べ始めた。
(書いた時点で、絶望も何もないだろうに)
〝彼女〟は望んでいるのだと薫は確信したのである。少しだけ、たった一人の文芸部員とやらの顔を見てみたくなった。