詩音
「しおーん、帰ろう!」
元気の良い友人の声を背中で受け止め、碧川詩音は背後を振り返った。
「廊下で大声は響くよー。それはそうと、あたし行く所があるんだ。ごめん先帰ってて」
「ええ? 何処?」
「ん、ちょっとね。内緒」
「何だあ。せっかく『ボンヌフ』のお店に誘おうと思ってたのにィ」
『ボンヌフ』という店に詩音は行った事がないが、友人達から話は聞いている。パン屋らしいが、スーパーマーケットの中にあるミニカフェらしい。スーパーの外にある焼き鳥屋なら行くが、中のパン屋は大抵素通りする事が多い。しかし最近美味しいドーナツが新商品として販売されたらしく、学生の中ではひっそり評判になっている。一度、行ってみたいとは思っていた。
しかし、今の詩音には他にもっと大切な事があるのだ。
「今度もう一回、絶対誘って。明日なら多分大丈夫だから!」
「そ? 解った、じゃねー」
気が利く友人は白いマフラーを揺らして、詩音の前から離れて行った。
「ふう」
さすがに友人といえど、こればかりは誰も誘えないし連れて行けない。実際はすぐに済む用事なのだが、友人を待たせるという行為は出来ればしたくないのである。
詩音はドーナツを惜しみながらも、目の前にある階段を降りて行った。
彼女が行き着いたのは三階の『1-5』と書かれた札が掲げられるドアの前。白いドアにはガラス張りが設置され、中からはカーテンが引ける。今はカーテンは横に寄せられて、ガラスに張り付けば一年五組の教室が一望出来た。詩音は何の躊躇いもなく、ガラス越しの教室の中をこっそり覗き込む。
生徒は、居ない。この一年五組である友人が、担任は帰りのHRも逸早く終わらせてくれるのだと話していたのを聞いた事がある。だから一組の詩音が教室を出る頃には、大体五組に生徒は残っていない。居座る生徒が居ないと言って良い。
だが誰も居ないからという理由で、詩音は五組に来る訳ではない。〝居る〟からである。
HRを終えると、生徒は教室で残る用事は殆どない。それは担任の先生にも同じ事が言える。しかしこの一年五組の担任だけは、大抵十七時ぐらいまで教室に居座り続けているのだ。
そう。それが彼女の目的である。彼が居るからここに来る。
彼の名前は恭賀護。一年五組と国語を担当する、詩音の想い人だ。
(ああ……カッコイイなあ)
詩音は何とか彼に気付かれない様、鼻から下はドアで死角にした。彼はそんな彼女に気付く事なくベランダに出て、何処に忍ばせていたのか、缶コーヒーをぐいっと一気飲みする。
彼是こんな行為は十月から続いている。年末年始は冬休みで彼に会う事は出来なかったが――正しく言えば会ってはいないが――冬休みが明けて二日目、ようやく彼を拝めるのであった。
彼女が彼に好意を寄せるようになったのは、九月末からだったと記憶している。それまではそもそも周りから恭賀先生と聞いても顔も解らなかった。何故なら彼の国語の授業を受けられるのは、一年生の中でも二、三、五組だけだからだ。一組の詩音にはまるで顔を見る機会などなく、話す機会もなかった。
ところがその日は突然やって来た。九月に行われた体育祭の時である。当時、詩音は丁度体育祭実行委員を務めていた。彼女と彼は体育祭で使った大縄用の縄やリレーで使ったバトンなどを体育倉庫に入れる係で、その時に初めて言葉を交わしたのである――それだけだ。しかし惚れるきっかけとして充分だった。
優しい声音なのに何処か力強く、男子にも女子にも、同僚にも好かれるであろう気前の良い性格。聞くと彼は教師陣の中でも結構人気があるらしいのだ。
基本は少女漫画育ちの詩音には、四十路過ぎといえど、彼はヒーローだった。顔もなかなか男前である。
それから一途な恋心を大事にし、遂には今に至る。HRでも授業でも会う事などない彼の顔を見る唯一の機会が放課後だ。実は、いつか彼が自分の存在に気付いてくれる事を少しだけ望んでいる。だが我ながら、ストーキングのような事をしているとも思う。彼が詩音に気付いたとして、果たして快く彼女を迎えてくれるだろうか。引かれる確率の方が高いのではないのか。このようにネガティブ思考に陥り、結局彼に話し掛けられないのであった。
(見つめる日々が続くだけなのかしら)
彼は空になった缶コーヒーを教卓の上に置いてから、折り畳み椅子に腰掛ける。座ったまま腕組をして目を瞑り始めた。どうやら一旦仮眠するらしい。
(こっそり近付いたら、どんな反応するかな……)
だがそんな事は出来る筈がない。どうにも好きな人に近付く勇気が出ないし、せっかくの彼の休憩時間を奪うのも躊躇われる。
詩音はそろそろ教室の前から離れる事に決めた。十七時になるまでの丸々三十分、ずっと廊下に居る事もあったが、人通りがすくないとはいえある事が解ってからは、長くても五分後には退散するようにしている。――そう踵を返した時だった。
ガラガラガラッ!
「!」
何処かの教室のドアの開閉音だ。耳に響いて鼓膜が震える。何と、開かれたドアは詩音のすぐ後ろだった。
「お?」
「え?」
詩音と背の高い男性の二人の間に沈黙が起こる。あれ程近付きたいと思っていた、彼が彼女のすぐ目の前に居る。
「な、なななな……ッ」
詩音は思考が停止するのではないかという動揺ぶりで、頭から火が出そうになった。こんなに近くで彼の顔を見たのは、初めて話した時以来だ。
「あ、あのあの……」
声が自然と小さくなる。柄でもなくもじもじとする詩音を、彼は首を傾げながら暫く見ていた。
「忘れ物……の生徒ではないよな。うちのクラスじゃないし」
「は、はい」
「えーっと、何処かで会った気がするんだが。失礼だがこれを機に名前を教えてくれないか?」
どうやら彼の方は、体育祭の片付け作業で一緒になった記憶が曖昧らしい。少しショックを受けながらも、詩音は高鳴る鼓動を片手で抑えながらそっと口を開いた。
「碧川詩音、です」
「碧川さんな。了解。確と覚えておくよ」
彼はふざける様に敬礼をしてみせてから白衣のポケットに手を入れて、詩音の前から離れて行く。詩音はやや遅れてから、彼の背中を見送った。
(話せた、あたし、話せた……!)
ずっともう一度、言葉を交わしたいと思っていた。まさか三学期早々に叶うとは思っていなかった。
(今年は、きっと良い年になるわ!)
そう確信した。彼に自分を確り認識して貰えた。それだけで今夜は良い夢が見られそうだ。
足取り軽く昇降口まで向かおうとしたその時、詩音は足を止めた。
(ん?)
彼が向かった方向は、昇降口でも職員室でもない。確か彼が向かう先は行き止まりの筈だ。では何処へ――?
詩音は身を翻した。一年五組の教室の隣には――一枚のドアがある。今初めてその一室の存在を知った。
「教務室? 違うよね、じゃあ――」
倉庫でもない。ドアに付いているノブには紐が引っ掛けられて、その紐にぶら下がっているのは木板である。その板には明らかに『文芸部室』と書かれてあった。
「しかも毛筆で……なーんか古臭くて不気味なカンジが」
詩音は五秒後、すぐさまそのノブ付きのドアから離れた。ドアは急に開き始め、中からは今別れたばかりの彼が出てきたのだ。
(ひえっ)
反射的に近くの積み上げられていたダンボールの後ろに隠れる。彼は一体この部屋で何をしていたのか。だが、出てきたのは彼だけではなかった。
「冬はすぐ暗くなるから嫌です」
「でも羽美ちゃんは暗い所は案外平気っぽいな。こんな端っこで一番暗いトコで一人で居るなんて、何処の引きこもりだ」
「でも、夏は風通しが一番良くて、涼しいんですよ」
「まあそういう意味では穴場だが」
彼の隣には女子生徒が居た。上履きの爪先の色が青だから同じ一年生である事が解る。
その女子生徒は文芸部室の鍵を掛けると、彼と並んで歩いて行く。詩音は彼らを、ただ呆然と見つめたまま、暫くそこから動けなかった。
「並んで……先生と、並んで……ッ」
わなわなと握った拳を震わせて、詩音はすぐさまブラウンの革鞄から携帯電話を取り出して、十番に掛けた。五回コールで相手が電話に出る。
『もっしもーし。どしたの、しおーん?』
「杏!? 今からあたしスーパー行くから待ってなさい! 自転車飛ばしてミスドに乗り込むから!」
『いや、店の名前ってミスドじゃなくてボンヌフ……』
「どっちでも良いわよっ。いいからドーナツ食べに行くからね今すぐ!」
『う、うん』
電話を切る。友人の引き気味だった声は今は気にしていられない。詩音は現在、猛烈にやけ食いをしたくなった。
「何なのよあの子――――ッ!!」
詩音の怒りの叫びは校舎に響いて反響した。