第八十六話 怪鳥
「チュートニア……⁉︎」
思わず声を大きくしたぼくに、シーアは真剣な顔でうなずいた。
「俺は昔この道を通って、アディス、そしてアイオリアに行った。この辺りは山道で警備が手薄だからな」
ぼくは、町長がチュートン王国の貴族からひいきにされていると言っていたのを思い出した。それに、屋敷の兵士やぼくたちを買った男のマントについていた火を吹くドラゴンの紋章は、チュートニアのものだとアーサーが言っていた。だからこの馬車がチュートニアに向かっているというのは、十分に納得できることだった。だけど、まさかこんな形で行くことになるなんて――残り二つの宝玉が眠るチュートニアに、そして、シーアたちエルフの故郷であるチュートニアに。
「あんたたち、うるさい」
ぼくたちの会話に突如割り込んできたのは、ハスキーな女の子の声だった。さっきから荷台の隅で、うつむいて座っていた子だ。顔を上げると、歳はたぶん十四歳ぐらいで、赤毛のショートカット、そばかすの散った顔をしていることがわかった。
「アイオリア語が話せるのか」
「少しだけ」
彼女は、ラーヤと名乗った。フォーブリアの南東に位置する村の出身で、村が魔物に襲われたので森をさまよっていたところ、何者かにさらわれたらしい。ぼくは、フォーブリアに着く前に寄った、屍だらけの村のことを思い出して胸が痛んだ。ただでさえ窮地に陥っている人々に、町長はなんてひどいことをするんだろう。
ぼくたちに「うるさい」と言ったラーヤだったが、その後もアイオリア語で話をしてくれた。なんだかんだ言って、彼女も話したかったのだろう。
この荷馬車に乗っているのは、ぼくたちを含めて十人ほど。年齢も性別もばらばらだ。ラーヤの発言に触発されてか、みんなぽつりぽつりとここに来た経緯を話し始めた。ラーヤのようにさらわれたり、借金のカタに売られたり、仕事がもらえると騙されて来たり。みんなさまざまだった。
「あんた、エルフだよね」
シーアを見ながら、ラーヤが言った。シーアは一瞬顔をこわばらせたが、彼女は無害と判断したのか、おとなしくうなずいた。
「エルフ、売られてる。高い金で」
「ああ。フォーブリアでもエルフが売られているらしい痕跡を見た」
そう言いながら無意識な様子で胸元に手をやり、シーアは歯噛みした。ぼくははっとした。
「シーア、指輪が……!」
「ああ、やられた」
エルフの組み紐模様のついた腕輪をはめていた町長。抜け目なくシーアの指輪も奪っていたらしい。タレスの商店で、チュートニアに面する海岸で拾ったという触れ込みでシーアが買ったものだ。シーアがぼくたちについてくるきっかけとなった、今でもエルフがチュートニアに存在することの証。海に落ちたときでさえ失くさなかったというのに、こんな形で奪われるなんて。ぼくは悔しくてたまらなかった。
「エルフ、集められてる。うわさ聞いた」
「集められてる……?」
ラーヤはうなずいた。だけど、それ以上のことはわからないようだった。
「チュートン王国の貴族とやらは、そんなに人を集めて、どうする気なんだろう?」
あの男は、エルフであるシーアを含めて、ほぼ全員を買っていった。町長をひいきにしているということから考えても、ずっと人を買い続けているということだ。シーアの言う通り、ただ農園や鉱山で働かせるのかもしれないけど……。
シーアがぼくの疑問をアディス語に通訳して話したが、みんな首を傾げるしかなかった。
馬車はどんどん登っていく。標高が高くなるにつれ、気温は下がっていった。しばらく無言でぼんやりとしていたぼくたちだったが、ふいにシーアが、おい、とラーヤに声をかけた。
「縛られてるから上着は貸してやれねえけど……寒いなら俺たちにひっついてろよ」
よく見ればラーヤは肌着しか着ていなかった。村で寝ているところを魔物に襲撃され、そのままさらわれたからだろう。
シーアの意外な言葉に、ラーヤはもちろん、ぼくも驚かされた。人間嫌いのシーアでも、同年代の、同じような境遇の女の子を無碍にはできなかったらしい。
「へへ、ありがと」
ラーヤは荷台の隅からにじり寄ってきて、ぼくとシーアの間に潜り込んだ。ボサボサの赤毛の髪からは干し草のような匂いがして、ぼくはなんだか暖かい気持ちになった。
やがて辺りは薄暗くなってきた。馬車のなかからでも、外の鬱蒼とした様子がわかる。道中いくつかの小さな村を通り抜けたが、次第に人影はもちろん、道さえ見当たらなくなった。
「あたしさ、……」
ラーヤがなにか言いかけたとき、突如、馬が激しくいなないた。耳をつんざくような甲高い音とともに、複数の人間の叫び声が聞こえる。なんだなんだとざわついているうちに、馬車が大きく横倒しになった。ぼくたちは互いにぶつかり合い、壁にもぶつかった。幾度も跳ね上げられ、視界が真っ暗になり、わけがわからなくなった。
「いたたた……」
顔にひんやりとした感触を感じながら、ぼくは目を覚ました。ぼくはどういうわけか、黒土の上にうつ伏せで寝そべっていた。のろのろと顔を起こすと、遠くに横倒しになった馬車が見える。荷台の扉は外れていて、ぼくは外に放り出されたらしかった。あちこち痛むけど、幸い、大きな怪我はないようだ。ぼくはすぐにさっきまで傍にいた二人の名前を叫んだ。
「シーア、ラーヤ、大丈夫ー⁉︎」
「ここだー……」
シーアの返事はすぐに聞こえた。彼も近くに放り出されていたらしい。木々の間に、立ち上がろうとする紫髪の後ろ姿が見えた。ラーヤの名前ももう一度呼んでみるが、返事がない。
シーアと合流し、ぼくたちは急いで倒れた馬車のほうへと歩み寄った。そこには信じられない光景が広がっていた。ぼくたちの乗っていた馬車のみならず、先行していた金色の馬車もめちゃくちゃに壊れていて、あちこちに黒マントの兵士の死体が転がっていたのだ。死体、と断言できるのは、絶対に生きていないとわかるほどむごたらしい状態だったからだ。彼らは顔面やはらわたをえぐり取られていた。ぼくは思わず吐瀉してしまった。
「どうしてこんなことに……?」
「危ない!」
ぼくはシーアに突き飛ばされた。ぼくの立っていた地面に、なにかが突き刺さる。それは大きな鳥の鉤爪だった。視線を上げると、ぼくの身長と同じくらいの大きな鳥がとまっている。いや、それは鳥のような羽と鉤爪はあるものの、人間の女のような顔と胴体をした、言わば怪鳥だった。亡霊のような青白い顔とは裏腹に口は真っ赤な鮮血にまみれて、肉片のようなものをくわえている。やつは白目のない目でこっちをじっと見据えると、耳の割れるような奇声を上げて、再び飛び立っていった。よく見れば、付近の上空を同じやつが何羽も飛び回っている。死体や倒れた馬に群がって食らいついているやつもいた。
「魔物⁉︎」
「らしいな」
シーアは死体のそばに落ちた抜き身の剣に近寄り、縛られた手のロープを器用に切った。そして剣を拾うと、ぼくのロープも切ってくれた。
そのとき、倒れた荷台のほうから人の声がした。
「***」
「****!」
一緒に馬車に乗っていた囚われ人たちだ。荷台から這い出た四、五人の彼らは、周りの様子を見て、歓喜の声を上げていた。逃げるチャンスと思ったらしい。手のロープを切ることさえ忘れて、大急ぎで山道を駆け下りていく。だけど、結果は火を見るより明らかだった。いくら見張りが死んだからって、魔物に囲まれたこの状況で、縛られたままで、武器もなしに逃げられるわけがない!
「待て、魔物に殺されるぞ!」
シーアの忠告むなしく、彼らの後を何羽もの怪鳥が追う。すぐに森のなかから悲鳴が聞こえてきた。
貴族らしき白髭の男は、猛然と大剣を振り回していた。まだ生き残っている護衛も男の周りを取り囲んで戦っている。彼らの腕前は大したものだが、飛び道具がないので追い討ちをかけることができず、襲いかかってきたところを切りつけるので精一杯のようだ。ぼくとシーアもそれぞれ拾った剣で応戦していたが、魔物の数は全く減ることがなかった。ぼくたちは互いに話をすることもなく、ひたすら怪鳥を追い払う作業を続けていた。
この不毛な戦いはいつまで続くんだろう?
三十分ほどそうしていたかもしれない。魔物たちは、ぼくたちが力尽きるのを待っているようだった。時折、護衛たちのなかから悲鳴が上がった。少しでも隙を見せたら、鋭い鉤爪に肉を持っていかれてしまう。疲労と緊張が限界に達していた、そのとき。
「あの〜、これ、使いますか?」
場違いに間延びした声に振り返ると、薄灰色のローブを着た男が近くの大きな石に座って、他人事のように悠然とこちらを見ていた。なんと、手には弓を持っている。
「おっとぉ、よそ見したら危ないですよ?」
よそ見の元凶である彼は悪びれることもなく言った。そして「よっ」と石から飛び降りると、ぼくたちに迫っていた魔物の腹を直接蹴り飛ばした。よっぽど強い蹴りだったらしく、魔物は地面に墜落した。唖然とするぼくたちをよそに、男は腰に差した短剣で地面に転がる魔物を突き刺した。
ぼくはそのローブ姿にうっすらと見覚えがあった。確か、さっきまでぼくたちが乗せられた荷馬車を操縦していた御者だったはずだ。無事だったらしい。
「早くそれをよこせ!」
シーアは奪い取る勢いで御者から弓と矢を受け取った。なぜか一瞬だけ怪訝な顔をしたものの、彼はすぐに慣れた手つきで矢をつがえた。魔物は鳥にしては大きいとはいえワイバーンほどの大物ではなく、シーアに弓を持たせたらこんなやつら敵ではない。森の木々に邪魔されるのをもろともせず、姿を現した瞬間に次々と射落としていった。
魔物はみるみるうちに数を減らしていった。白髭の男や部下たちはシーアの戦いぶりに目を見張っていた。ぼくは矢をすり抜けてこちらに飛び込んできた魔物を切りつけて、シーアの援護に徹していた。
そうしてもう三十分ほど経過したころ、ようやく森は元の静けさを取り戻していた。と言っても、あたりにはすでに無惨としか言いようのない光景が広がっている。ぼくは血の匂いと疲れで再び吐瀉してしまった。もう吐くものもなかったけど。
戦いの終わりを察したように、荷台から一人の小柄な人物が転がり出てきた。肌着を着た赤毛の女の子――ラーヤだ!
「終わっ、た……?」
「ラーヤ! 無事だったんだね。ああ、よかった!」
ずっと横倒しになった荷台のなかに隠れていたらしい。彼女は少し怪我をしていたが、元気そうだった。ぼくたちの顔を見るやいなや、満面の笑みで駆け寄ってきた。
しかし安堵の声はすぐに悲鳴に変わった。白髭の男がラーヤにつかみかかり、首元に剣をつきつけたのだ。チュートニア語らしき言葉でこちらに向かって叫ぶ。言葉がわからないぼくにも、ラーヤを盾に、ぼくたちに武器を捨てるよう要求していることは明らかだった。そばかすの浮いた顔のなかで、琥珀色の大きな瞳が懇願するように見開かれていた。
護衛のほとんどは死んでいる。魔物はもういないし、こちらには武器もある。今度こそ逃げる絶好のチャンスにちがいなかった。そもそもラーヤはさっき知り合ったばかりの女の子で、ぼくたちにとってなんの関係もなく、脅しに屈する義理もなかった。
だけど――。
――だけど、ぼくとシーアは迷うことなく武器を捨てた。
白髭の男はズカズカと歩み寄ってきた。そして捨てられた武器を蹴り飛ばすと、シーアの胸ぐらをつかみ上げた。なにかを言われ、シーアは驚いた様子でなにかを答えていた。男から手を離されると、シーアはその場にへたり込んだ。ぼくは急いで彼に駆け寄った。
「なんて言われたの?」
「怪我はないか、と聞かれた。そして、城まであと少しだから、頑張って歩け、と言われた……」
ぼくたちは山道を列になって歩き始めた。
結局生き残ったのは白髭の男と、護衛の数人、ローブの御者、買われた人たちのなかではぼくとシーアとラーヤの三人だけだった。いや、正確にはまだ息のある人もいたが、歩けないほどの怪我をしている人は護衛と虜囚の区別なく置いていかれた。かわいそうだけど、囚われの身のぼくたちになす術はなかった。